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第2話 扉
きっと、人の中に紛れ込んでしまった鬼なんだ。
まともな人間なら弟になんて欲情しないだろ。血の繋がった弟のことを好きになるなんてありえないだろ。
わかっているのに、それでも止められないなんて愚かすぎて笑う気も起きない。
――ナオっ。
俺の中で果てるカズの声を頭の中で捏造して、カズとのセックスを想像しては興奮してる。弟に抱かれたいって、身体が火照る。
毎回毎回、し終わった直後には罪悪感にさいなまれるくせに。
「あ、ナオ」
心臓、止まった。
部屋を出ようと扉を開けたら、そこに弟がいたから。
「……ぁ、カズ」
さっき、俺の頭の中で、ありえない想像をされていた弟がいた。上半身裸で、濡れ髪の先から雫を零しながら、肩からバスタオルをかけて。
「帰ってきてたんだ」
「……ぁ、あぁ」
「……全然、気がつかなかった」
セックスしてたからシャワーを浴びたのか。
「いつ帰ってきたの?」
女は? まだ部屋にいるのか?
「あー、三時くらい、かな。ちょっと前に……」
「……ふーん」
本当に帰って来たのは二時くらい。
「俺がシャワー浴びてる間かな。音、わかんなかった」
「そう」
「……ねぇ」
女は、いなかった。階段を下りようとカズの部屋の前を通る過ぎる時、ちらりと、横目で、少し伸びた前髪をかき上げるようにしながら覗いたら、誰もいなかった。
「ナオ」
「!」
心臓が、また止まる。
「髪、伸ばしてんの?」
「は? 何?」
「長くね? 前髪、っつうか、全体的に」
カズが俺の髪に触った。指で、まるで校則を破ったと叱りつける教師のように前髪を摘んで指摘する。
「い、忙しかったから」
その指が俺に触れた。
「そんだけだよっ」
その濡れた唇で、俺に話しかけた。
「は、早く着れば? 四月だからって、風邪引くぞ」
たったそれだけの接触で、火照りそうになる身体に慌てて、俺は避けるように、逃げるように階段を急いで下りた。
「っ」
なんで、触るんだよ。
「っ、最悪っ」
今さっき吐き出したばかりなのに、もうそこにおかしな熱がまた膨らんで腫れぼったく火照ってしまうのに。
「おい! 直紀! ナーオー」
「……お前さ、自分のとこの学科、間違えてる?」
「間違えたい!」
「……はぁ」
思いきり溜め息をついて見せても、司は気にすることなく、他所の学科のはずの講室にまるでここの学科の学生のように普通に座っている。
「お前のとこ、可愛い子多いじゃん」
「……ふーん」
「ふーんってそんな他人事のように」
「他人のことだろ」
「まぁな、お前、女子人気、むっかしから高かったけど、全然、無関心だったもんなぁ」
だって、そんなの知らないし。どうだってよかった。
「イケメンイケメンイケメーンって、剣道やってただけあって」
司が素振りをする真似をちらりと見て、鞄の中からテキストを取り出した。
「そんな連呼されたことないけど?」
「あるんだよ。聞いてなかっただけ。お前の話いっつもカズのことばっかだったじゃん」
「っ、は?」
「ほら、そうやって、突っかかるの大概和紀のことだぜ? あとは大体、ふーん、とか、へぇ、とか」
司にとっては何気ない会話。けれど、それはまるで一番開けてはいけない扉の鍵穴に無作法に針金でも差し込まれたような気分だった。
カチャカチャと無邪気に鍵穴をほじくられるみたいに。絶対に開かないはずの扉が、何かの拍子に開いてしまいそうで。
「あのー、和久井直紀君(わくいなおき)、って、この後、開いてる?」
「……え?」
知らない女だった。
(うわ、すげぇ可愛いじゃん)
「あの、もしよかったら、昨日、新入生会来なかったでしょ? 今日、どうかなって。大学の近くのレストランなんだけど」
(うわぁ、お前、めちゃくちゃ羨ましいぞっ)
「もし、良ければ、隣の友だちも」
カズのことにちょっとでも関わることは、一番開けられたくない扉。一番知られるわけにはいかない秘密を隠した扉だから。
「あ、あぁ、うん、行くよ」
そこをほじくられそうになって、回避したくて話しを逸らそうと慌てて頷いた。なんでもいいから、誤魔化そうと一生懸命だった。
この感情に気がついたのは中学生の頃だった。
それこそ、淡い淡い恋心なんて可愛いものじゃなく、もっと露骨で、もっとえぐくて、もっと生々しかった。
好きな子はいなかった。気になる、と思った女の子は、数人いた。けれど、その気持ちはそれ以上の大きいものに膨れることはなかった。そして、今思えば、その全員がショートカットに目元が少しきつめの感じの子。
今ならもうわかってる。全員、カズに、似ている子ばかりだった。
ずっと、友だちたちが好きな女の子の話をし合うのを横目で眺めて、いつかは自分もあんなふうに楽しそうに話すのかなって、ぼんやりと思っていた。
そして、ある朝、起きて、目の前に突きつけるように、掌に押し付けられるように、皆の楽しげな恋愛話には入れないことを、自分が弟に持っている感情の名前を知ったんだ。
その日、夢に弟が出てきた。一つ年下の、血の繋がった弟。
夢の中でやたらと名前を呼ばれて、返事をする自分の声で目が覚めたんだ。そして――。
俺が女だったら、姉だったら、多少は違っていたのかもしれない。男だったから、兄だったから、弟に対して持っている感情がそのまま生理現象になって表れる。
淡い恋心なんて優しいものじゃない。欲望の塊だと、それこそまざまざと見せ付けられてしまう。
朝、起き抜けの下着の中に。
夜な夜な育つ興奮に。
俺は弟に欲情するって。
「あの、予約してないんですけど、カットってお願いできますか?」
――長くね? 前髪っつうか、全体的に。
一番開けられたくない扉。それは司にも、同じ学科の女子にも、そして、カズにも、知られるわけにはいかない秘密を隠した扉だから。
「全体的に切ってもらいたいんですけど」
弟に髪に触れられただけで欲情する兄なんているわけがない。だから、もう、またあんなふうに触れられることのないよう、新入生会までの時間に、急いで髪を切って、新入生会で帰りが遅くなれるように、夜まで時間を潰して、この秘密を隠そうとした。
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