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第6話
ナオの身体は一人、真っ暗な空間に浮いていた。
眼下には、青く輝く星が見える。
「きれい…」
地球のように見えるが、陸地がない。全てが海に覆われている。
「これが、人間が滅んだ後の地球…?」
頭の中に、否定の言葉が響く。
「じゃあ…これは」
幼いころに聞いた神話を思い出す。
「海神様が、見てきた世界…」
ナオの中に記憶が流れ込んできた。
ーずっと昔の話、ヒトが造られるよりもずっと前。
地球上に人類が住める場所はもう残されていなかった。科学技術の発展は限界を知らず、次々に強力な兵器が開発され、使用されるたびに地球環境を破壊していく。地盤沈下と海面上昇により、陸地は消滅し、住む場所を失った人類は火星に移住した。
人類が去った後、地球は水で覆われた、静かな惑星になった。元より知能の高かった鯨類は、長い時間をかけて更なる進化を遂げた。その中でもシャチはこの星を統べる存在となった。
想像もできないような長い時間が過ぎて、地球は元の姿を取り戻し始めた。人類は既に火星を去り、太陽系外の星々に散らばっていた。人類が地球に帰還するのを阻止する兵士として、人類の姿を模してシャチが造ったのが、ヒトだった。
ヒトがバベルの塔に登って人類の遺物を手に入れるまで、ヒトとシャチの関係は密接だった。ヒトとシャチを繋ぐ祭祀を行う者がいた。稀に、シャチがヒトに身をやつし、ヒトと恋に落ちる者もいたという。彼らの子孫は今もヒトの社会で生きているー
その記憶に引きずり込まれるように、ナオの意識は、更に深いところへ沈んでいった。
船内に衝撃音が響いてからわずか10分。船体は大きく左側に傾き、もう船内を移動することは不可能だった。
「岩礁にぶつかったのかな。この船は古いし、この辺りは海図もいい加減だろうからね。」
若い男性が落ち着いた声で話す。
「だいぶ海面が近づいてきたわね…この事故で、せめて救命設備の近代化ぐらい、大陸の方たちが考えてくれるといいのだけれど。」
隣に座った若い女性がそう静かに答える。
先ほどまで逃げ惑う人々で混乱していた船内も静かになり、時折家族の名前を呼ぶ声や、嗚咽のような声が反響するのみだった。
「船、どうなっちゃうの…」
二人に挟まれて座っていた幼いナオが、不安そうに見上げる。ナオの家族は、幸運にも船が傾き切る前に右舷側の甲板に出て、壁に背中を預けて座ることができていた。
「大丈夫よ、ナオ。あなたは助かるから。」
女性はそう言って優しく微笑んだ。
3人の前に広がるのは、青い水平線と、入道雲の立ち上る夏空。それは、どこまでも平和で、静かな光景だった。
「きっと今頃、近くの島から救助のヘリコプターが飛びだったところだ。しばらくは海の上で待たなきゃならないだろうが…ナオは、いい子で待てるよな。」
男性は元気づけるように、ナオの頭を撫でた。
「うん、もちろん。でも…海の水はさわったらダメなんでしょ?」
男性は辺りの状況を確認し、女性に時間が来たことを告げる。
「母さん、もう時間がないみたいだ。ナオに海の石を。」
「ええ…」
女性は自分の首からペンダントを外し、ナオの小さな首にかけた。その先端には、南国の透明な海のような、透き通った水色の丸石がはめ込まれていた。
「ナオ、母さんの言うことをよく聞いて。そう遠くない未来、今のヒトの世界は終わりを迎えます。その時、あなたには使命がある。あなたの大切な人と生き残り、一緒に、新しいヒトの世界を作りなさい。このペンダントは大昔、私たちの祖先が海神様とヒトの橋渡し役で有った証。海とあなたを結んでくれるでしょう。」
「う…ん?」
首をかしげるナオを、女性は強く抱きしめた。
ナオはゆっくりと目を開ける。海の中で、今、自分を強く抱擁している人がいる。その人の背中に自分も手をまわし、少しだけ自分よりも高い位置にある肩に、顔を埋める。
「だからコウ君は、潮の匂いがしたんだね。」
「あぁ…俺もお前のこと放っておけなかった理由が、なんとなく分かった」
二人はお互いの体温を感じながら、言葉を交わす。桟橋の上、海水が球のように集まって、二人を包んでいた。
「コウ君、僕…生きる理由、見つけたよ。」
ナオは抱擁を解き、コウと両手を繋いで向き合う。
「一緒に行こう、ナオ。」
二人を見守っていたシャチ達が一斉に喜びの声を上げ、その声は一瞬にして世界中の海へ響き渡った。
それは始まりの合図。海神の眷属たちが、祝祭を執り行う。
シャチは巨体を海面にたたきつけ、大きな水しぶきがあがる。イルカの群れが海面を滑るように進む。クジラは噴気を上げ、その巨大な尾びれで跳ねあげた水には、虹がかかった。
喜ぼう、祝おう。
新しいヒトの始祖は、シャチとヒト。
二人の子供たちが、新しいヒトの歴史を、作り出す。
見届けよう、彼らが創る未来を。
そして、地球上に存在する、全ての水の組成が変わった。
水たまりの水、大気中の水分、水道水、そしてヒトの体内にある全ての水が、海水と同じ性質を持つようになった。
争い合っていたヒト、争いから逃げ惑うヒト、争いを先導するヒト、争いを知らずに日常を送っていたヒト…もう、誰も、この地球上で生きていくことは許されない。体内にある全ての水分が、直接、逃げ場もなく、無慈悲に、ヒト達の命を奪っていく。絶命したヒトの身体は全て水に溶かされ、原子レベルで分解されて、後には透明な水と衣類だけが残った。
地球上の空を雲が覆い、これまで降ったことのないような激しい雨を降らせる。ヒトがいた痕跡を洗い流し、『贈り物』の力で汚された大気と大地を清め、燃え盛る争いの炎を鎮めていく。
世界が海に沈む。みんなが内側からおぼれていく。
こんなに町から離れても、みんなの悲鳴が、嗚咽が、僕の耳に届いた。
ふっと両耳に冷たいものが降れ、町の音が遠くなる。コウ君が僕の耳を手でやさしく塞いでくれていた。手のひらから聞こえてくるのは波の音、そして、深海に響く…シャチ達の鳴き声。海の底まで反響して、すべての苦しみを浄化するよう。
身体の一番奥に熱を感じる。海神様が少しだけ、僕の身体を変えたんだ。最初は驚いたけど、これが僕に与えられた役目。コウ君と二人でしかできないこと。二人だからできること。
**************
防波堤に、優しく波が打ち付ける。夜明けが近づき、空は青みがかっていた。
柔らかな波音を聞きながら、ナオはゆっくりと目を開ける。目の前に横たわるコウも、ちょうど目を覚ましたようだった。
「全部…終わったみたいだな。」
「うん」
「…もうすぐ、朝…か。」
「うん」
二人は桟橋の先端で、コンクリートの地面に横たわっていた。絡めあった指を、どちらからともなく動かして、お互いの存在を確かめあう。
いつもなら、町で新聞配達のバイクが走りだし、港では船が動き始めていた時間。しかし、それらの音はもう聞こえない。波の音だけが響いていた。
ぐぅ~という呑気な音が、コウの腹から聞こえ、二人は目を合わせる。
「ふふ」
先に笑い出したのはナオの方だった。それを見たコウも表情を緩ませる。
「笑うなよ、俺、昨日の昼から、何も食べてないんだ。」
「昨日作った煮物、食べる?」
「そうだな、ナオの作ったものなら、きっと美味しい。」
コウは立ち上がって、ナオに手を差し出す。
「大丈夫か。」
「うん、ありがとう。」
水の中での感覚が残っていて、まだ少しふらふらする。ナオは身体を支えられながら立ち上がった。
「ねぇ…本当にもう、海に触れるのかな。」
「あぁ。確かめてみろよ。」
「…」
桟橋の板の隙間から手を伸ばし、水面に指をつける。
「…大丈夫…だ。」
「だろ?」
「海って、こんなに優しかったんだね…。ずっと、果てまで続いてて…みんなと繋がってるんだ。」
二人並んで、静まり返った町を歩く。いつか、クラスメイトの目を避けるように歩いた道。昔、一人で遊んでいたら、大人から心無い言葉を浴びせられた公園。もうどこにも、誰の姿も無かった。
あるのは、時折道に散らばっている衣服と、その周りの水たまり。夕方になっても取り込むのを忘れられた洗濯物がアパートのベランダで揺れている。バイクは二度と来ない持ち主を待って、民家の玄関先に停まっていた。
「思わないよね…もう明日は来ないだなんて。」
「…」
角を曲がったところで、コウが何かを見つけて立ち止まった。
「あの店、入ってみるか。」
「え…」
見ると、いつも通っていた商店の、シャッターが開いていた。昨晩の騒動で、店を閉める余裕もなかったのか、中に入ることができた。
「どうするの」
「パンでも…食べるか。」
「…うん、いいんだよね。」
「しばらくはこうやって凌いで、その間に、自分たちで食べていく方法を見つけよう。」
朝食のあんぱんをかじりながら外に出ると、空の下のほうが大分明るくなってきていた。日の出が近い。頭上を鳥たちが、山の方へ向かって飛んで行った。
その方向を見ながら、ナオは呟いた。
「コウ君、ちょっと寄り道しよう。」
神社へ続く石段を登っていく。少し段差が大きくなっているところで、ナオがふらつく。
「ゆっくりでいいからな。」
コウが横に並び、そっとナオの背中を支える。
石段を登りきると、おぼろげに光る海が眼下に広がり、海風が吹き抜けた。
「こんな場所、あったんだな…」
「うん、学校にいられなくなった時に来てた、僕の秘密の場所。」
「ナオ、これ…もしかして」
神社の前庭の左右に置かれた石像は、コウが大陸の神社で見慣れた狛犬とは明らかに違った。背びれと尾びれがあり、一見魚のようにも見えるが、頭の上の水しぶきのような模様や、水平に付いた尾びれが、魚とは違うことを示している。
「イルカだよ。海神様の使い。」
「なんだか、ナオっぽいな。」
「ふふ、そうかな」
二人で拝殿の前に立って、手を合わせる。ヒトの未来に、二人の未来に、思いを馳せる。
目を開けると、拝殿の壁にオレンジ色の光が射していた。後ろを振り向くと、水平線から太陽が顔を出したところで、いつの間にか神社の境内は、やわらかな朝日で満たされていた。
「あの…コウ君?」
「どうした」
「えっと、これからの…ことなんだけど…」
「ん?」
「…その…」
ナオは言いづらそうに、視線を落とす。
「あ、あぁ」
コウは少し動揺して目を逸らした。朝日のせいか、頬が赤く見える。
「まぁ…急がなくても、いいんじゃないか。」
「そ、そうだよね」
「俺ら、まだ中学生だろ。それに…しばらくは、二人だけで…」
「えっ?」
「いや…なんでもない」
そんな会話を交わしながら、階段を下りていく。
やがて二人の姿は見えなくなり、境内には静かな波音と、虫たちの声だけが響く。高く茂った雑草の上で、朝露がきらきらと輝いていた。
(おわり)
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