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『クリスマスイヴ』side伊織(1)
俺には、目の前の鏡に映る自分の姿すらよく見えてはいなかった。
昨日の大和の「明日、ねぇ……」という言葉が頭の片隅に刻まれたまま、ちっとも消えてくれない。静かな廊下ではなくて、自分の周りを何人もの人が取り囲んでいて、休み時間の暖かな教室ではざわめきが満ちていて……それなのに、どうしてこんなにもはっきりと耳に入ってきてしまったのか。どうしてその声が大和だとわかってしまうのか、自分でも不思議でならなかった。
それでも、聞こえてしまったものをなかったことにはできなかった俺は、終業式が終わって多くの人が帰った教室内にまだ残っていた。
「おっけー、上出来じゃない?」
「うんうん。バッチリだね」
その楽しく弾む声に、俺はようやく目の前の机に置かれた鏡へと意識を戻した。席に座ったままの俺を数人の女子たちが取り囲んでいる。いつもの見慣れた光景。だけど——
「え?」
鏡に映る自分の姿が思っていたものとはあまりにも違ったため、思わず戸惑うような声がこぼれた。
「これでいいの?」
仮装や化粧のお願いに慣れてしまった俺は、今回のクリスマスもそれなりに遊ばれるのだろうと、勝手に思っていた。それでもその申し出を断らなかったのは、断る方が面倒だったのと、もう一つ、学校に残る理由が欲しかったからだ。明らかに頼まれて残っていたとわかる格好であれば、怪しまれることなく大和に会いに行けると思ったのだ。
だけど、これは——
「テーマは、クリスマスデートしたい彼氏だよ」
化粧もされず、仮装もされず、目の前に見えるのは見慣れた自分の顔だった。唯一変わったことといえば、髪の先が少しカールしているくらいだ。
「伊織くんはね、そのまま、何も飾らなくても十分素敵だから、今回は髪だけにしました」
そう言って鏡越しに俺に視線を合わせ、笑ってみせるその顔はどこか誇らしげだった。
そのまま……か。勝手に彼女たちを利用した自分の浅ましさを突きつけられた気がした。
俺はいつも通りの笑顔を作って振り向く。
「あ、じゃあ、このままどこか行く?みんなでクリスマスデートでもする?」
どうせこのまま大和に会ってもうまく誤魔化せないし、そもそもバスケ部が終わるまで後一時間はある。結局、大和と俺のタイミングなんて初めから合っていなかったのだ。今日はもうこのまま会わずに帰った方がいいのだろう。
「ううん。私たちはいいの」
いつも俺と写真を撮りたいと楽しそうにはしゃぐその顔が、今日は違った表情を見せる。どこか申し訳なさそうに、少し恥ずかしそうに、それでもまっすぐ向けられる視線はとても真剣だった。
「散々ワガママに付き合わせておいて今さらって思われても仕方ないけど……でも、私たちが本当に好きなのは、心から笑ってる伊織くんなんだ」
「!」
「いつもの伊織くんはさ、こうやって鏡の前で変わっていく自分の姿をどこかで楽しんでくれていたけど……でも、今日は違うよね?」
気づいていないと思っていた。気づかれることはないと思っていた。だって、俺はちゃんといつも通りに笑っているじゃないか。いつもと同じ、周りに合わせた笑顔で、周りに求められる表情で、ちゃんと……
「……ごめん」
うまくできていると自分だけが思っていた。自分に向けられる視線に、俺の中身はいらないのだと、『十和田 伊織 』という外見さえあればいいのだと、そう決めつけていた。それがどんなに相手に失礼なことなのか、考えることもなかった。だから、自分を心配してくれるなんて、思ってもみなかった。
「伊織くんが謝ることじゃないよ」
「そうそう、伊織くんはうちらのワガママに付き合ってくれたんだから」
「でも、俺、」
「伊織くん、伊織くんがいつも私たちのワガママに付き合ってくれるのは、本当に私たちのためだけ?本当はその変わった姿を見てもらいたい人がいるからじゃないの?」
「!」
胸の真ん中をぎゅっと掴まれたみたいに、痛みが走る。
頭の片隅に刻んだままの言葉が蘇る。
「だからさ、これは今までのお礼も兼ねた私たちからのプレゼントだと思って」
「行っておいでよ」
「伊織くんが、今、一番会いたい人のところに」
「私たちがこうやってかっこよく変えた、その姿を一番見せたいのは、誰?」
「……」
いつだって思い浮かぶのは、たった一人。呆れたように小さくため息をつきながらも、恥ずかしさを隠すように笑うあの顔。
俺は溢れそうになる熱を飲み込んで、笑った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
立ち上がった俺を、暖房の切られた教室内に残っていた柔らかな熱がふわりと包み込む。
「行ってくるね」
コートとカバンを掴んで、駆け出した俺の背中に優しい声が飛んでくる。
「頑張ってね!」
「素敵なクリスマスイヴを!」
冷え切った廊下の空気さえ、弾み出した俺の心臓を止めることはもうできない。
いくら一人で考えたところで、答えなんて簡単には出ない。
俺が求める答えは、ここにはないのだから。
今、俺が会いたいのは——
「っ、」
廊下を突っ切って、階段を駆け下りる。静かな廊下に響くのは自分の足音と聞き慣れたチャイムの音だけ。
渡り廊下の先、わずかに開けられた体育館の扉からボールの弾む音が聞こえる。
大和はまだ部活中だろう。
俺は速くなっていく鼓動を落ち着けようとスピードを緩め、息を大きく吸い込む。
バスケ部の部室は、体育館の裏にある。
そこで待っていれば、すれ違うことはないだろう。
「……」
見上げた空には薄い雲が広がり、その隙間を探すように弱い日差しが差し込む。お昼を過ぎたばかりだというのに、吐き出す息は白く揺れ、指先に広まっていた熱が冷たい風にさらされる。
スマホで時刻を確かめた俺は、体育館の隣に設置された自動販売機へと向かう。
部活が終わるまでの時間、何か温かいものでも飲んで待っていよう。
手に持ったままだったコートに袖を通し、マフラーをいつもよりきつく巻きつける。
俺は赤い表示を確かめ「ホットココア」のボタンを押す。
ガコン、と大きな音が響き、茶色い缶が姿を現わす。
透明な蓋を開き、手の先から沁みるような熱を確かめた俺は、ふと、遊園地で大和を一人列に並ばせた時のことを思い出した。
——あんなことをしたのに、大和はそれでも帰らず待っていてくれたんだよな。
その時と、今と、どちらが寒いだろうか。
ずっと触れるには高すぎるほどの温度を、それでも両手で握りしめる。
手のひらから伝わる痛いくらいの熱と、吸い込むたびに体の先まで震わせる冷たい空気。相反する温度の真ん中で、揺れ動いたままの俺の感情。自分でも本当はよくわかっていない。
大和に会って、俺は何を言うのだろう。
大和を前にして、自分でもどんな言葉が飛び出すのか、分からなかった。
分からないけれど、ここまで走ってきてしまったのは、事実だから。
こうやって俺を動かしてしまう想いが、どうしたって消せない気持ちが、やっぱり俺の中に存在しているのだ。
それを認めるところから、始めなくてはいけないんだ——
*
遊園地の翌日からたっぷり三日も学校を休んだ俺は、寝すぎてだるくなった体を分厚いコートにくるめ、少し緊張しながら教室のドアを開けた。たった三日来なかっただけで、変に落ち着かない。
「おはよう」
首に巻いたマフラー越しに声を出すと、すぐそばで話していたクラスの女子たちが一斉に振り返ってきた。
「あ、伊織くん!」
「おはよー」
「もう大丈夫なの?」
その高い声はいつも騒がしくて、正直少し苦手に思っていたけれど、今はその変わらない声にホッとする。短い時間とはいえ、当たり前に教室に来ていたクラスメイトたちとは一人違う時間を過ごしていたので、こうしていつも通りに話しかけてもらえることに寒さで強張っていた体が少しだけ緩む。
「うん、いっぱい寝たからね。もう大丈夫」
自分ではまだぎこちなく感じるけれど、俺はいつもと変わらない笑顔を作る。
「そっかそっか」
「よかった」
そして自然に笑い返してくれるその顔に、小さく息を吐き出す。
うん、大丈夫。
これならきっと、大和とも変わらずに話せるはず。
マフラーとコートを手に教室の後ろに設置されたロッカーへと向かった俺は、ゆっくりと視線を巡らした。
外の気温を忘れてしまうほど明るい日差しが差し込む窓際の一番うしろ、温められた机を抱え込むその大きな背中が目に入る。
「!」
机に突っ伏す大和の前の座席で、窓からの熱で背中を温めながら漫画を読んでいた冨樫が俺の視線に気づいた。冨樫は「おはよー」とひらひらと手を振り、そして寝ている大和の肩を叩いた。
「おはよう」
そう冨樫に声を返した俺に、眠そうな顔のまま大和が振り返る。
「あ、」
「ふぁ……お、伊織もう風邪大丈夫なの?」
一瞬戸惑うように言葉を詰まらせた俺に、大和が小さなあくびを被せた。
「あ、うん。もう大丈夫」
「そっか。よかった」
それだけ言うと大和の体は再び陽だまりの中へと戻っていく。
「……」
普通、だよな?
今の挨拶におかしなことなんて一つもない。
大和はいつもと変わらない。
だけど、何か、何かが足りない気がしてしまう。
「伊織?」
コートとマフラーを抱えたままの俺の目の前に、いつの間にか冨樫が立っていた。
「わ、あ、な、なに?」
「なにって、ぼーっとしてるから、まだ熱あるんじゃないかなって」
「あ、いや、ほんともう大丈夫」
そう言って笑いながらロッカーへとコートとマフラーをしまう俺に、冨樫が体を寄せ、そっと囁くように言った。
「大和となんかあった?」
「!」
その言葉に、とっさに振り向くことはできなくて。
俺は小さく息を吸い込み、折りたたんだマフラーに視線を残したまま自分の手をそっと握る。
「なにもないけど……なんで?」
ほんの少しの笑い声を混ぜて、本当になんでもないことのように、疼きだす胸の痛みにフタをする。
「なら、いいんだけど。じゃあ、やっぱり伊織が休んでたから元気なかったんだな」
「!……大和、元気なかった?」
「そりゃーもう、話しかけてもどっか上の空だし、いっつも伊織の席の方見てるし。風邪で休むなんて普通のことなのにさ。だから、俺、てっきりケンカでもしてるのかと思っちゃった」
「ケンカなんてしてないよ。冨樫も心配性だなぁ」
そう言って笑って振り返ることで、先ほど揺れてしまった声を俺は必死に隠す。
「そっかそっか、ならよかったわ。じゃあ、伊織ちゃんがいなくて寂しくていじけてる大和ちゃんをあとで慰めてあげてね」
「ふふ、なにそれ……それ、大和に聞かれたら殴られるよ」
「……殴られたくはないな。うん、やっぱ聞かなかったことにして」
冨樫は自分から言いだした言葉をあっさりと引っ込めて小さく笑うと、緩やかな空気をまとったまま自分の席へと戻っていった。
大和は冨樫が席に戻っても、その大きな背中を伸ばすことはなかった。
*
「……本当にこれから行くの?」
耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた、聞き間違えるはずのない、声。
振り返った視線の先、体育館のドアから出てきた二つの後ろ姿が目に飛び込んでくる。
「だって、チケット取ってあるんだもん」
「いや、でも、今からだと……」
「文句言わなーい。それとも、今日なにか予定あるの?」
「……ないけど」
「だよね?よし、じゃあ、着替えたら校門で落ち合おう」
「……わかったよ」
見慣れたジャージ姿の大きな背中を残して、小さな影が弾むように校舎の方へと走って行く。
困ったように大きく息を吐き出した大和が首の後ろを掻きながら、俺から遠ざかって行く。
今の、何?
大和と、バスケ部のマネージャー?
昨日の休み時間に大和を訪ねてきたその姿を、俺は覚えている。
そして、その後、大和が呟いた言葉も。
「……」
また、俺の足は動かないのだろうか。
また、この姿を見つめることしかできないのだろうか。
大和が体育館の角を曲がり、俺の視界から完全に消える。
追いかけたい。
追いかけて、その腕を掴んで、それで、今度こそ——
「っ、……」
それで?
大和を捕まえて、それで、どうするの?
俺は——
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