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第3話

************** 「…はい」 勇気を出して押したインターホンに答えたのは、おそらく父親と思われる、生気のない男性の声だった。 「あっ、あの、隣に住む六実です…。えと、コ、コウくんに…」 朝、同級生の家に行き、本人を呼び出す。この同年代であれば日常生活の一部であるような行動も、ナオにとっては緊張を強いられるものだった。声はたまに裏返り、相手から見えているかもわからないのに、目が泳いでしまっている。 「あぁ、はい…」 それだけが聞こえて音が途切れる。しばらくするとガラリと玄関が空いて、制服姿のコウが出てきた。 「昨日はいろいろ、ありがとう…服、返します…」 そう言ってナオは洗濯してビニール袋に入れたコウの上着を、門の上から差し出す。コウはそれを怪訝な顔をして受け取る。 「…わざわざ届けに来たのか?」 「えっ」 「学校で渡せばいいじゃんか。」 ナオは気づいた。自分はコウに言ってなかったし、コウも知らなかったのだ。おそらくクラスメイトの名前や、近所の表札にも興味はないのだろう。 「えっと、僕の家、ここ…」 そう言ってナオは灰原家の真隣にある自分の家を指さす。 「…」 コウはしばらく無表情でその方向を見つめてから、静かに言った。 「マジ…」 「うん」 「…」 蝉の声だけが響く。しばらくの沈黙の後、コウは「じゃあな」とだけ言って玄関へ入ろうとした。 「あの、学校、」 ナオは勇気を振り絞って先を続けた。 「一緒に行こうよ。」 二人で、誰もいない海岸の道を歩く。 「きょ、今日の美術さ、油絵…だったよね。」 「…」 「灰原君は、油絵って描いたことあるの?」 「いや」 「…そっか…何描くかは、もう決めた?」 「…まだ」 「そう、そうなんだ…僕は、えっと…」 「…」 わかってはいたことだが、会話が全く続かない。ナオは祖母以外の人間との会話に慣れていないし、コウは興味なさそうに水平線を見つめている。せっかくのコウと親しくなるチャンスを、活かすことができない自分がもどかしくて足元を見つめる。 その時、強い海風が二人の間を駆け抜けた。沖の方で光の柱が上がった。 「あ…」 ナオは思わず堤防から身を乗り出して、それが見えた場所を凝視する。 青くきらめく海面から、黒く鋭い三角の物体がぬっと現れる。水蒸気を空に向かって垂直に噴き出すと、またぬらりと海中へと姿を消す。 「シャチだ!」 ナオは思わずそう叫んだ。写真で何度も見てきた生き物。だが、実物を見たことは殆どない。 「いや、待って…もう一頭…」 シャチの巨体のすぐ近くで、小さな噴気が上がる。それはイルカだった。シャチとイルカが、潜水と浮上を繰り返しながら、並走していた。鳴き声を出しているのか、無言なのか。水中で何をしているのかは、ここからではわからない。それでも、ゆっくり泳ぐシャチと、それに寄り添うイルカの間には、不思議な絆を空想せずにはいられなかった。 ナオはしばらくその光景から目を離せなかった。しかし、コウを待たせていたことを思い出す。 「ご、ごめんっ、学校遅れちゃうね。」 慌てて振り返ると、コウも同じ光景を眺めていた。 「そうだな。」 コウも海から目を離し、再び歩き出す。それにナオも並んでついていく。 ナオは、何か話さなければと口を開くが、思い直し、口を閉じた。 沈黙が苦痛でなくなっていた。先ほどまでの悩みが滑稽に思えるほど、この沈黙は心地の良いものだった。 二人で校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替える。その間も、殆ど会話はなかったが、二人で時間を共有していることに違いは無かった。 「えっと、灰原君から先に入って。」 教室前の廊下で、沈黙を破ったのはナオだった。 「なんで」 「一緒に入ると、たぶん仲いいって思われて、その、迷惑かかるかも。」 「…」 コウはしばらく無表情でナオを見つめていた。これは、あまり居心地のよくない沈黙。 「じゃ、じゃあ、僕から入るね。」 あまり長くここに二人で立っていると、クラスメイトに見られてしまう。そう思ったナオは先に教室に入ろうとドアに手をかける。すると、コウの手が割り込んできて、先にドアを開けてしまった。 ガラッと大きな音がして、先に登校していた何人かがこちらを見る。 「えっ、あの」 慌てたナオは、隣に立つコウを見上げる。コウは視線を合わせずに言った。 「邪魔…早く入れよ」 クラスメイト達は、二人が一緒に登校してきた事実にどう反応してよいかわからないようで、不器用にそのまま会話を再開していた。ナオはというと、コウが何故あんなことをしたのか、ぐるぐる考えてしまって、丸一日、落ち着かない時間を過ごしたのだった。 ************** 次の朝、ナオはいつもよりも早く、一人で登校していた。昨日の美術で、油絵用の絵の具が不足していることがわかり、登校前に文具屋に寄る必要があったのだ。 「商店街が学校の近くにあればなぁ」 家から商店街までは、本当は大通りを歩いて行ったほうが近いが、ナオはあえて住宅街の狭い路地を通ることを選んだ。それでも時折、路地は車道と交差し、登校中の同じ中学の生徒が目に入る。そうすると、向こうが気づかないことを願いながら、ナオは顔を伏せ、足早に次の路地へと入っていった。 やっと、商店街の文具屋の近くに繋がる路地の入口まで来た。そこは、これまで通ってきたものよりも一段と狭く、また両側に古い家屋が密集しているせいで薄暗かった。少し躊躇したが、こんなところを通る生徒はいないはず。そう自分に言い聞かせて、路地に足を踏み入れようとした… 「六実じゃん、あれ」 後ろから突然声がして、足を止めてしまう。振り返らなくても、声でクラスメイトの一人だとわかった。 「こいつ、家この辺だっけ。」 「いや、そもそもこの時間に見ること自体珍しいよな」 他にも数人、男子生徒が近づいてくるのがわかり、ナオは路地とは反対方向に身体を向けた。 「おいおい、逃げなくていいじゃん」 が、すぐに行く手を塞がれてしまう。 「俺ら、六実と仲良くなりたいんだけどなぁ」 「そうだ、この路地の奥に、工場あるだろ、廃墟になってるやつ」 「そこで話しようぜ。」 こういうことは過去にも何回かあって、そのたびに金を巻き上げられた。だから、なるべく海岸の道を使うようにしていた。 「あ、あの、ごめん、用事があって…」 ナオは肩を震わせながら、それでもなるべく相手を刺激しないように、低姿勢で答える。 「用事って何?」 「言ってみなよ、俺も手伝うぜ」 生徒たちはにやにやと笑いながら、すこしずつナオを路地へと追いやる。路地への入口が、冷たい監獄の門に見えた。 「ちょっと中見せてみろよ」 そう言って一人がナオの鞄を無理やり取り上げる。 「お財布はっけ~ん」 「でもシケた額しか入ってねぇな」 自分の鞄の中身が乱暴に暴かれる光景を、ただ黙って見ていることしかできない。 「なんだこれ、『海洋生物学入門』…?なんで鞄に入れてるんだよ」 学校にいられなくなって神社で時間をつぶす時、読むために持ち歩いている本。それをまるで汚らわしい物のようにつまんで、側溝に捨てた。 「大体さ、海が好きって可笑しいよな。根暗だと足元しか見えねぇのか。」 「海の生き物って海から出たら死ぬんだろ、一番下等な奴らじゃん」 「大陸の奴らって空と繋がってんだろ、憧れるよなぁ」 ナオにできるのは、心を殺して、ただこの時間が早く終わることを祈ることだけ。 「ん?お前、首のそれ何?」 その声にはっとして、ナオは首元を隠す。さっき鞄を取られたとき、鞄のバンドに引っ張られてカッターシャツの襟が大きくはだけていた。 「隠すなって」 一人が背中から羽交い絞めにして、もう一人がシャツの襟を力任せに引っ張る。中から現れたのは、水色の石がついたペンダントだった。 「何だこれ、高そうなもん持ってるな」 「こいつの家の宗教関係じゃねぇの。気持ちわりぃ」 ナオを取り囲む二人はそう囃すが、今まで傍観していたもう一人が低い声で言った。 「だからだよ。」 「…へ?どうした?」 「お前が、お前の家族が気持ち悪い宗教やってて、」 その一人は他の二人を押しのけて、ナオの首元を掴んだ。勢いで石壁に背中を押し付けられ、全身の骨が軋むのを感じる。他の二人は彼の様子がおかしいことに気づき、動揺していた。 「おい、落ち着けって」 仲間の声も耳に入っていない。腕に入る力がさらに増して、ナオの足は浮き始めていた。 「あの船に乗ってたから、あんなことに…っ」 こぶしが振り上げられる。ナオはこれから襲う痛みを想像し、ぎゅっと目を閉じた。 「…」 しかし、その痛みを感じることはなかった。恐る恐る片目を開けると、そのこぶしは誰かの手に掴まれ、空中で止まっていた。 「あ…灰原君…」 それはコウだった。 「…くそっ、離せよ」 力では到底かなわないと判断したのか、激高していた生徒は手を下ろした。 コウは無言で落ちているナオの持ち物を拾って鞄に入れていく。側溝に捨てられた本を持ち上げ、手で汚れを落とす。ナオを取り囲んでいた生徒たちは何か言いたそうだったが、沈黙を保っていた。 「行くぞ、ナオ。」 「え…うん…」 放心状態だったナオは鞄を渡されて、やっと我に返る。歩き出したコウの背中を慌てて追いかけた。 二人、無言で校庭の脇道を歩く。ナオの手には、画材屋のビニール袋が握られていた。 あの後、画材屋で買い物をしたが、その間、コウは店の前で待っていてくれた。 「人間って、そんなに偉いのかな」 ナオが呟く。 「空って、そんなに良い所なのかな。」 コウが歩みを止めた。 「あ、ごめん…大陸に住んでた人にこんなこと言ったら、駄目だよね。」 「…」 コウは振り向かないで答える。 「偉いわけない」 予想していなかった答えに、ナオは戸惑う。 「少なくとも、自分たちが信じているほどの価値は無い。」 コウがどんな表情でそれを言っているのかはわからないが、本音を言ってくれてると感じた。 「あの、ありがとね。海の時も、さっきも。僕、助けられてばっかりで。」 ナオは困り顔で笑う。 「…さっきみたいなこと、初めてじゃないんだろ」 「うん。でも、なるべく人の多い時間帯は、避けるようにしてるから。」 「7時半な」 「えっ」 「時間決めておけば、一緒に登校できるだろ」 「いい…の?」 「別に、今朝もそのつもりだったし」 ナオはふわりと笑った。 「…うん、ありがとう…コウ、君」 コウがぎこちなく顔を逸らす。一瞬だけでよく見えなかったけど、いつも澄ましているコウが、少しだけ照れていた気がした。

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