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第4話
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それから、ナオが一人でいる時間は減った。朝は家の前で待ち合わせをして、二人で海岸を歩いて登校した。移動教室や下校の時も、大抵コウの方がナオの席まで歩いていき、二人で教室を出ていった。
コウは相変わらず口数少なく無愛想だった。会話を始めるのは大抵ナオの方からで、コウはたまに「そうか」「ふーん」と相槌を打つ程度。だが、興味なさそうな態度をとりながらも、決してナオの話を否定したりすることは無かった。
「なぁ、お前、海で泳ぎたいんだよな。」
二人で昼休みに学校を抜け出して、いつもの堤防で海を眺めていた時、急にコウがそう言った。
「え…」
「前、俺が泳いでるの見て、海に入ろうとしてただろ。」
数週間前、コウと話すきっかけになった出来事。あれから色々と聞きたいとは思っていたけど、結局聞けずじまいだった。なにか、聞いてはいけない領域に踏み入る気がして。
「うん…でも、僕は、海には入れないよ。」
「…ついて来いよ」
そう言って、コウは歩き出した。訳も分からず、ナオはその後を追う。
「あんまり学校から遠ざかると…昼休み終わっちゃうよ。」
「気にすんな」
「もう…」
海岸線に木の生い茂った小高い丘ができていて、そこは堤防が造られていなかった。そこから二人は丘を登り、海の方へ下って行く。誰も来ないような場所だから足元には蔓が生い茂り、岩が所々露出した斜面をさらに歩きにくくしていた。
とたんに目の前が開けた。真っ白な砂浜に囲まれた小さな湾が広がっていた。生まれてからずっとこの島に住んできた自分でも知らなかった場所。
「すごい…何、この場所」
「ここなら誰にも見られないからな。」
学校の昼休みが終わってしまうことなど、些細な問題に思えてくる。
「お前も手伝え。」
コウは砂浜の奥に置かれていた小さな木製のボートを指さす。
「えっ、ちょっと待って。これで海に出る気?」
何も言わずにボートを押し始めたコウを見て、ナオは戸惑いながらもそれに加わる。砂がさらさらとしているせいか、思ったより力を入れないでも楽に海へと近づいて行った。
ボートが砂浜から離れて海に浮かぶ。それにコウは全く躊躇することなく乗り込む。
「ほら、来いよ。」
コウはいたずらっ子のように笑って手を伸ばした。いつもとちょっと違うコウの雰囲気に、飲み込まれているのかもしれない。ナオも恐る恐るボートに乗り込み、コウの後ろに座る。
「しっかりつかまってろ。」
「う、うん…」
そう言われて、コウの腰に後ろから腕をまわす。辺りは一面海。もし落ちればおそらく命はない。無意識にぎゅっとしがみついてしまう。
「これ…転覆しないよね…」
「大丈夫だって。ほら、進むぞ。」
コウがオールを動かすと、ボートはゆっくりと砂浜から遠ざかっていく。凪いだ海。ボートはほとんど揺れずに、まるで氷の上を滑るように進んだ。
腕を少し緩めて、コウの背中にもたれかかる。
「なんでだろう…」
「ん?」
「怖いはずのに…なんだか安心する…」
「…そっか」
一人で海に入ろうとした時と同じ感覚。日常が遠ざかっていく。でも、あの時と違うのは、今日は一人じゃないってこと。
湾の真ん中でボートは止まった。優しい潮風が吹き抜けていく。静寂の中、コウの背中に耳を付けて、心臓の音を聞いていた。
「ちょっと…いいか」
コウが腰を掴んでいたナオの手を取り、ゆっくりと腰から離した。そして、ナオの方を向いて座り直す。
ボートが左右に揺れて、つかまるものを無くしたナオは、思わずコウの手を握る。
「ちょ、ちょっと、転覆しちゃ…」
「落ち着けって」
強く握られたナオの右手をほぐし、自分の左手の手のひらを広げて重ね合わせる。指を絡めて手を握られながら、コウに真正面から見つめられている。ナオはなんだか居心地が悪くなって、顔を伏せてしまう。
「こうしたら、海水はもう怖くない。」
「どういう…こと?」
「俺は…」
少しだけ言い淀んで、コウは言葉を続ける。
「周りにある海水を人間に無害な物に変えられる。そして、俺と手をつないでいる相手も、同じことが、無意識にできる。」
ナオは驚いて顔をあげる。
「理由は…俺にもよくわからない。」
頭上をカモメ達が飛んでいく。鳴き声はせず、羽音だけが聞こえる。ほんの少しの間なのに、沈黙は長く感じた。
「いきなりこんな話して、信じられないのもわかる。でも…」
ナオが手を握る力が強くなったのを感じて、コウは顔をあげる。ナオの顔からは不安や怯えが消えて、微笑みを浮かべていた。
「あの時のこと、やっと話してくれて、嬉しい。」
「ごめんな、今までちゃんと話さなくて。」
きっと、海の上で、二人きりでいるから、いつもより少しだけ、心の距離が近いんだ。ナオはそんな風に考える。
コウがボートのすぐ下に広がる海面を見つめて言った。
「ナオと、一緒に海に入りたい。…まだ、怖いか。」
「ううん。コウ君が一緒だから、怖くないよ。」
二人は手をもう一度、しっかりと繋ぎあう。どちらからともなく、二人の手が海面へ近づいていく。
一瞬、あの苦しさを思い出して、ナオの手が止まった。もう一度コウの手を握りなおすと、体温が伝わってくる。大丈夫、二人一緒なんだ。ナオは目を閉じて、そのまま手を水中に下ろした。
小さな水音がして、指の間に海水が入り込む。冷たいけど、痛みは感じない。ゆっくりと目を開ける。
「…海だ…。…あはは、海に触ってる…。はは…」
どう表現していいか分からない感情に、ナオは笑いだしてしまう。
「すごい…コウ君、すごいねっ」
無邪気に笑うナオを見て、コウも微笑む。
「えっとね、水道から出てくる水と同じなのに、何か違うんだ。重みっていうか、密度っていうか…いろんなものが溶けてる感じがする。」
ナオは握った手とは反対側の手のひらで海水をすくい取り、指の間からこぼれ落ちる海水を見つめることを何度か繰り返した。
その時、目線のすぐ先で噴気が上がった。人間とあまり大きさの変わらない、灰色のイルカが海面から頭を出して、こちらを見つめていた。
「いつものあいつらだな。」
そうコウが言い終わらないうちに、背中側からも噴気がいくつも上がる。いつの間にか、ボートはイルカ達に囲まれていた。
「すごい…」
そう呟いたきり、ナオは言葉を忘れ、この光景を眺めていることしかできない。そのうちイルカたちはボートの周りを回り始めた。
「一緒に泳ぎたいってさ」
そう言ってコウはナオの手を握ったまま立ち上がった。ボートが大きく揺れる。
「えっ、ちょっと、待って…泳ぐって、今?」
「手、離すなよ。」
コウはナオの手を引っ張って無理やり立たせる。ニヤリと笑ったかと思うと、ナオの身体を抱きしめた。
「わぁっ、コウ君待って…」
そのまま二人は海面へ倒れこみ、大きな水しぶきがあがった。身体が水に包まれ、体重が軽くなったような感覚がした。
目を開けると、そこは楽園だった。どこまでも見渡せる、透明な水。大小さまざまな魚達が群れをなして泳ぎ、海底の岩には色とりどりのイソギンチャクや貝が、まるで芸術作品のように並んでいた。
横を見ると、手をつないだまま、コウが並んで泳いでいた。プール以外で泳いだことのないナオだったが、何故かコウについていくことができた。先ほどのイルカ達が二人のそばを通り過ぎていく。空気を介さず、彼らの歌が直接耳に入ってくる。
…楽しい。
そう心の中で思うと、イルカ達の声が更に賑やかになった気がした。小魚の群れに取り囲まれて、ナオとコウは、まるでダンスをするように向かい合って両手をつないだ。太陽の光がきらきらと反射する海の中で、言葉を交わす必要は無かった。ただ、お互いの目を見るだけで、喜びを伝えることができた。
夏の太陽が、綿を千切って散らしたような雲に隠れて、現れて、また隠れて。それをぼーっと見ていた。
少し前に海から上がり、二人はボートの上で仰向けになっていた。身体と衣服は殆ど乾いて、たぶんもう離しても大丈夫なのだろうけど、なんとなく、手はつないだままだった。
「小さい頃、おばあちゃんが、教えてくれたんだ。」
ナオが独り言のように口を開く。
「世界の終わりの話。人間が罪を犯したとき、海神様は世界を海で満たして、人間は海に還る。でも一人だけ生き残って、罪を償わなければいけないんだ。」
ナオの瞳は空を映して青く輝いていた。
「最初その話を聞いたとき、怖くて、しばらく眠れない日が続いた。海で溺れ死ぬなんて、きっと苦しいに違いない。一人だけ生き残るなんて、寂しいだろうな、って。」
「その話…俺も聞いたことがある。」
ナオは驚いてコウを見る。
「どうすればいいんだろうな。」
それを聞いたナオは再び空に視線を戻して、ふっと笑った。
「でもね、何故か最近、そんな世界もいいかもしれないって、思う自分がいるんだ。みんなと一緒に海に還って、この世界からいなくなるのが不思議と怖くないんだ。」
「…」
「どうせ僕は…ずっとこの島で暮らして、歳をとって、死んでいくだけなんだ。」
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