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第1話
身体が水面に浮上し、一面の青い空が視界を満たす。波は穏やかに時折、仰向けになった身体を揺らしていく。僕は、小さな雲が頭上を通過するのを、ぼーっと見ていた。
何故だろう。あんなことがあったばかりのに、心が静かだ。船内を逃げまどう人々、身を寄せ合う夫婦、泣き崩れる若い女の人…そんな中で、お父さんとお母さんは、落ち着いて、やさしい声で僕に何かを伝えていた。何を、伝えてくれていたんだろう…
首筋に何か硬いものが触れる。僕はそれを握って思い出す。ああ、そうだ、これを二人からもらったんだった。水色に光る石が入ったペンダント。それを顔の上に持ち上げると、太陽の光でキラリと光った。
「キレイだな…」僕は、不思議と微笑みを浮かべていた。
もう一つ不思議だったこと。海の水に触れているのに、僕は生きている。呼吸もできるし身体も動く。
視界の端で何かが動いた。顔を向けると、黒くて大きな生き物が、水面から顔を出し、僕を見つめていた。それは僕の周りを、まるで僕を守るように、静かにぐるぐる回っていた。
「ねぇ、僕のお父さんとお母さんは、どうしたの?」
なぜか僕は、当たり前のことのように、その生き物に問いかけた。返事はない。
言葉が通じないわけじゃない、答えてくれないだけなんだ。それがわかると、今までクリアだった青空が滲んでくる。目からあふれた涙は海の水に抵抗なく溶け合う。まるで、そこがもと来た場所のように。
そうか、僕らも、海と同じものでできていたんだね…
遠くから、ヘリコプターの音が聞こえる。
「こちら第3航空救助隊、海面に浮かぶ子供を発見。…かわいそうに、もうだめだろうな…」
「いや、待て、動いているぞ!生きてる!」
「なんだって… だって、体が海水に浸かって…」
「早くゴムボートを下ろせ!耐水スーツを用意、急げ!」
隊員たちを乗せたヘリコプターが海面に近づくと、黒い生き物は、すーっと水に潜って姿を消した。
**************
「ナオ君、ズボン、それでいいのかい」
お茶をすすりながらヒサが問いかけると、廊下を走っていたナオは急ブレーキをかけて立ち止まる。視線を下に向け、自分がまだパジャマのズボンを履いていることに気づく。
「うわ、しまったぁ」
そう情けない声を出して、ナオは自室に駆け戻る。朝に弱いナオにとってはよくある失敗。自室でパジャマのズボンを脱ぎ、制服のズボンを探す。が、いつも脱ぎ捨てている場所に今日に限って見つからない。
「あれ、なんで見つからないんだ。昨日脱いだ時は、えっと…」
机の上の時計を見ると、登校時間まで15分を切っていた。ここから中学校まで歩いて20分、全力疾走でも10分はかかる。
「ナオ君や、電動歯ブラシ見んかったかい」
「うわっ」
驚いて後ろを見ると、ヒサが部屋の真ん中に立っていた。そして自分は下半身にパンツしか履いていないことを思い出し、ナオは赤面する。
「ちょっと、ばあちゃん、勝手に入ってこないでよ!」
「この前買ったやつ、どこ探しても見つからんのやわ…」
「僕の部屋にそんなもの無いからっ…」
ヒサを無理やり部屋から押し出し、襖をぴしゃりと閉める。その振動で机に山積みになっていた本達が、雪崩を起こして畳に散らばった。それはどれも海の生き物の図鑑や、海に関する研究書。部屋の壁には魚やクジラをリアルに描いたポスターが貼られていて、まるで学校の理科室のような雰囲気を醸し出していた。
「あった!」
散らばった本の下に黒い制服のズボンを見つけ、ナオは急いでそれに足を通す。そういえば昨日、床を掃除したときに、散らばっていたものを机に置いたんだっけ。
勢いよく部屋を飛び出したナオは、話しかけようとするヒサの目の前を通り過ぎて玄関へ…と途中で方向転換し、居間に入り、隅に置かれた小さな机の前で正座した。
「父さん、母さん、行ってきます。」
机の上には、幼いナオと、その両脇で微笑む男女の写真が置かれていた。横にある鐘をキンと鳴らして手を合わせると、家はつかの間の静寂に包まれる。
「じゃ、ばあちゃん、行ってくるね」
そういってナオは玄関の引き戸を開けて、靴に足を突っ込みながら歩き出す。太陽の光を反射して、胸元のペンダントがきらりと海の色に輝いた。
「いってらっしゃい、帰りに買い物お願いね。」
目を細めて手を振るヒサに、玄関から出て振り返り言った。
「ばぁちゃん、電動歯ブラシは台所で充電中、でしょ。」
「ああ、そうやった」
ヒサは手をポンと叩いた。
家の門を出る。空を見上げると小さな綿雲が浮かぶ、夏空。蝉の声が四方から聞こえる。走りだそうとして、ふと大きなものが視界の隅に入った。
見ると、荷物を載せた軽トラックが、隣の家の前にとまっていた。首にタオルを巻いてタンクトップを着た運送屋の男性が、ちょうど段ボールを抱えて階段を登っていく。以前老夫婦が住んでいたが、体調を崩して引っ越していったきり、長い間空き家だった。誰かが引っ越してきたのかもしれない。
新しい住人に興味はあったが、急いでいたことを思い出し、ナオは走りだした。
ナオが通うのは、1学年の生徒数が30人に満たない、島の小さな中学校。殆どの生徒が、古い民家が立ち並ぶ迷路のような路地を歩いて通っていたが、ナオにはお気に入りの近道があった。それは海岸沿いの堤防の上に造られた道。家から学校まで最短距離である上、人通りは皆無で町を通るよりも歩きやすい。道を挟んで海の反対側には、鬱蒼とした松林が町を守るようにあった。
磯の匂いを感じながら、誰もいない海岸線を走る。少し息苦しくなるが、今日は弱い風が海に向かって吹いているから大丈夫そうだ。さすがに海からの風が強く吹く日は、この道を通ることはできない。
学校に近づくにつれて、自然と足が遅くなる。家から走ってきて息切れしたのもある。でも、それだけではない。気持ちが落ち込んでいく。まるで、向かい風に押されるように、足が動かなくなる。それでも、今日は学校で何も悪いことが起こらないで欲しい、そう祈りながら歩を進めた。
なんとか登校時間には間に合い、教室に入る。ナオの表情に家での明るさはなく、俯いたまま、なるべく目立たないように、静かに席に着いた。それを誰も気に留めていないかのように、まるでナオが存在しないかのように友達との会話を続ける。
…もし本当にそうなら、どんなに気が楽だっただろう。
女子達の囁き声が聞こえてしまう。
「えっ、来たの?」
「よく来れるよね、尊敬する」
窓際の席に集まっている男子がニヤニヤ笑っている。
「マジかよ」
「能天気にもほどがあるだろ」
始業のチャイムが鳴り、担任が入ってきた。生徒たちは会話をやめ、席に着く。これで午前中は授業を受ければ良いだけだ。つかの間の安寧に、ナオの気持ちは少し楽になった。
昼休みになり、担任が教室から出ていくと、教室の雰囲気は一変する。まるで、これまでの平和の代償を払う時が来たことを宣言するようなチャイムが鳴り響く。
「六実くーん、今日給食当番だよ」
女子の一人にわざとらしく大きな声で自分の名前を呼ばれ、ナオはびくっと身体を震わせる。
「あ、ごめんね、忘れてた…」
別に忘れていたわけでは無い。むしろ今日当番であることが気になって1時間目から腹痛が続いていた。そして自分から進んで配膳を行うよりも、誰かに言われてからのほうが、まだ周りの抵抗も少ないかもしれないと、自分なりに考えた結果の、忘れたふりだった。
しかし、そんな期待は簡単に砕かれる。
「アイツが用意した給食とか、食べられないっしょ」
「呪われるんじゃない?」
「味噌汁が海水になって、食べたら死んじゃうよ」
配膳を始めると、そんな言葉が次々にナオに浴びせられる。
こんな時、どういった反応をすればいいのかは、わかっている。
「あはは…」
そう曖昧に笑って流すのだ。決して相手を否定も肯定もしてはいけない。誤魔化して、時が過ぎるのを待つ。そうすれば、そのうち相手は飽きて別の遊びを見つける。
なんとか配膳を終え、自分の分の給食をお盆に乗せて席に戻る。机の上に赤いマジックで書かれた文字が目に入った。
『島から出て行け』
『学校来るな』
味のしない給食を食べ終わる。荷物をまとめて、体調不良と担任に伝え、学校を出た。
大通りと呼ばれる、島に1本しかない2車線の道路を歩く。晴れた夏の午後、日差しがじりじりと照り付け、建物の影を選んで歩かなければ倒れてしまいそうだ。商店の中から幾人かの視線を感じ、足早に通り過ぎる。
こんな時、ナオが行くところは決まっている。脇道に入り、急斜面に密集して建てられた家屋の間を上へと登っていく。一番上まで来ると、更に山の上へと続く古びた階段が姿を現した。
階段は所々が崩れていて、灯篭や鳥居の一部だったと思われる石材が、崩れてあちらこちらに転がっている。『立入禁止』と書かれたバリケードの脇をすり抜けて、ナオは階段を登り始めた。
一段登る毎に、少しずつ街の音が遠くなって、代わりに波の音が聞こえてくる。深呼吸すると、潮の匂いが空気が胸に満ちていく。自然と足取りも軽くなっていった。
階段を登り終わると、目の前に広い空間が現れた。右手には神社。長い間手入れがされてないようで土壁は所々剥がれ、木の柱が腐り建物自体が傾いている。雑草が茂る前庭を挟んで、左手の眼下にはキラキラと輝く海が広がっていた。ざぁっと海からの風が駆け抜けていく。
ナオは神社の向拝に鞄を置くと、その横に腰を下ろした。ここに座れば海が遠くまで見渡せる。膝を抱えて水平線をぼーっと眺める。海の中はどんな世界なのか、どんな生き物がいるのか。そんなことを考える。嫌なことを忘れられる、自分だけの時間と場所。
人間は海水に触れることができない。触れれば海水は皮膚に浸透し、その部位の細胞は壊死してしまう。さらに海水が血管にまで到達すると、血液によって全身にまわり、呼吸器官などの内臓が機能不全を起こし、窒息死する。それまでにかかる時間はわずか十数秒とされている。
「ずーっと昔、人間がまだいない頃、地球は海に覆われておった。」
ナオは幼いころ、ヒサがまだこの神社の祭司を務めていたころ、聞かされた神話を思い出していた。
「うみ?りくはなかったの?」
幼いナオは好奇心に満ちた目でヒサに尋ねる。
「ああ、だから海神様がこの地球を治められていた。そのうち海の水が減ってきて、陸地ができた。その陸地を守らせるために海神様は人間を造られた。この時はまだ、人間は自由に海に入り、海の生き物たちと泳ぐことができた。しばらくは海神様の言いつけを守り海を敬っていたが、そのうち空に憧れを抱いてしまった。そして人間は雲を突き抜ける塔に登り、その頂上に遺されていた、第一の『贈り物』、言葉を手に入れた。」
「ことば?よかったね!」
「ああ。それで人間の社会は大きく進歩した。けれど、人間同士の言葉を手に入れたことで、海の世界との意思疎通ができなくなってしまったんよ。人間社会は陸上で独り歩きを始め、国が分かれ、争いが増えた。今のように大陸に住む恵まれた人たちと、わしらのように島に住む貧乏人に分かれたのも、このころだよ。海神様は海を守るために、海水を人間が触ることができないものへと変化させて、人間との関係を断たれた。」
それでも海への信仰は千年近くに渡って一部で細々と続き、この神社もここに残っている。しかし五十年前、第二の『贈り物』が発見されると、空への信仰は一層強まり、ヒサが祭司を引退した後、神社を管理するものは誰もいなくなっていた。
いつの間にか日が傾いてきたのに気づく。木々に囲まれたこの神社の境内は、夏でも午後3時頃を過ぎると徐々に暗くなる。ナオは鞄を肩にかけ、立ち上がった。
家へ向かう足取りは、学校へ向かう時とは対照的に軽い。途中で買った夕飯の材料を手に提げ、少し鼻歌交じりで坂を上っていく。家の前に近づくと、ヒサが門から出て、知らない男性と話しているのが見えた。
「お帰り、ナオ君。ちょうどよかったわ、ほれ、こちら灰原さん」
そう紹介された覇気のない中年男性は、軽く頭を下げた。
「隣に引っ越してきました灰原です…よろしく。」
「あ、はい、こちらこそ、よろしくお願いします…」
ナオもぎこちなくお辞儀をしながら、今朝トラックが停まっていたことを思い出す。
「灰原さんとこも中2の男の子いるんやて、ナオくんと同じクラスやね。」
「ええ…まぁ…」
男性は早く会話を切り上げたいといった感じで適当な相槌を打つ。ヒサは気にせず話を続けようとするが、居心地が悪くなったナオは適当に会話を終わらせて、玄関に入っていった。
その夜は大陸からの電力供給が不安定なため、一般家庭では電気を使うことができず、島は闇に包まれていた。ナオはランタンの頼りない明かりの中で、手際よく夕食の準備をしていく。
「今日のメニュー、何だったかいの?」
奥の和室からヒサの声が響く。
「さっきも言ったでしょ、オクラと豚肉の炒め物ときゅうりの酢の物。あぁ、今から火使うから、こっち来ないでよ。」
そう言ってバーナーにマッチを近づけると、ほの暗い台所に、小さな青い炎が灯った。
「最近、電気よく止まるよね。」
「そりゃ、大陸のほうは人も機械も増えてるからやろ。二つ目の『贈り物』でできた新しい発電所…あれ使っても、島に分ける余分はないんやろ。」
夕食を二人で食べる。夜とはいえ、真夏にクーラーも扇風機も動かないとなると、かなり辛い。冷感効果のあるという座布団を敷いて、清涼感のあるメニューにしたつもりだったが、それでも箸は進まなかった。
「大陸に住んでれば、もっと快適に暮らせたのかなぁ」
「どうやろな、なんでも便利で安全で、長生きできるっちゅう話じゃが…まぁ、考えたところで、わしらが向こうに行けるわけでもないしなぁ。あ、醤油取って。」
酢の物に醤油をかけながら、ヒサは思い出したように言う。
「そういやさっきのお隣さん、大陸から越してきたって言っとった。」
「えっ、大陸から島に?珍しいね。」
「まぁ色々あったんかもしれんな。息子さんとも仲良くしてあげてや。」
「…うん、そうだね。」
ナオは曖昧に笑って箸の先を見つめる。学校でのことは、ヒサには話していない。楽しく過ごしていると思っているのかもしれないし、島の人々のこの家に対する態度から、なんとなく本当のことをわかっているのかもしれない。
でもそれで良かった。別の島に引っ越すお金は無いし、家の歴史を変えられるわけでも、みんなの考えを変えられるわけでもない。そんな達観とも諦めともつかない気持ちが、いつのころからか傍にあった。
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