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『元日』side大和(2)

 テーブルの上、無造作に置かれたスマホの画面がパッと明るくなった。伊織が通知されたメッセージに指で触れるまでのほんの一瞬だったけれど、それは確かに見えた。  薄い青空を背景に咲くピンク色の花。  今、俺の手の中にあるのと同じ瞬間を切り取った写真。 「伊織、それ……」 「ん?」  思わず言葉を漏らした俺に、伊織が視線だけで俺を見上げる。  駅を挟んで神社とは反対側にある小さなカフェは、俺たちと同じように初詣を終えた人たちで賑わっていた。カバンからはみ出る破魔矢も、鮮やかな振袖も、ダークブラウンを基調とした空間を明るくしていた。 「その待ち受けの写真さ、入学式の日に撮ったやつ?」 「え?あ、あぁ、そうだけど」  手元に視線を戻しながら答える伊織を見つめたまま、俺はにやけそうになる口元をカップで隠す。 「そっか」  それでも声がわずかに弾んでしまったのを、伊織は聞き逃してはくれなかった。 「なに?それがどうかした?」  ダークブラウンの木目にかぶせるように暗くした画面を裏返すと、伊織がまっすぐ俺の瞳を覗き込んできた。 「いや、同じことしてたんだなって思っただけ」  少しでも声が揺れてしまうのを防ごうと、俺は一度離したカップを再び持ち上げた。  鼻先でコーヒーの香りを吸い込み、その苦さを口に含む。 「へぇ、そっか。大和も待ち受けにしてたんだ」 「!」  その一瞬の間に見せたであろう伊織の表情を見逃したことを俺は後悔する。  視線を向けた先、俺を見上げる伊織は目を細め、少し意地悪く笑っていた。けれど、その表情(かお)は、先に零れたであろう笑顔を隠すために作られている。そうわかってしまうくらい、伊織の声も弾んでいた。  それでも、今見えるのは俺をからかおうと目を光らせる伊織だったので、俺は声を尖らせてみる。 「……なんだよ」 「別に。なんでもないよ」  そう言って小さく笑った伊織の声は、店内にかかるBGMと重なって、心地よく俺の耳に響いた。      *  その日は春と呼ぶにはまだ寒く、着慣れない制服も、緊張した体をさらに硬くさせた。 「大和!」  それは見慣れたいつもの光景。  小学生の頃から変わらず続いている朝の待ち合わせ。  帰りは分かれ道になってしまうその場所が、再会の場所へと変わる瞬間。  俺と同じ真新しい制服を着た伊織が、片手を上げて俺の名前を呼んでくれる。  この一瞬を手放したくなくて、俺は伊織と同じ高校に行けるように必死で勉強したのだ。  これが永遠に続くものではないとわかっているから。  自分の力で続けられるものだけは、逃したくない。 「おはよ。伊織、早くない?」 「おはよ。大和が遅いんだよ」  どちらからともなく駅へと向かって踏み出した足が、同じ歩幅を作る。  硬く小さくなっていた俺の体が、ゆっくりとほぐれていく。 「明日からもうちょっと早く来いよな」  そう言って伊織が肩を狭めて、首を縮めるので、小さな体がさらに小さく見える。 「……伊織、なんか小動物みたい」  思わず零してしまった俺の言葉に、伊織が眉根を寄せたかと思うと、俺に一瞬の隙も与えず肘を俺の腕にぶつけてきた。 「(いっ)て」 「大和がでかいんだよ!」  先ほどよりも大きな歩幅で歩き出した伊織に、俺は長い足を使ってその前へと回り込む。 「……なんだよ」  足を止めた伊織が、まだ不機嫌さの残る目で俺を見上げる。 「ごめん。……これで許して」  俺はブレザーのポケットから取り出したカイロを伊織に差し出す。  伊織は俺の顔から俺の手へと視線を動かし、「明日から十分早く来いよな」と言って温まり始めたばかりのカイロを受け取った。 「十分……せめて五分にしない?」  俺の横をすり抜けるように足を進めた伊織がため息を含ませて言う。 「しない。大和が十分前で、俺が五分前」 「ん?それだと俺が五分待たされるじゃん」  すぐに隣に並んだ俺が伊織の顔を覗き込むと、一瞬足を止めた伊織が俺に鋭い視線を向ける。 「待ち合わせ時間にいつも五分遅刻するのが大和だろ」  そう言って伊織が先ほどよりもスピードを上げて歩き出すから、カイロがなくても温まってしまった胸の中がくすぐったくて、俺は思わず笑ってしまった。 「!……ふは、そっか」  そしてまたすぐに足を並べ、俺は伊織の棘の含んだ声を何度でも聞きに行く。 「納得するんじゃなくて、直して欲しいんだけど」 「まー、いいじゃん。伊織は俺のことわかってるんだから」 「そういう問題じゃないだろ」  怒りを通り越して呆れ返るような伊織の言葉ですら、今の俺には楽しくて仕方なかった。  伊織とうまく話せなくなった時期を思えば、こうして当たり前に会話が続く、それだけで、足元が少しだけ浮き上がるような心地になる。 「わ、」  駅前のバスロータリーが視界に入り始めた頃、突如強い風が吹きつけ、俺と伊織は同時に足を止めた。冬の温度で触れられ、肩がビクリと硬くなる。けれど、微かに春の匂いを感じ、そっと目を開けると、小さな花びらが舞い散る中で、伊織の柔らかな髪が陽に透けていた。 「……」  俺は思わず手を伸ばしていた。 「……大和?」  閉じていた目を開いた伊織が、伸ばされていた俺の手に気づいて顔を上げた。 「!」  俺の指先は、一瞬だけ伊織の髪をかすめたが、そのまま引っ込めることもできず、行き場を失って宙をさまよう。 「……あー、えっと、」 「何?なんかついてた?」  そう言って伊織が自分の前髪へと視線を向けたので、俺は「そう!ゴミ!ついてたから!」とどうにか理由をつけて手を引っ込めた。 「……?」  伊織はどこか疑わしそうな表情をしていたが、視線をそらし続ける俺に「そっか。ありがと」と小さく言って、赤に変わったばかりの信号を振り返った。 「ここの信号長いんだよなぁ」  そう伊織がぼやいた瞬間、先ほどよりも優しい風の音が耳に届き、そして再び白く丸い桜の花びらが視界を埋めた。風が通り過ぎ、緩やかになったところで、ゆっくりと降りてきた一枚が、静かに伊織の髪に着地する。 「!」  手を伸ばすべきかどうか俺が迷っていると、伊織が信号機のそばに立つ桜の木を見上げたので、淡いピンク色をした一枚は伊織の髪からゆっくりと離れていった。 「ここ、結構咲いてるな」 「あ、うん」  思わず握りしめた自分の手を隠して、伊織に倣うように俺もその広がる枝を見上げる。 「桜、キレイだな」 「……だな」  不意に伊織がズボンのポケットにしまっていたスマホを取り出し、カメラを起動させた。 「撮るの?」 「うん」  誰かに写真を撮られることはよくあったが、伊織が自分から写真を撮ろうとしたことはあまりなかった。だから、それがとても珍しくて、俺も自分のスマホを手にする。 「?……大和が花撮るなんて意外なんだけど」  シャッター音に気づいた伊織が振り返り、可笑しそうに笑う。 「別にいいだろ」  切り取ったその瞬間には、薄い青空を背景に咲く桜の花と、それを見上げる伊織の後ろ姿が少しだけ入っていた。      *  待ち受け画面の範囲には見えない場所、その美しい光景を、俺だけが知っている。

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