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第1話 鬼ごっこ
家の前にある細長い公園。一軒家がズラリと並ぶその一帯に沿うようにしてとても細長い公園がある。水遊びができるところ、遊具がたくさんあるところ。それぞれ分けられていて、花も桜、ツツジ、紫陽花、向日葵、椿、色々な花があるのが、御伽話の竜宮城みたいなんだ。春の場所、夏の場所ってさ。
そこが俺たちの遊び場だった。
そこでいつも鬼ごっこをしてた。
『お兄ちゃん! ナオ兄ちゃん! 鬼ごっこしようよ!』
『いいよ。じゃあ、僕が最初に鬼ね』
そうしないとカズはいつまでたっても鬼のままだから。
『はーい! じゃあ、お兄ちゃんが鬼―! 十数えてねっ!』
だから、俺が、鬼をしてあげた。
『いーち、にーい、さーん、し――』
カズは一つ年下でまだちょっとだけ脚が遅いから。
いっつもすぐに捕まえられてしまうから。
『ごーお、ろーく、なーな』
カズが鬼の時はわざとゆっくり走ってあげていた。
『はーち、きゅー、う……』
逃げる時、とても楽しそうに笑ってるカズをゆっくり追いかけて、捕まえてしまわないように手はちょっとだけ伸ばして。
『じゅう!』
いつまでも捕まえずに、鬼のままでいた。そしたら、本当に、鬼のまま。
『わー! 捕まっちゃうよー!』
俺は、人に戻れなくなってしまったんだ。
鬼だから――ありえない、こんなことあってはならない、好きになるわけがない人を、好きになったんだ。
「おーい! 直紀(なおき)-! 直紀―! うおい! シカトすんな」
「……司」
中学高校から、そして、大学も一緒のところに行くことになった腐れ縁の司がシカトすんなと肩を軽くパンチした。まだ聞きなれることのない大学のチャイムが鳴って、一気に騒がしくなった廊下で、一際、騒がしくしている。
「どう? 直紀の学科、可愛い子いた?」
俺は国際経済学科、司は経営経済学科。隣の教室で入学式後、各学科での説明会に出席していた。
「……さぁ、どうだろ。あんま見てない」
「はぁ? お前、女子チェックしないで何してんの? 今日のさ、新入生会、そっちもあるんだろ? 俺もあるんだけど、お前の学科のほうが可愛い子多かったらそっちに行こうかなぁって」
「何してんのって、それはお前だろ、司。大学に何しに来てんの?」
そう笑うと、信じられない者でも見るように司が口をあんぐりと開けた。
「真面目か! こんな二流の大学で」
「お前、それ、普通ここで、でかい声で言う?」
「俺は身の丈に合ったとこ選んだもーん。お前にしてみたら、二流だろ」
「……」
外に出るともう桜はほとんど散って、地面に降り積もっていた。それが葉と一緒になって春の強めの風に巻き上げられて、くるりと踊るように弧を描く。
「お前、あっちを受けるんだと思ってた」
「……」
「親父さんの出身校。途中まではさ余裕でそこに行ける偏差値レベルだったじゃん」
「桜が」
「桜?」
また風が吹いて、淡いピンクが舞い上がる。
「ここの大学のほうが綺麗だからこっちしたんだ」
「…………はぁ?」
桜はさ、こんなにたくさん散った花びらを掃いて捨てられるその瞬間まで綺麗なのに。
「なわけないじゃん。普通に学力がガタ落ちしたからだよ」
「んなっ、だから、それが」
「……思春期ですから」
「はぁぁ?」
俺の恋は咲く前、蕾の時点で汚くて醜いなんて、可哀想だろ? だから誰にも見つからないように、端っこの、もっと隅のところに仕舞い込みたくて、大学をここにしたんだ。
ここなら見つかる前にいつかきっと捨てられる。
「あ! そうだ! なぁ、和紀って、また剣道の大会で優勝したんだってな。地方新聞に出てたぜ?」
「……あぁ」
「しっかし、すごいよなぁ。余裕の優勝だったんだろ?」
「……」
「地元のちょっとした有名人じゃん。新聞なんか載っちゃってさぁ。お前も剣道続けてたら、もっとすごかったんじゃね? 剣道兄弟とかっつって。お前のほうが和紀より強かったじゃん。昔はよくナオ兄ちゃん、ナオ兄ちゃんってついてたっけ。ほぼ背後霊」
――ナオ兄ちゃん! 俺も剣道やる! お兄ちゃんと一緒にやる!
「昔の話だろ?」
「まぁなぁ。今じゃ、背後霊どころか、オーラすらある感じ? スーパー高校生っつって。三年だろ? 今年」
――ナオ兄ちゃん!
「……知らない」
「知らないことないだろー。家族じゃん」
――お兄ちゃんってば!
「昔はすげぇ仲良かったじゃんか。いっつも一緒でさぁ。よく剣道だって一緒に通ってたじゃん」
――ナオ兄ちゃんとお揃いの道着、えへへ。
「なぁ、なんで剣道辞めたんだ? 大学も急に変えたし、なんかさぁ」
――ナオ兄ちゃん! 待って! 一緒に遊ぼうよ!
「…………臭いからだよ」
「は?」
「剣道辞めたのは、汗臭いから」
剣道をやめた理由なんてない。志望大学を変えた理由なんてない。ただ、捕まえちゃいけないから、やめただけ。見つからないように隠すために、そしてきっといつか捨てることもできるはずだから、遠くに行きたくなっただけ。
「臭いって……って、ぉ、おーい、直紀? お前んとこ新入生会行かないのか?」
「帰るよ」
近くにいると捕まえたくなってしまうから、だから、やめたんだ。
カズと俺は、いわゆる年子だ。
だからか、普通の兄、弟みたいな感じよりも、一番近くにいる友人みたいな存在だった。
子どもの頃はそれでも一歳差っていうのが身体的に現れてはいた。背も、脚の速さも、できることの違いもあった。俺ができるようになったことを、カズは真似て、そのうちできるようになって、俺の真似をしたがるから、いっつも後ろをついて歩いてた。ずっと追いかけてきていた。
けれど、中学生も後半になってくると体格差も身体能力の差もほとんどなくなっていた。
「ただい、……」
ずっと俺の後を走っていた弟はいつの間にか後ろにはいなかった。
「……」
玄関にある女物のローファー。
なんとなく、滲み出て漂ってる気がする女の甘い匂い。
「っ……っ」
それと、階段を上がってすぐのところにある和紀の部屋から、その扉越しに、わずかに、でも確かに聞こえる女の喘ぎ声。
「……っ」
仲は良かったと思うよ。
俺が、気がつくまでは。
「平気、誰も帰って来ないから」
来てるよ。バーカ。そう、扉の向こうで女に話しかけた和紀へ、こっそりと呟いた。
スーパー高校生、才色兼備、剣道の地区大会優勝、地方の新聞にも載るような奴なら相手はいくらでもいるんだろう。
中で何をしてるかなんて明白。だから、そっと忍び足で、階段を上って左奥にある自分の部屋に篭もる。
あのローファーの女子高校生はつい三日前の子とは違うんだろう。知らないけど。顔なんて見たことないし。
警察官をしている父親と、昼間は、親類のやってるカフェで趣味をかねたパートをしている母。日中は誰もないからさ。誰にも咎められることはない。
カズが自室で誰と何をしていようが。
「っ」
けれど、俺は、両親じゃなくたって、誰もが咎めるだろう。
何してんのって、自分でさえも思うんだから。
それでもやめられない。
「っ」
絶対にしてはいけないとわかっているのに、ベッドの上、壁に寄りかかって目を閉じるんだ。
「っ……ん」
そして、この部屋に零れる喘ぎ声はうざったい女のなんかじゃなく、俺の声。
「ぁっ」
この部屋に響く濡れた音は、弟が女としてるセックスの音じゃなくて、俺が疼く身体を慰める音。
「ぁっ!」
しちゃいけない。
「あっ……ンっ」
なんてことを、してるんだ。
なんてことを、考えてるんだ。
ありえない。
わかってるよ。でも、手を動かすのをやめられない。止められない。ここに――。
「あっ……」
ここに欲しい。
「ンっ」
自分の指を「それ」だって想像しながら、壁に縋るように額を擦りつけながら目をギュッと閉じて、耳をそばだてる。隣の部屋の音を聞くために。だって、女のアンアン鳴く声が邪魔で聞こえないんだ。乱れた吐息の音が。あいつの腰使いを想像させるベッドの軋む音が。
まともじゃないってわかってるよ。
「ン、ぁ、奥、欲しっ」
でも、鬼ごっこでいつもいつも鬼をしていたから。
「ぁっ……ン」
人に戻れなくなってしまったんだ。
まともじゃない。
「ぁ、ン……カズっ」
人じゃない。だから、弟の名前を呼びながら、自分の掌をこのおかしな熱でできた体液で濡らしてる。
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