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『誕生日*当日』side大和
少しだけ眉根を寄せて笑う。
それは学校の中で、伊織が当たり前に見せる作られた表情とはまるで違う顔。
怒っているのか、呆れているのか、素直に笑うのをこらえているのか、その表情から気持ちを読み解くのは難しいけれど、周りが伊織に対して使う「キレイ」でも、「かわいい」でもない、この表情 は俺だけに向けられたものだ——
「はい、おめでとう」
そう言って差し出された薄い封筒を俺は素直に受け取る。
駅の構内は電車の運転状況を知らせるアナウンスと駅ビルの入り口から漏れ聞こえるクリスマスソングが混ざり合った上に、人々のざわめきが重なり、とても騒がしかった。
土曜日の夕方、部活が終わり自宅の最寄り駅の改札を抜けると、イヤフォンをして視線を緩やかに動かす伊織が柱を背に立っていた。伊織は俺の姿を見つけると、まるで待ち合わせでもしていたかのように小さく笑って手を振ってきた。俺は一瞬、自分に向けられたものではないかもしれないと視線を外してしまったが、伊織はそんな俺を見て「大和?どうかした?」と当たり前のように俺に駆け寄ってきた。
騒がしい駅前からバスロータリーを抜け、家の方角へと歩きながら、伊織が早口で言った。
「いや、もう忘れてるかと思ったんだけど、去年の誕生日に行きたいって大和が言ったからさぁ。あの時のお前、すげーボロボロ泣いてたから、よっぽど行きたかったんだろうなって思って、それで……大和?」
半歩前を歩く伊織が振り返る。
俺は先ほど渡された手の中の封筒を見つめていた。
「何?それじゃ不満?」
伊織が足を止め、俺を見上げてくる。
笑ってはいない。
少し不安そうに揺れる声を隠すように寄せられる眉根。
「あ、いや、よく覚えていたな、ってビックリしただけで、」
「嬉しくはないってこと?」
「え、いや、嬉しいよ。すっげー嬉しい」
「……ならいいけど」
再び歩き出した伊織の口元で白い息がふわりと浮かぶ。
耳の先が赤いのはこの夜の寒さのせいだろうか?
「一応、そのチケット有効期限あるから使うなら早い方が……」
「じゃあ、明日っ!明日使いたい!!伊織、明日ヒマ!?」
思わず前のめりに言葉が口から飛び出す。俺の大きくなった声に再び振り返った伊織が呆れたような笑い顔で「しょうがないから付き合ってやるよ」と言った。
俺は手渡されたばかりの封筒の中から一枚だけチケットを取り出す。
気づけば俺と伊織の家へと続く道が分かれるところまであとほんの数メートルだった。
このまままっすぐ大通りを進むと伊織の住むマンションが見える。
俺の家はその数メートル手前の路地へ入って同じような造りの家ばかりが並ぶ区画の奥にある。
「じゃあ、明日駅前に待ち合わせでいい?時間はあとで連絡するから」
「いいけど。……なんか変な感じ」
コートのポケットから出された白く細い手が俺の持つチケットを指先で掴む。
「?」
「さっき渡したばっかなのに、もう俺の手元に戻ってきてるし」
そう言って俺を見上げる伊織は小さく笑っていて、その声は転がるように弾んでいた。
「はは、確かに」
俺の息が冷たい夜の空気に白く溶けていく。
外灯の明かりから飛び出している伊織の顔には薄い暗闇がかかる。
それでも寒さで赤くなっている鼻先や頬はマフラーでは隠せず、吐き出される息はふわりと舞う。そんな些細なことがはっきりと伝わってくる。
ふと、伊織はいつから駅にいたのだろう、と思った。
俺が見つけた時、伊織の鼻先はもう赤かっただろうか。
ポケットに隠されていたその手はもうずっと冷たかったのだろうか。
今も、ずっと……寒いのだろうか——?
「……」
「大和?」
「!」
俺は無意識に伸ばしていた右手を急いで引っ込め、コートのポケットに乱暴に突っ込む。
「あ、あー、ごめん。なんでもない。雪でも降ってきたかと思ったけど違ったみたい」
「え、雪?」
伊織の視線がふわりと空へ向いた隙に、俺は大股で踏み出し、道の先へと進む。
「いや、俺の勘違いだった」
「……そっか」
俺は伊織の顔を確かめるのがこわかった。
「じゃあ、明日な」
先にたどり着いた分かれ道で振り返ると、すぐ後ろを歩いていた伊織がいつもと変わらない声で「おう、明日。あ、誕生日おめでとう」と言ったので、俺もいつも通りに「ありがと」と笑って答えた。
伊織よりも先に背を向けて歩き出した俺は、頬に触れる風の冷たさとは反対に熱くなっていく右手で一枚になってしまったチケットを握りしめる。
嬉しかった。
本当は、すごく、すごく、嬉しかったんだ。
当たり前のことのように誕生日に会いに来てくれることが、俺を見つけて小さく笑ってくれるのも、駆け寄って来てくれるのも、一年も前のたった一度きりの言葉を覚えていてくれたことも、全部、全部嬉しかったんだ。
嬉しくて、嬉しかったのに——同時にたまらなく悲しくなって、手を伸ばしていた。
「っ、……」
触れたいと、抱きしめたいと、そう思ってしまった自分がたまらなくこわかった。
目の奥に集まりだす熱をこらえようと左手を口元に持ってきた時だった。
「!」
自分の手の甲に、それは落ちてきた。
一瞬の白さだけを残して、はかなく消えていく。
冷たいと感じることもできないほど、小さな、とても小さな存在。
とっさに逃げるようにごまかした自分のウソを思い出す。
「本当に、降り出すとは……」
見上げた空は雲がかかっていて光は見えないのに、視界の全てを埋め尽くすように際限なく舞い続けるその姿は美しかった。
「初雪か」
吐き出された自分の息を素通りして音もなく落ちていく。そして、足元の地面に吸い込まれるように静かに消えていく。そんなふうに、この苦しさも一瞬の出来事として消してしまえたら、どんなによかっただろう。変わってしまった自分を俺自身が一番受け入れられないのに、それを伊織が受け入れてくれるなんて、どうして思えるだろうか。
握りしめたままの右手の中で乾いた音が鳴る。
それでも、この嬉しかった気持ちをなかったことになんてできなくて、この悲しさも苦しさも雪のように溶けてはくれなくて、俺の中にある熱はこの真っ白な世界を変えてしまうのだと、そう気づいている。
「……」
止まりかけた足を、再び前に持っていく。
振り返ることはできなかった。
振り返った先、そこに伊織がいたのだとしても、いや、いなかったのだとしても、今の俺はうまくごまかすことがきっと、できないから——
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