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第37話 仮面の下

 カズは買い物をしてたんだろうか。女子と? あの子は、前にもうちに来た子の一人なんだろうか。  知らない。たくさんいすぎて、覚えてない。でも……たぶん、そう。  胸を押し付けるように腕を絡ませてた。甘ったるい声はネトネトしてた。上目遣いが計算づくって感じで、イライラした。 「へぇ、お前、帰国子女じゃないのか?」 「違います」 「それにしては発音綺麗だな。耳がいいんだろうな。お、また次も烏龍茶でいいか?」 「はい」  明弘さんは俺のために食事の美味しいところを選んでくれた。昭弘さんはウーロンハイ。二杯目の飲み物で二回目の乾杯をしながら、自分の中にイライラが残っているのを感じる。  何をしてるんだって、カズのこと問い詰めたかった。でも、俺は兄だから。  兄だから、咎められないだろ? 意味がわからないじゃん。いきなりさ、弟が女子といるところに割り込んで、何してんの? なんて問い詰めるのは不自然だから。 「さっき駅前で高校生カップルを見て足止めたろ? あれ、お前の弟?」 「え? なんで」 「だって、一緒にいた彼女が和久井っつってたろ? お前も振り返って見てたし」  兄はそんなことしないんだから。  大人の遊び場、だっけ?  静かな店内はお酒を提供するバーなんだろうけれど、酔っ払いみたいにふらふらしてる人は一人もいない。  ふわふわする。指先が。  グラスを持つ指先がふわふわしてて、足の先もふわふわしてて、なんだかどこまでも自分の感覚が広がっていくみたい。  いや、違うか。鈍くなってく感じ。ぼやけて、麻痺してるみたい。  手を握って開いて、握って開いて、ってしても何の変哲もないいつもの自分の手なのに、その指先の感覚はまるで違う。鈍いような、鋭敏なような。 「……ジンジンする……」  やっぱり鈍いんだ。手に取ったはずの箸を落っことしてしまった。 「お前ね、酔っ払い。気持ち悪くないか?」 「ふわふわ、します」 「当たり前だ。烏龍茶じゃなくて、お前が一気飲みしたのはウーロンハイだよ」  知ってるよ。  知ってて飲んだんだ。 「だって」  だって、明弘さんがイライラしてる俺にイライラの原因になったカズとその隣にくっ付いて離れないネトネト声の女子の話なんてするからだ。 「ほら、箸」  明弘さんが俺の落とした箸を拾ってくれて、代わりに別の箸を手渡してくれた。 「ほら、こっち飲め」 「やだ。取らないでくださいってば」 「バカ、お前は茶だろうが。茶を飲め」  やだやだと駄々を捏ねる子どもみたい。取り上げられそうになったグラスを慌てて握り締めると、まだ半分ほど残っていたウーロンハイがピシャンと跳ねてしまった。 「飲みすぎだ。酒は一気飲みするもんじゃねぇよ」 「わかんないですよ。知らない。お酒なんて飲んだことないですもん」 「一度も?」 「あ、この前、間違えて飲んじゃったことはありますけど」 「よく間違えるな……」  いいでしょ、ドジなんですって呟いて頭をカクンと下げると、なんだかやたらと重い気がした。下を向いた途端に自分の頭がとても重さに、もう一度顔を上げるのが億劫にすら思えた。 「でもまぁ、俺がお前の歳くらいには飲んでたしな。真面目だな、お前は」 「……」  真面目? 誰が? 俺が? まさか。 「真面目なもんかっ!」 「おい、ほら、箸また落っことすぞ」 「……真面目なんかじゃないですよ」  弟とあんなことしてるのに? 「不道徳もいいとこです」 「……」 「……好きな人がいるんです」 「ほー、お前、酔っ払うと饒舌になるのか? 恋の話が聞けるとは」 「……恋、かぁ」  恋と呼んでいいほど可愛い形をしているんだろうか。俺のこれは。 「ずっとずっと好きだったんです」 「へぇ」 「ずっと片想いしてました」 「ほー」 「目が合うだけでドキドキして」 「ふーん」 「笑ってくれると嬉しくて」 「すげぇな、純愛ってやつか」  相手を知らなければ、言葉にしたこれはそう思ってもらえるんだ。 「……いえ、純愛なんかじゃないです」  でも、相手を知ったらそうは思ってもらえないんでしょ? 知ってるさ。わかってる。 「とても純愛からは程遠いですよ」  恋をしたのは血の繋がった弟、なんて、そもそも恋には入れてもらえないって。  ずっとずっと片想いしてた。でも、カズはいつもどこぞの知らない女子が独り占めしてる。女ってだけで抱いてもらえる。ズルいじゃん。  俺も、って思うじゃん。  けど、俺が一番、そういうのはありえないんだ。兄だから。  カズの隣にさっき女子がいた。  それを明弘さんは彼女だと言った。付き合ってるって思ったんだ。一緒にいるから。でも、俺が隣にいてもそうは思われない。当たり前だけれど、俺はカズとの恋愛対象には入らない。  司にしてもそうだ。  長年彼女がいなかった俺が旅行に行くと言ったら「彼女」と行くだろうって思ってた。カズと行く、だなんて思いもしない。  弟だから。  弟は恋愛対象外。それは当たり前のこと。当然のこと。普通の、こと。 「……お前は面白いな」 「面白くなんかないです」 「面白いよ」  弟になんて恋しない。 「お前、気がついてないみたいだけど。相当なポーカーフェイスだよ」 「……」 「いっつもすました顔して、真面目ないい子ちゃん。あと、退屈そうだ」 「……」 「俺は、その良い子ちゃんの仮面の下がどんなだろうって思ってた。今日は、酒のおかげか少しだけ見れて楽しかったよ」  俺の仮面の下。 「けど、その仮面、全部取ったら、お前はどんな顔してるんだろうな」  仮面の下は。 「そのお前の素顔が見られる相手はそう多くないんだろうな」  仮面の下は……きっとたった一人しか見られない。 「……ほら、そろそろ帰るか。ほんの片鱗でも俺にもお前の仮面の下がどんな顔か見られて楽しかったよ」  きっと、一生、この仮面の下は――。

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