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第38話 世界で一人

 ――その仮面、全部取ったら、お前はどんな顔してるんだろうな。  この仮面の下は、とても見せられたものじゃないと思います。欲しがりだから。きっと「欲」って言葉が付いた感情がぎゅうぎゅうに詰め込まれてる。  汚くて、醜くて、卑猥で、そして貪欲だと思う。  ――そのお前の素顔が見られる相手はそう多くないんだろうな。  きっと一人しかいない。それを見られるのはきっと。 「……カズ?」  世界でたった一人、弟だけなんです。 「っ! ナオ!」  俺の仮面の下、ドロッドロの素顔を見られるのは。 「あんた、どこ行ってたんだよっ」 「……」 「急に外で飯食ってくるって、バイト先の奴とって、あれだろ、司の親戚の、ィッテテテテテテ!」  ほら、駅からうちの間、ここの交差点は必ず通るから、そこでじっと待って、どうしたものかと、駅のほうをただ一心に見つめて待ちぼうけになっていた、この弟だけだ。 「な、何! ほっぺた、いてぇよ!」  そりゃ、痛いだろう。ほっぺたを思い切り抓ってるんだから。 「何! おいっ! おいって! ナオ!」 「……女子と買い物してた」 「は?」 「駅にいた。女子と」 「……」 「でかい胸押し付けられて、ネトネトした声で話しかけられてただろ」  手を離すと、頬が真っ赤になってるのが暗い夜道でも、街灯のおかげでわかった。 「あ、れは……勝手に、向こうが」  そういう問題じゃない。 「俺は買い物しようと思ってて。そこについて来たんだって。別に駅のところだけで、その後は」  一緒に買い物してたなんて思ってない。実際、お前はあの女子なんて目もくれずにどこかに歩いて行ったから。それを一生懸命にあの子が追いかけてきてただけのことで。 「その後は……」 「何、笑ってんだよ。カズ、俺は怒ってるんだぞっ」 「だってさ」  はぁ、って深呼吸をして、口元を押さえて、抓られたところだけじゃなく顔を赤くしてる。 「ヤキモチ、だなぁって……」 「悪いか?」 「いや、全然、嬉しいよ。っていうか、酒また飲んだんだろ? 酒臭い。それにバイト先の男とってさ、すげぇ、こっちこそ、色々、思うんだけど」  相当なポーカーフェイス。いっつもすました顔して、真面目ないい子ちゃん。あと、退屈そう……そんな顔をした奴を知ってる。今、ここに、目の前にいる。  俺の弟が、そんな顔をよくしてる。すました顔で成績優秀で、いつも退屈そうにしてるんだ。 「めっちゃ慌てて、飛び出したんだけど、どこで飲んでるとかわかんねぇし。っていうか、スマホ持ってるんだから出ろよ」 「仕事場の人と飲んでたら出ないだろ」 「仕事ってバイトじゃ、イテテテテ」  けれど、俺の前ではそんな顔をしない。怒って、焦って、照れて、真っ赤になって、笑うんだ。 「それに、イライラしてたから、出ない」 「……」 「すごくイライラしてたんだ」 「……」 「イライラしすぎて一気飲みして、今、すごく」 「?」 「気持ち悪い」 「は? ちょっ、待っ? 待って、マジで」 「無理」 「ちょー! タンマ!」  俺の前では、笑って、困って、静かな住宅街で絶叫したりもするんだ。  さっきまでふわふわしてた。ジリジリと痺れて感覚が鈍くて。 「……どう、気分は?」 「んー、楽になった、吐いたし」 「……酔っ払い」  酔っ払いですよ。そう深呼吸をした。  話してたら急に気分が悪くなって、もうそのままダウン。たぶん緊張が解けたんだ。カズがいてくれるから、気丈に振舞ったりしなくていいと思った途端にさ。で、もうそのよろよろのダウンしかけの中、カズに頼んで連れて来てもらった。  駅のところにあるビジネスホテル。  別に観光地でもなんでもない駅前にぽつんと一つだけずっとあるビジネスホテルだった。  誰がこんなところに泊まるんだろうって思ってたけど。  ここにいた。 「悪酔いしたのはカズのせいだ」 「…………なんで、バイト先のさ、司のその親戚っていう奴が酒を?」 「誕生日だから」 「は? 何それ」 「誕生日だからってごちそうしてくれたんだ。酒は……わざと間違えたフリをして一気飲みした」 「意味わかんねぇ」  見知らぬベッドの上、真上にある照明が眩しくて手をかざすと、明かりを遮るように掌を大きく広げた。 「ねぇ、なんで、家帰らないで、こっちに来たかったの?」 「……酒臭いから」 「風呂入ってそのまま寝ればいいじゃん」  明かり避けにしていたその手をカズが掴むから、眩しくて仕方がない。 「わざわざ引き返してまで」 「……セックス、したかったから」  カズがごくりと喉を鳴らした。 「弟と、セックスしたかったから」 「……」 「けど、普通は弟とセックスはしないから、バレないようにホテルにした」  お酒を飲んだら、指先がふわふわして、ジリジリと痺れて、感覚が鈍くて変だった。 「カズに抱いてもらおうと思って、ホテルにしたんだ」 「っ」 「したい、カズ」  今、そのふわふわしててじりじり痺れていた指はカズに掴まれて、神経が剥き出しになったみたいに敏感になってる。  ――その仮面、全部取ったら、お前はどんな顔してるんだろうな。  もっと重ねないと、仮面を。 「カズ……抱いてよ」  剥き出しにしたらひどい顔だ。実の弟の唇に噛み付いて、股間に手を伸ばす兄の顔なんて、きっと見せられたもんじゃない。  だから、ちゃんと隠さないと。 「せっかくホテルにしたんだから、早く」  誰にも知られては、見られてはいけないんだから。俺の素の顔も。 「抱いて」  弟の、こんな顔も。世界中で一人、お互いだけが見ていい顔なんだから。

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