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和紀視点 5 その人は俺の兄で、俺はその人の弟で

 子どもの頃、俺はあまり友だちが多くなかった。  放課後になると教室を飛び出して、同級生じゃなく、うちへ一目散に帰ってた。そうしないと、ナオが先に帰ってどこかに遊びに行ってしまうかもしれないって。  そして帰って来たナオの後ろをずっと追いかけてくっついて回ってた。 「あ……あった。これいいじゃん」  熟睡しているナオの隣でスマホをいじってた俺はそう小さく呟いた。雨はまだ降ってるみたいだ。かすかにだけど外を車が走ると水しぶきの音がする。 「ん……」  ナオが裸の肩を竦めて、俺を探して手を伸ばす。静かに寄り添うと、その指が俺に触れて、確かめて、引き寄せ、キスをするように唇で腕を撫でる。そっと、起こさないように、そっとその髪にキスをした。 「……」  ねぇ、ナオ、あの頃から、まだガキでランドセルをガシャンガシャンってさ、派手な音を立てて走って帰っていたあの頃から俺はずっとナオのことだけが好きだった。  今も変わらず、貴方のことを追いかけてる。  知ってた?  今でも変わることなく、ずっと貴方の隣にくっ付いて、四六時中一緒にいたいんだよ。二十四時間じゃ足りないくらい、俺はずっと――。  一流大学にしたのは親を満足させるため。  ハイレベルな大学のうち、どれでもよかったけど、今通っているところに決めたのは、ナオのアパートに一番近かったため。  ほら、そしたら、寝泊りに「兄のアパート」を選ぶ良いこじ付けができる。  でもさ、貴方のことを追いかけてるのは、ガキの頃からのことでさ。 「母さん、あのさ……俺」  そう生半可なものじゃないんだ。これは。  実の、血の繋がった兄を好きなんだから、そう簡単には柔らかくならない。そうやすやすとは薄まりなんてしないんだ。 「俺さ……」  タイミングとしては悪くない。  そういうのを図るのは得意なほうだと思う。 「和久井君、悪いね、これ、キャラメルラテね、三番テーブルに運んでもらえるかな」 「はい」 「遅れちゃったこと」 「了解です」  マスターに頼まれたカップを手に持ち、三番テーブルに運ぶ。今の時間が五時、そろそろ、かな。スマホは持ち歩くのを禁止されてるから、ロッカーの中だけど、今頃、「は? 何、急に」なんて驚いてるかもしれない。  今日からバイトを始めるからってメッセージを送っておいた。  それから。  来週から、そっちに引っ越すから、荷物はとりあえず、適当に鞄に詰めて持ってく、って事も伝えたから、きっとものすごく慌ててるだろ。何言ってんのってさ。 「お待たせしました。キャラメルラテになります。遅くなってしまい大変申し訳ございません」  微笑んで見せると、女が顔を綻ばせて首を横に振った。  女二人、二十歳ちょい、くらいかな。たぶん、そこの大学の生徒。そんで、そこの大学には……ナオがいる。 「いらっしゃ……」  扉を開けると上部にぶら下がっている鈴がカランコロンと乾いた音を鳴らす。その音が聞こえて、顔を上げて。 「……」  びっくり、した。 「ぇ……ナオ」  まだどこでバイトをしてるかは教えてない。流石に呆れるかもしれないって思ったんだ。まさかそこまでついてくる? なんて思うかもしれないって。だから様子を見つつ伝えようと俺なりにタイミングを見てたんだけど。  メッセージ読んだ? それとも読んでない? これはただの偶然? 「なんで」 「カズ? ほら、お客さんが呼んでる」  それとも知ってた? 「あっち座っていい?」  俺はまだ貴方に言ってないのに。ここでバイトをすることも、兄のアパートに転がり込む許可を親から取り付けたのも、まだ、貴方には言って……。 「あ、あぁどうぞ」 「ありがと。バイト、頑張って」  言ってないのに。  綺麗に微笑み、窓際の、日がよく入る席に腰を下ろすナオを見ながら、ふと、思い出した。  たまに帰りに担任の話が長かったり、学年が違うせいで、行事とかで俺のほうが帰りが遅いこともあったっけ。そんな時はもうランドセルなんて放り出したいって思いながら必死に家まで走った。  だって、急がないと、ナオが外に一人で遊びに行っちゃうだろ? 同じ歳の友達と一緒にさ。 『おかえり、カズ』  そして慌てて、必死に走って帰ると、ナオは家で宿題をしてた。リビングのテーブルにちょこんと座ってドリルをやってた。あの時は、よかった、まだうちにいてくれたってホッとしてたけど。 『た、だいま……』 『やっと宿題終わった。これで遊びに行ける』 『! 一緒に行きたい』  今思うと、あれさ。 『いいよ。一緒に遊ぼうか』  俺を待っててくれた? 「あの、ご注文は……?」 「うーん……そしたら」 「ねぇ、ナオ、どうして俺がここでバイトしてるって」 「そりゃ」  ガキの頃から変わらない。俺はずっとずっとどこまででも、あの細長い公園の端までだって、もっとずっとその先までだって、貴方だけを追いかけてく。貴方の行くとこ全部にくっついて回りたい。それこそ、この身体が邪魔だと思えるくらいに。  貴方だけが欲しくてたまらない。 「カズの兄だからね」  兄弟だということが足枷だった。男同士だからとか歳が違うとか、そんなのは些細なことで、ただただ兄弟であることが嫌だった。  それがなかったら俺はこの人を欲しいと叫んで、願って、抱けたのにって。 「家族だもん」  でも、今は兄弟でよかったって心底思うんだ。 「じゃあ、甘いのがいいな。カズのおすすめは? とびきり甘くて美味しいの」  気持ちも身体も繋げた。それでも別々の人間だ。けどさ。 「ナオが好きそうなのは……これ、かな」  俺と貴方は血でも繋がってるから。一生、消えることも、なくなることも、もちろん、ちぎれることもない繋がりだから。  貴方が俺の兄で、俺が貴方の弟でよかった。そう思えるほど、貴方だけを。 「じゃあ、それで」  愛してる。

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