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『クリスマスイヴ*前日』side大和

「なぁ」  次の授業で使う辞書を隣のクラスまで借りて戻ると、前の席に座る冨樫がすかさず俺に声をかけてきた。 「なに?」  椅子を引きながら視線を向けると、冨樫は俺の視線を促すように顔を廊下側へと向けた。 「いいの?アレ」 「アレ?」  廊下側の一番後ろ、伊織が座っている席を女子が取り囲んでいた。イベントごとに伊織の周りに女子が集まるのは、もはや教室内の見慣れた風景になっている。「いい」も「悪い」も俺がどうにかできるものでもない。漏れ聞こえる声から「クリスマス」という単語が耳に届いたが、俺はその声ごと振り切るように顔を戻す。 「あー、別にいつものことじゃん」  俺は机の中から教科書を引っ張り出し、両腕を天井へと伸ばす。 「そうだけど」  冨樫の不思議そうな声に、俺は「……(ねみ)ぃ」とあくびを被せ、窓の外、雲の広がるすっきりとしない空を見上げる。 「なぁ」 「なに?」  青と灰色を足して薄く伸ばしたような色の空に、太陽の姿は隠れてしまっている。 「ケンカでもしたの?」 「なんで?」  締め切った窓の外の気温を感じることはできなかったが、ゆっくりと厚みを増していく雲の影に覆われた世界からは熱が消えてしまっているようだった。 「なんか、最近一緒にいなくない?」 「そう?別に変わんねーよ」  俺は視線を冨樫の先の黒板へと向けながら笑って返す。 「本当に?本当に何にもない?」 「ないって。しつこいな」 「まぁ、伊織もそう言ってたけど。でも、なんか気になっちゃうんだよなぁ」 「……伊織もそう言ってるんなら、なんの問題もないじゃん」 「いや、だってさ、今まではもっと、」  さらに言葉を重ねようとする冨樫に、俺はわずかに声を強くする。 「別に普通じゃない?これくらい。『友達』なんだから」 「……そう、だけど」  そのわずかな間が、俺の言葉に納得していないことを示していたけれど、チャイムと同時に教師が入ってきたため、冨樫はそれ以上何も言わなかった。  なにもないって伊織が言うんだから、なにもなかったんだよ。  ——なにもなかったことにするしか、ないじゃないか。      *  ——限界だった。  言葉を飲み込んで、想いを押し込めて、いつもと同じ顔を作って笑う。  当たり前にできていたはずのことが、慣れたはずの仕草が、もうできない。  どうしたって溢れてしまう。  星の光を捉えられるくらい暗くなった空も、ほんのわずかな風でさえ震えてしまうほど低い気温も、歩き回って重くなった足も、自分たちを飲み込んでしまうほどの人の多さも、そんなこと気にならないくらい、忘れてしまうくらい、俺は幸せだったのだ。  カラフルに輝くライトはどこか現実離れした美しさで、伊織の柔らかな髪に触れていて。楽しそうにはしゃぐ他人の声が遠く霞むほど、伊織の少し尖った声が耳に心地よくて。流されるように歩いているはずなのに、当たり前に揃った歩幅がどこかくすぐったくて。見慣れているはずの深緑色のマフラーから覗く小さな耳の先が赤く染まっていて。繰り返される呼吸に合わせて漏れる白い息が色を増していて。——手の届く距離にいてくれるその姿に、どうしても触れたくなった。 「……確かに、この方がいいな」  伊織には決して見えないコートのポケットの中で、俺は強く自分の手を握りしめる。 「何?そんなに俺が見えると安心するわけ?」  少し棘の含んだその声でさえ、俺を傷つけるほどには響かない。  遠ざかる遊園地から流れるメロディが、苦しかった時間よりも幸せだった瞬間を俺に思い出させる。  だから、もう隠すことなんてとてもじゃないけど、できなかった。  こうして伊織が目の前にいてくれる、それだけで、俺はこんなにも嬉しいのだから。 「うん……見えるほうがいい」  そう呟いてしまった自分の声に自分でも驚きながら、それでもどこかで願っていた。  白く吐き出される息が色を増すように、暗い夜空の中で星の光が見えるように、もう消すことなんてできないのだと、もう変わってしまっているのだと、そう伊織にもわかってほしい、と。  だけど—— 「なに?何か言った?」  こんなに溢れてしまっているのに、もう見ないふりなんてできないほどに気づいているだろうに、それでも目を閉じた伊織のその言葉に、俺は何十回と吐き出してきた答えを、初めて飲み込んだ。 「……」  ——もう一緒に歩くことはできない、そう思った。 「……大和?」  先に足を止めてしまった俺の数歩先で伊織が振り返る。  その顔を確かめることさえ、俺にはもうできない。  言葉にしなければ、伊織の守りたい世界が壊れることはないのなら。  最後の最後、ぶつけてしまいたくなる言葉を必死で飲み込んだ俺は、口を押さえながら声を震わせる。 「……伊織、ごめん。やっぱ、先、帰って」 「え?いや、先に、って帰る方向一緒じゃん。何?なんか買い忘れたものでもあった?それなら俺も……」 「ごめん。ほんと、ごめん」  俺は伊織を振り返ることなく、逃げるように駆け出した。  まるですがりついているようだった。  ひび割れた器を必死で受け止めるかのように、両手を傷だらけにして、それでも手放すことができないからと、こぼれ落ちる破片にさえも目を瞑って、笑おうとしていた。  伊織がそれを望むなら、たとえもう二度と元には戻らないのだとしても、それに気づかないふりを一緒にしようと、そう思っていた。  だけど、もう無理だった。  小さなカケラだったものが、大きな破片へと変わっていく。  これ以上受け止めるのは、もう難しかった。  それに気づかないふりをして、そばにいるなんて、俺にはもうできない。  ——それなのに、自分の手で握りつぶすほどの勇気まではなくて。散々、壊しておきながら、それでもかろうじて形を留めるそれを、粉々に砕くことまではできなかった。  どこに向かって走っているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、伊織から見えないところまで行ってしまいたかった。視界の端に映る遊園地のカラフルな色ではなく、夜の闇に溶け込むように真っ暗な建物の影の中、俺はようやく足を止める。  走り続けて乱れた呼吸に合わせ、こらえきれなくなった想いを、俺はようやく言葉にする。 「……伊織、ごめん……好きになって、ごめん」  その声が、伊織に届くことは、もうないのだから——      *  チャイムと同時に教科書を閉じ、机に突っ伏した俺の頭の上から冨樫の声が降ってきた。 「大和、呼んでるよ」 「誰?」 「バスケ部のマネージャーだっけ?あの子」  顔を上げることなく尋ねた俺に、冨樫も回ってきた漫画をめくりながら答える。  俺はそっと視線を廊下へと向ける。ドアのところで少し不安そうにこちらを伺っているその姿に、俺は辞書を借りていたことを思い出した。 「あー、行ってくるわ」  俺は机の奥から片手で重みのある紺色の表紙を掴むと、そのまま席を立った。 「ほいほい、いってら〜」  漫画から視線を離すことなく答えた冨樫の声を背に、俺は伊織の席の真後ろを通って、俺の姿にホッとしたように笑う、その表情の元へと向かう。 「ごめん、返してなかった」  教室の暖かな空気から離れ、静かな廊下へと移動した俺は素直に謝った。  差し出された辞書を受け取りながら、俺を見上げた佐渡(さわたり)が少し困ったように笑う。 「こっちも次使うって言ったのに」 「ごめん、て」  そう言って頭を下げた俺の視界を、くるりと背を向けた佐渡のスカートの裾が横切る。 「んー、じゃあさ、」  紺色の表紙を胸に抱えて首だけを振り返らせた佐渡が小さな声で言った。 「明日、部活が終わった後、ちょっとだけ付き合ってよ」 「え?」 「じゃ、よろしくね」  そう言って笑ったかと思うと、俺の返事を待つことなく、佐渡は予鈴のチャイムが響く廊下を走って隣の教室に飛び込んでしまった。 「え?えーっと??」  廊下に一人残された俺は、首の後ろを掻きながら「?」を頭の中に散らしたまま教室へと戻る。 「明日、ねぇ……」  戸惑いながらこぼしてしまった俺の言葉は、教室の中で膨れ上がる暖かな空気に溶け込むように消えていった。

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