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第2話
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朝のホームルームにいきなり現れた転校生に、大きなどよめきは起こらなかった。小さな島だ、誰かが引っ越してきたことは、昨日のうちに島中に知れ渡ったのだろう。
メガネをかけた小太りの教師が、黒板に名前を書く。その横で、男子生徒が無表情で立っていた。背が高く、細身だが体つきはしっかりしているため、高校生と言われても違和感がないぐらいだ。目つきは鋭く綺麗な顔立ちだが、憂うような表情が影を感じさせた。
「えー、灰原コウ君です。昨日、この島に引っ越してきました。じゃあ、灰原君、挨拶を…」
「…よろしく」
転校生は、頭をぺこりと下げ、それだけを言うと、また無表情で教室の後ろを眺めていた。
「あ、では、みなさん色々と助けてあげてくださいね。席は…えっと、一番後ろの六実君の隣が空いてるから、あそこでお願いね。」
ナオは自分の名前が聞こえて、びくっと顔を上げる。めったに来ない転校生のために、空き教室から持ち込まれた椅子と机が、今朝から窓際に置かれていた。
「えーでは、来週の健康診断の予定についてですが…」
次の議題を始める教師の元を離れて、彼がナオの席まで歩いてくる。ナオの中学と同様、黒い学生服を着ていたが、少し色合いや細かい意匠が違った。近くで見るとナオ達より体つきも、着ている服の質も、所作も、全てが良く見えた。大陸に住んでいた人は、やはり自分たちとは違う。
「…何」
そう不機嫌に言われて、ナオは初めて自分が彼をじっと見ていたことに気づく。
「あっ、え…えと、ごめん」
ナオは慌てて顔を伏せ、彼は何もなかったかのようにまた歩き始める。彼が横を通り過ぎたとき、ふっと知っている香りがした。これは…潮の匂い…?
しかしそれは一瞬だけで、すぐにいつもの教室独特の、床のニスの鼻を突くような匂いやチョークの粉っぽい匂いなどが戻ってくる。ナオの隣の席に座ると、彼は肘をついて、窓の外を眺め始めた。
昼休みになっても、転校生は窓の外を眺めているか、机に伏して寝ているかのどちらかだった。授業も全く聞いている気配がない。いつもは昼休みになると騒ぎ出すクラスメイトも、今日は静かにしているか、教室の外へと出ていった。
多分みんな、どう転校生に接したら良いのかわからないのだ。ナオぐらいの若い世代は、大陸での豊かな生活や洗練された文化に、憧れを抱いている。一方、島で苦しい生活を支えてきた大人たちには、大陸の人に対してあまり良くない感情を持つ人も多く、それは若い世代にも伝わってしまう。
その晩、電気が止まったのは夕食を食べ終わった頃だった。暑さと暇を持て余したナオは、家を出て、波の音に誘われて海岸までやってきた。
夜の海は、海が好きなナオでも、流石に恐怖を感じることがあった。まるで全てを飲み込もうとするような、真っ黒な海面。風が強いと、波音が重なり合い、巨大な生き物の唸り声のように聞こえる日もあった。
でも今日は少し違っていた。月明かりがあるおかげで、波がきらめいている。電灯がすべて消えた街は闇に包まれ、むしろ海岸のほうが明るい程だった。
昨晩ヒサに言われたことを思い出す。
「転校生と仲良く、って言われても、できるわけないよ。」
夜にこんなところに来る人は誰もいないから、本音を言葉にできる。
「でも、今日はみんな灰原君のことを気にしてて、何もされなかったのは、良かった…かな」
その時、ばしゃりと水音が聞こえた。最初は波が岩場にぶつかった音だと思って気にしなかったが、もっとはっきりとした水音が響いて、ナオは振り向く。確かに、何かが海で跳ねている。この音の大きさだと、イルカかもしれない。
島の周辺には魚が集まる海流が流れていて、それを求めて鯨やイルカが集まってきていると、本で読んだことがあった。ナオも何回か沖のほうに群れを見つけたことがある。だが、こんなに海岸近くまで来るのだろうか。
堤防から見下ろすと、砂浜から10メートルほど離れた海に、水音の主がいた。数頭のイルカが、ゆっくり円を描くように泳いでいる。時折ジャンプをし、鳴き声も聞こえてくる。
「えっ…」
ナオはその中に、ありえない参加者を見つける。
「嘘、人が…」
少年が一人、イルカたちに交じって泳いでいた。海面でイルカたちと触れ合い、次の瞬間には一緒に水に潜り、もちろん全く同じ動きができているわけではないが、それでも自由に海を泳いでいた。そしてその少年の顔が月明かりに照らされたとき、ナオは息を飲んだ。
真っ暗な砂浜を海に向かってゆっくりと歩く。昼間よりいくらか湿気を帯びた砂浜は、歩くたびにぎゅっぎゅっと靴が沈む感覚を覚える。ここまで海に近づくと、息が苦しい。肺を潮のにおいが満たし、呼吸が浅くなってくる。
「灰原君、あんな表情するんだ…」
さっきまで目の前の海で泳いでいた彼は、今日学校で見た彼とは雰囲気が全く違っていた。とても優しい顔でイルカたちと泳いでいる彼を、人とイルカが一緒に泳いでいる光景を、ナオは時間を忘れてただ眺めていた。しばらくしてから彼は浜辺に上がり、脱ぎ捨ててあったジャージを着て堤防の方に歩いてきたため、ナオはどうしてよいかわからず、階段の陰に隠れた。そして彼が街のほうに姿を消した後、こうして砂浜に下りてきたのだ。
穏やかな波が足元をさらっていく。
「大丈夫…きっと、大丈夫…」
砂のくぼみにわずかに残った海水に、ナオは指先を近づける。耳が波の音で満たされる。怖くはない、だって本当ならあの時、僕は死んでいたんだから。
その瞬間、予想していなかった大きな波が来て、指の半分が海水に浸された。
「うわっ」
すぐに右腕全体に激痛が走り、慌てて後ろに飛びのく。そのままふらふらと後ろ向きに歩いていくと、堤防の階段にぶつかり、そこに座り込んだ。
腕の痛みはすぐに引いたが、今度は吐き気と眩暈に見舞われる。おそらく少しだけ海水が体内に入ってしまったのだ。朦朧とした意識の中、ナオは星空を見上げた。
「なんでかな…。なんで、あの時…」
「まさか、奇跡としか思えない。」
「良かったね、きっと幸運が重なったんだよ。」
「せっかく助かった命だ、ご両親の分まで、しっかり生きていきなさい。」
運び込まれた別の島の病院で、僕を待っていたのは、奇跡だと喜び、僕を勇気づけようとする大人たち。
その島は、僕が暮らす島よりも、人口が多く産業も発展している島だった。遊ぶところもたくさんあったから、夏休み、お父さんとお母さんと家族3人でその島へ旅行に行った。美味しい物を沢山食べて、本屋で珍しい本を何冊も買ってもらって、楽しい旅行だった。
帰りの船でそれは起こった。計器の故障で航路を逸れて運航していた船が、岩礁に接触。老朽化した船体は浸水を起こし、整備不良のため排水設備も機能せず、船は数十分もしないうちに海に沈んでいった。まだ小学校低学年だったけど、救命ボートが足りないとか、救助が間に合わないとか、周りの大人たちの声を聞いて、自分も死ぬんだろうな、って思ったことを覚えている。
でも、僕は生きて帰ってきた。ヘリコプターに救助されるまで、いったいどれだけの時間、海を漂っていたかわからないけど、死ななかった。お父さんとお母さん、そして乗り合わせていた同じ島の人たち、乗組員、みんな海に沈んでいったのに、僕だけは生き残った。
島の人たちが僕の家に向ける視線が大きく変わったのは、この時からだった。
「なんで六実の息子だけが助かったんだ。」
「六実家って、昔から海の信仰の家系でしょ。何か関係があるんじゃ…」
「もしかして、あの船が沈んだのも、六実家の人間が乗ってたからじゃないのか。」
それまでは、確かに他の島の人たちとの間に壁を感じることもあったけど、お父さんとお母さんはなんとか上手くやっていたと思うし、学校の同級生は大人たちの事情など全く気にせずに話しかけてくれていた。
でも、この時から、僕はみんなにとって異物になってしまったのだ。
…なんで、生きてるんだろう。
そんな考えが頭を満たし、ナオは深いため息を吐く。体調は海水に触れる前に戻っていた。
薄い雲が出てきて、月の明るさはさっきよりも弱まっている。そろそろ家に帰らなければ。立ち上がって、堤防の階段を上り始める。
転校生の、灰原コウの泳ぐ姿が、頭から離れない。
…明日学校で会ったら、何か話してみたいな…でも、灰原君、学校ではあんな感じだし…
…いや、そもそも僕から声をかけるなんて、無理だよね。話題も無いし…
…でも、イルカと泳げるなんて、いいなぁ…
そう頭の中で議論は堂々巡りになり、答えはでない。でも、ナオの瞳は、月光を反射する波のように輝いていた。
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「どこに落ちたんだろう…早く見つけないと。」
2時間目の授業が終わり、次の授業は体育。クラスメイトは皆、既にグラウンドに出て行ってしまったが、ナオは制服を着たまま、校舎裏の草むらにいた。
今朝は体操服をナップサックに入れて登校してきたのに、それが無くなっていた。
「あれ、六実、体操服は?」
「忘れたら先生に殴られるぞ」
離れたところで騒ぐ生徒たち。ナオは黙って席を立ち、教室から出る。
たまにあるのだ。ロッカーから誰かが勝手にナップサックを持ち出して、廊下の窓から外に捨ててしまう。だからなるべく体操服の袋は机に掛けるようにしていたが、今朝は時間が無くてロッカーに置いたままにしていた。
「あった!」
ナップサックは渡り廊下と校舎の隅に落ちていた。草むらから持ち上げて、泥を手で払って落とす。急いで校舎に戻ろうとすると、渡り廊下を歩く人影とぶつかりそうになった。
「ご、ごめんなさいっ… あっ」
それはコウだった。ナオは、自分が抱えたナップサックにまだ泥が付いていることを思い出し、反射的に隠してしまう。コウはそれを一瞥すると、何事もなかったかのように渡り廊下を歩き始めた。
「あ、あの」
ナオは勇気を振り絞って声をかける。
「次の授業…グラウンド、だよ…」
コウは足を止めて振り返った。
「…」
無言で見つめられる。ナオは自分でも馬鹿なことを言ってしまったと後悔していた。授業の場所ぐらい、誰でも知っているのだから、わざわざ言う必要も無いのに。蝉の声が勢いを増して、二人しかいない裏庭に響く。
「あ、あと、着替え…」
でも、何とか会話を続けたいと思って、出た言葉がそれだった。コウも自分と同じで制服のままだったから。
「お前、真面目だな。」
「えっ…」
「帰るんだよ。」
そう言われて、コウが鞄を肩にかけているのに気づく。
「用事?…先生には、」
「言ってない。疲れただけ。」
「そう…」
「じゃあ、体育の先生に、体調不良って、言っておくね。あの先生、怒ると怖いから…」
「…勝手にすれば」
そう言って、コウはこれ以上話したくないといった感じで歩き始めた。ナオは校舎の陰になった裏庭に一人残される。
やっと言葉を交わすことができた。会話として成立しているのかは怪しいが。
小さなため息をつき、ナオは夏空を仰いだ。
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気が付くと、あの砂浜まで来ていた。夕食の準備をしようとして買い忘れに気づき、閉店間際の商店で買い物をした帰り道。今日は雲が厚くて月も星もでていない、けれども電気は通っていたから、昨晩とは逆に、街の明かりが海岸を淡く照らしていた。水平線に近づくにつれ闇が深まる海を見ていたら、ナオの足は自然と前へ進んでいった。
浮かぶのは、クラスメイトや島民たちの冷たい視線。そして何度も夢に見た、魚や鯨たちと自由に海を泳ぐ自分の姿。
…本当に、ここは僕がいなくちゃいけない世界なのかな…
波の音が耳を満たしていく。今日までの学校や家での生活が、急に遠い場所での出来事に思える。
…もし、海に入れば…自由になれる?
足元を優しく波がさらう。わずかな海水がスニーカーに侵入して、痛みが足元から全身へと駆け巡る。でも、まるで波が足を絡めとって海へ誘うかのように、ナオが立ち止まることはなかった。
一歩一歩ゆっくりと進み、足元を浸す海水が高くなっていく。スニーカーはもう海水に浸り、ナオは意識を失いかけていた。昨晩海で見た、コウの笑顔がふっと頭をよぎった。
「おい!!」
聞いたことのある声に意識がわずかだけ引き戻される。同時に海とは反対の方向から、誰かに手を強く掴まれた。
「何やってんだよ!」
声の主は乱暴にナオの手を引っ張る。海水による痛みと息苦しさが戻ってきて、海へ崩れ落ちそうになったナオの身体を、しっかりと抱きとめた。
「…めんどくせぇ」
ふわりと、ナオの身体が浮き上がる。海水から足が離れて、少しだけ楽になった。身体は仰向けになって、上下に軽く揺さぶられる。だんだんと波の音が遠ざかっていく。左側に体重をかけると、誰かの体温と、静かに聞こえる、心臓の音。ナオの意識はゆっくりと沈んでいった。
目を開けると、暗い海辺がぼんやりと見えた。何をしていたのか、思い出せない。背中にひやりとした固さを感じ、コンクリートの上に仰向けに寝ていることを知る。少し体を動かそうとして、全身を鈍い痛みが襲った。
「痛っ…」
「まだ動くな。」
そう声がして、驚いたナオは視線だけをそちらに向ける。自分のすぐ近くで、コウが海のほうを向いて座っていた。そうだ、海の方に歩いていって、そしたらいろんなことが楽になる気がして…でも、誰かが止めてくれたんだ。
「あの…ここまで、運んでくれたの…」
「…」
コウは何も答えずに、ただ水平線を眺めている。
ナオは、自分の頭がコンクリートの硬さを感じていないことを不思議に思った。何かが枕になっている。それを指で軽くつまんで見ると、コウの着ているジャージのズボンと同じ色の上着だった。
「ありがとう…」
コウは無言のままだった。何故海に入ろうとしていたのかも聞かない。その沈黙が逆にナオを安心させた。
「昨日、俺が泳いでるところ、見てただろ」
「えっ」
どう答えてよいかわからずに、ナオは黙ってしまう。それに、隠れていたつもりなのに、向こうに気づかれていたという恥ずかしさのような感情もあった。
「夜の海なんて、来る奴いるんだな。」
「…」
「誰にも言わないでくれるか。」
「…うん」
何故コウは海水が平気なのか、聞きたい気持ちはあったが、聞いても答えてくれない気がした。
低い汽笛が浜辺に響く。見ると、沖のほうを大きな貨物船が赤いライトを灯して進んでいた。
「あ、あの…」
ナオが話しかけるが、コウは反応せず、水平線を見つめている。
「大陸での暮らしって、ここより楽しいの。」
「…どうだろうな」
無神経なことを聞いてしまったと、ナオは後悔する。大陸から島に移住するなんて、何か理由があるからなのだ。でも、まだ意識がはっきりしないせいか、経緯はともかく二人で話す機会を得られたことに浮かれているのか、ナオは少しだけ積極的になれていた。
「2つ目の『贈り物』で、エネルギー問題が解決して、人間はもっと幸せになれたって、そう習ったよ。」
「幸せ…ね。」
コウはそれだけ言うと立ち上がり、服についた砂を手で払った。
「大丈夫そうだな。帰るわ。」
いつの間にかナオの顔色は良くなっていた。身体に力が入る。堤防の階段を上り始めたコウを見て、慌てて上半身を起こす。
「あ、あの、服…」
自分の枕代わりになっていたコウの上着を掴んで立ち上がろうとする。が、コンクリートの上で寝ていたせいか、関節が痛んで足が動かない。そんなナオをちらりと見て、コウは堤防の向こうへ姿を消した。
ナオは立つのをあきらめ、その場にへたり込む。強い海風が吹き抜け、身体がぶるっと震えた。真夏とはいえ、夜の海辺でTシャツとハーフパンツだけで寝ていれば、冷えてしまうのも無理もない。手に持っていたコウの上着を眺める。
助けてもらった時に感じた、コウの体温が蘇ってくる。自分よりも、一回り大きくて、しっかりした身体。海からこの世界に引き戻されたのに、嫌じゃなかった。
勝手に着ることに少し戸惑いはあったけど、どうせ洗って返すのだから。そう自分に言い聞かせ、上着を羽織る。やっぱり、潮のにおいがする。目の前の海とは違う、それよりももっと深くて、安心できるようなにおい…。ナオは両手で膝を抱えて座り、しばらく目を閉じて波の音を聞いていた。
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