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第2話
憧れ、というか。
小さい頃から、シンデレラとか白雪姫とか、そういう話が好きだった気がする。
生まれた時から父親はいないし、昔からバブリーな母親は知らないオジサンを、取っ替え引っ替え、よく家に連れてきた。
優しいオジサンもいれば、僕と勒のことなんか幽霊のように見えてないオジサンもいたし。
あからさまに敵意を剥き出しにしてくるオジサンだっていて。
そんな日常でも、いつかは幸せになるって思ってた。
物語のお姫様みたいに、かっこよくて強くて優しい王子様が助けに来てくれるんじゃなかって。
僕の場合、それは理想の父親で。
僕に今の父親ができた時、僕は本当に嬉しかったんだ。
………なのに。
僕に現れた王子様は、イジワルで悪い魔法使いだった。
だから今でも、僕は王子様を待ち望んでいるのかもしれない。
深くからまったかずらを断ち切って、僕を助けに来てくれる王子様を、心のどこかで待ち望んでいる。
いくら一人で頑張っていても、限界とか辛さとか、そういうのが僕を押しつぶしてしまうから………。
お客さんの、肌の暖かさが好きだったり。
本心ではないお客さんの愛の囁きにときめいたり。
感情のでない表情とは裏腹に、僕の内側は………救われたい、愛されたい、という感情が渦巻いているんだ。
あのお客さんの一言で、僕は動悸が止まらない。
不安になって、挙動不審になって………。
カウンターに立つのが億劫だ。
………あの人、今日は来ないでほしい。
来ても、別の人とヤってるとこ見せつけたら帰る、かな。
いずれにせよ、どんな顔をして、どんな態度を取ればいいのか………分からない。
雨が降ってるし、週の始めの方は客足もまばらで。
常連さんが帰って行った11時を回ったくらいから、ぱったりとお客さんがこなくなった。
「今日はあんまり来ないな」
勒はその端正な顔立ちを外に向けて言う。
「そうだね」
勒の単調な言葉に、カウンターで並んで外を見ていた僕も単調に返事をした。
お客さんが入ってくるドアの横は偏光ガラスで、地下にある店に入ってくる、外灯に照らされたお客さんは丸見えで。
地下へと繋がる華奢な階段とテラスに打ち付ける雨が、外灯でチラチラ輝いて、僕はなんとなくその光景に見入ってしまった。
「もう、閉めるか」
「分かった」
………今日は、というよりいつもだけど。
色んな意味で疲れてるから、早く上がれるのはありがたい。
閉店の札を外にかけて、看板の灯りと外灯を消すと、店の中がぼんやりと浮かび上がって、中の様子が丸見えになって、中にいる勒の様子が僕の視界に飛び込んでくる。
………現実味が、ない。
今いる、僕が生きているこの現状が夢ならば、って何回、何十回と考えたか………。
目が覚めたら全部夢で、かっこいい父親と優しい母親と、頼り甲斐のある兄がいて………そんな普通の生活を………送っている。
そういう現実が欲しくて、切望して。
それでも………神様からの罰のように、僕の抱える秘密はつきまとう。
「朔、濡れるよ。早く入りなよ」
「うん…………ねぇ、勒」
「何?朔」
「………なんで、僕を抱くの?」
「愛してるから」
「………兄弟、じゃん。僕ら」
「とられたくない、アイツからも、客からも」
「…………普通には。前みたいな、そういうのには………もう、戻れない?」
「戻れ……ないな」
いつもより、真剣で。
いつもより、物憂げな感じで。
勒は僕の肩を掴むと、ソファーに腰掛けるようにして、僕を押し倒した。
冷たい勒の唇がフワッと触れたかと思うと、そのまま深いキスをして、勒の手が僕の服を脱がしにかかる。
「………っん、勒……」
勒の冷たい指が僕の胸の先をなめからに辿って、その冷たい感覚はズボンを通り、僕の中に深くたくさん入って弾く。
「あの時、朔が俺に打ち明けてくれた時。本当はすぐにでもおまえの手を引いて家を出たかった。………朔をアイツから助けたかったのに、俺は弱くて、馬鹿だから。アイツと同じことをおまえにすることで、おまえを離さないように………手元に縛り付けていたくて。エスカレートして、止まらなくなって………。もう少し待っていてほしい。もう少ししたら、2人で家を出て行こう、朔」
…………うそ、でしょ?
どういう、こと………?
なら、ちゃんと言って欲しかった。
あの時に、ちゃんと………「もう少し待っていてほしい。もう少ししたら、2人で家を出て行こう、朔」って………言って欲しかった。
今さら………そういうのは、いらない。
僕が優しくして欲しかった時に、父親と同じように僕を犯して………抵抗できない僕に対して、その行為をエスカレートさせて。
我慢させて、言うことを聞かせて、僕を………。
好き放題してたくせに………!!
「………それ、本気……なの?……勒」
「本気だ」
「今さら、そんな本気………じゃあ、その本気がどの程度か………見せてよ」
「………朔?」
「僕が好きなんでしょ?!だったら、僕を幸せにしてよ!!すべての不幸から僕を助けてよ!!………そんなことも、できないくせに……口ばっかりのくせに!!」
「………っんだと?!」
「何、自分を正当化してんの?!自分はアイツと違うみたいな言い方して!!ヤッてることはアイツと一緒なんだよっ!!」
煽った、つもりはない。
ただ、積年の………。
苦しかった、辛かった、誰にも言えなかった、そんな思いが爆発して、本音を言わざるを得なかった。
勒の目が怒りの色を宿して、その両手を僕の首にかけた。
同時に、勒の固いのが間髪入れずねじ込まれて、僕の中を痛いくらい突き上げる。
「……っ!!……ぁか」
首が圧迫されて、苦しい。
その勒の手を取り除きたくて、もがけばもがくほど、余計苦しくなって………。
頭がぼんやりしてきた。
僕を突き上げる勒がレイプみたいに犯すから………。
今まで感じたことのない痛さと、生暖かい感触が太ももをつたう。
………苦しい…………誰か、助けて……。
今まで、生きてきて。
楽しいとか、幸せだとか、そういう記憶なんてほぼ皆無で。
辛いとか、苦しいとか、そんな思いをした方が遥かに多くて。
…………僕が一体、何をしたんだろう……か?
僕は何のために、生まれてきたんだろうか?
もし、本当に神様がいるならば………一度だけ、一度くらい………僕の願いを聞いてほしい。
僕をすべての苦痛から解放してほしい………。
そして、幸せが………ほしい。
………目をつぶっているのに、まぶたを通して光を感じる。
もう、少し寝ていたい。
だって今は、苦しくも痛くもないから………ずっとこのまま、こうしていたい。
けど、まぶたを通す光は思いの外強くて、僕はたまらず目を開けた。
「朔………サクラさん、気がつきました?」
………この、声。
ドキッと、そして、チクッと。
胸が小さく疼いて………僕は、その声の方をみた。
やっぱり、あの人だ!!
なんで?!どうして?!
そう言葉を声に出したかった。
出したかったのに………。
「ニャー」
僕から出たその意外すぎる言葉に、かなり驚愕した。
………ニャー、って何?
慌てて僕自身を見ると、全身真っ白な長いふわふわした毛に覆われている。
体が思いの外柔らかくて、後ろをみると白い立派な尻尾と………その綺麗な毛並みに赤いシミがついていて…………。
一気に、思考が停止する。
「ビックリしてます?俺もビックリしてるんですよ」
名前も知らないその人は、僕の頭にそっと手を添えると、物語の王子様みたいに優しく笑った。
「店に行ったんです、俺。そしたら、サクラさんがレイプされてたから………無我夢中で相手を殴って………振り返ったら、サクラさんが猫になってたんですよ」
神様に、お願いをしたのは、僕だ。
〝苦痛から解放してほしい。幸せがほしい〟
その願いは、神様に届いて聞き入れられて、意外な形で叶ってしまった。
………しかし、何故……何故、猫なんだ。
信じられないけど、受け入れざるを得ない。
僕は、猫になってしまったんだ。
そしてまた、必然的に秘密が増えてしまった。
猫はなんて自由なんだろうか。
僕の体も心も、何にも縛られない。
好きな時に寝て、好きな時に起きる。
流石にキャットフードは無理だけど、もともとあんまり食べない体質だったから、そんなに食べなくても平気で。
イチゴミルクがあれば、たいてい満足している。
僕を助けてくれた………この、伊藤司って人は、猫になった僕に対してもとことん優しくて。
家にいる時は膝の上にのせてくれるし、寝るときはベッドの上で優しく体を撫でてくれる。
痛いこととか、辛いこととか、そんなのとは無縁の時間が流れていて………。
こんなに落ち着いた、穏やかな時間を過ごすことすら初めてで………。
父親や勒の気配に怯えていた頃とは、雲泥の差ほどの幸せが今、手の中にある。
唯一の障害があるとすれば、司とのコミュニケーションで。
僕は「ニャー」としか言えないから、苦肉の策としてタブレット端末で、司と会話をする様になった。
大学の授業も、司が動画で撮ってきてくれるから、猫のままでも勉強はできるし………。
改めて、便利な世の中だよな、ホント。
まぁ、猫が真剣に勉強をしている姿は、なんとも言えず滑稽らしく、司はしばらく動けなくなるくらい笑って、それにつられて僕も楽しくなったりして………。
だから、今、僕は今までの人生で一番、幸せだ。
人間の時より、猫の時の方が幸せなんて、ちょっとどうかしていると思うけど………。
初めて、神様に僕の願いが受け入れられた気がして。
幸せなら、この穏やかな日々がずっと続くのなら、このまま猫のままでもいいかな、って思ってしまっている。
そう思う理由の一つに、司の存在も絡んでいる。
サクラの時も、朔の時も、加えて猫の時の僕も知っている司に、僕は全ての秘密を打ち明けた。
父親からも兄からも毎日のように犯されてること、その辛さとか苦しさを忘れたくて逃げたくて、お客さんと肌を重ねていることを。
そして………今が一番、幸せ、だと言うことを。
軽蔑されるだろうな、とは予感していた。
僕がもし、こんなことを打ち明けられたら正直ドン引くし、それから先の態度をどうすればいいか考えあぐねるはずだ。
それでも、僕は司に知ってもらいたかったんだ。
人間のサクラと朔が、どれだけ汚れた人間だったか、どれだけ救いようのない人間だったか。
だってもう今は、この世にどっちも存在しない。
猫である僕しか存在しない。
この先ずっと猫のままかもしれない僕の、唯一の人間だった時間と秘密を共有している司に、たとえ僕がキレイな人間じゃなかったとしても、人間の時の僕を覚えていて欲しかった。
そして、僕は………。
一生、忘れない………忘れられない経験をする。
「………サクラっ!!」
僕の体………猫だから当然だけど………軽々と抱き上げた司は、僕の体が折れてしまうんじゃないかってくらい強く抱きしめて、そして、息が詰まるんじゃないかってほど激しく泣いた。
………こんな……の……初めて、だった。
バブリーな母親でさえ、僕のために泣いたことなんてないのに。
肌を重ねる以外、抱きしめてもらったこともないから、居心地が悪くて、どうしていいのかも分からなくて。
ただ、司の体温を感じて、安心して………。
僕は司に身を預けていた。
「……世の中に、そんなにツライ思いをしている人がいたなんて………。でも、もう大丈夫だから。俺がサクラも朔も、猫のサクラも守ってあげる。サクラが寂しかったらずっとそばにいてあげる。楽しかったら一緒に笑って、悲しかったら一緒に泣いて………。だから、俺を信じて………サクラ。サクラが嫌がることや痛いことはしない………。だから………もう、ツラクないから………。心配しないで、サクラ」
欲しい時の欲しい言葉って、なんてパワーがあるんだろう。
勒のあの言葉は、勒にとっては重くて深い意味の言葉だったに違いないのに、僕の心には全く響かなくて……。
さらには、怒りすらこみ上げてきて。
司の言葉は、それを遥かに凌駕する。
汚れた人間の僕も、猫の僕も、同じくらい大事にしてくれる司の本心をダイレクトに感じられた。
幸せな僕の心が、さらに幸せに満たされるみたいで………。
たまらず………。
司の肩に爪をたてて、司の耳を舐めて………。
猫の僕が今できる、最大にして最高の「ありがとう」を伝えたんだ。
と、同時に。
この幸せは、あとどれくらい有効期限があるのか気になって、心がザワザワしだした。
初めて手に入れた幸せを失いたくないと同時に、不幸体質の僕はその幸せが長く続かないんじゃないかって不安になって………。
でも、今は………。
この目の前の幸せだけを考えていたい………この幸せに深く浸っていたい、んだ。
『店に行ってみたい』
僕がタブレット端末をとおして司に送ったメッセージに、司は目を見開いて僕を見た。
「……サクラ、本気で言ってるの?」
僕は返事のかわりに「ニャー」と鳴く。
肉球でタブレットを触ることに慣れてきた僕は、さらに続けた。
『ちゃんとふっきれたい。この目で僕がいた環境を確認して、今が普通なんだって。もう2度とあそこには戻らない、その踏ん切りをつけたいんだ。だから司、お願いがあるんだけど。一緒についてきてくれない?』
司が真っ白な毛で覆われた僕を抱き上げて、夜の道に歩を進める。
この道、懐かしい。
家と大学と店しか、たったそれだけしかなかった僕の世界。
父親と勒に体を求められて、毎日疲れていて。
笑うことも、楽しいこともなかったし、辛くて暗かったから友達も作らなかった。
今は………。
今も僕は猫だし、司の家にずっといて閉鎖的な空間にいることは変わらないけど。
司と他愛もない会話をしたり、面白いことや楽しいことが満載で………。
僕を優しく撫でてくれるから………。
同じ狭い世界に生きていても、今の方がずっと良くて。
〝人間のサクラと朔に戻らなくていい〟って、そうちゃんと僕の過去をふっきりたかった。
せっかく、神様があたえてくれたチャンスなんだから………。
これから先は、僕の意志で生きていたい。
道路から地下に繋がる華奢な階段をおりるとテラスが見えて、その奥に偏光ガラスで丸見えになった店が見える。
あ、常連さんがいる。
カウンターの奥には………やつれた感じの勒がいて、僕が勒に押し倒されたソファーには、やっぱり少し老けた感じの………アイツがいる。
2人とも、どことなく寂しそうで、苦しそうで。
それを見て、僕のお腹の底に巣作っていたモヤモヤの塊が、ストンと体の外に落ちた気がした。
……あれだけ、僕を支配して苦しめてきた人たちが、あんな弱い表情を見せるなんて………。
やっぱり、僕はここに戻ってはいけない。
戻ったら、また………元に戻るだけだ。
家族っていう見せかけの柵から、ようやく抜け出せた。
父親と勒が僕をがんじがらめに締め付けていたかずらを、ようやく断ち切ることが出来たんだ。
もう、十分だ。
僕は体を司にすり寄せて、「司の家に帰りたい」という意思表示をした。
「もう、いいの?サクラ」
「ニャー」
司がにっこり笑って、華奢な階段に手をかけたその時。
「朔?!」
店のドアが開いて、悲鳴に近い声が地下のテラスにこだまする。
僕と司がその声に驚いて振り返ると、そこには血の気のない顔をした、勒がいた。
「あ………失礼しました。弟かと、思ったものですから」
僕が覚えてる勒より、幾ばくか痩せてやつれて………。
声まで覇気がなくて………。
にわかには信じがたいけど、これが現実で………僕はたまらなくなって、顔を司の胸に押し付けたんだ。
「実は俺、弟さんの知り合いなんです」
「朔……弟がどこに行ったか、知りませんか?」
「すみません。それは俺にも………」
「………ですよね、すみませんでした」
「ただ………言っていたことはあります」
「………言っていたこと?」
「〝もう、家には戻らない。今がすごく幸せだ〟って………そんなことを、言っていました」
「…………」
僕が勒や父親に言いたかったこと、それを司が代弁してくれて、僕は体の力が一気に抜けるのを感じる。
「………朔は、生きてるんですか?」
勒は絞り出すような声で司に聞いた。
「おそらく」
「俺……朔を殺してしまったかと………思ってて。………生きているなら、それでいい。俺を許してくれなくても、どこかで元気でいてくれるなら………それでいいんです。…………あなたが抱いてる猫、弟が大事にしていたぬいぐるみにすごく似てる………」
「え?」
「大事にしていたのに、父親が捨てて、俺が焼いたんです。………朔の逃げ場をなくして追い詰めて、苦しめていたってわかっていたはずなのに………俺は、朔に酷いことをし続けて………」
「それがわかってるなら、弟さんのためにしてあげることは、すぐわかるんじゃないですか?」
司の声は魔法みたいに、低く、深く、テラスに響きわたる。
「一生、弟さんに謝って生きていく。それが、あなたにできる唯一のことなんじゃないでしょうか?」
司は僕を抱きしめる手にギュッと力を込めると、華奢な階段をゆっくりのぼった。
………これで、僕は自由になった。
自由なんだ………。
自由なんだけど………。
それと引き換えに、僕は………。
忘れていた重大なことを、最後にして最大の秘密を思い出してしまったんだ。
いつもなら白い毛並みに覆われている手が、懐かしいくらい何も生えてなくて。
目線も、肌の質感も、いつもと違う。
鏡に写し出されたのは、何もかも懐かしい人間の朔で………。
僕は、元に戻った……突然に。
「司、起きて」
ベッドでぐっすり眠っている司の体にそっと触れて、僕は司を揺り動かす。
「……ん、なに?………サクラ?」
「起きて、司」
「サクラ?………サクラっ!?なんで?!」
「………戻っちゃった」
頭が回らない寝起きから一気に覚醒した司が、ベッドから飛び起きて僕に抱きついた。
「よかった……人間のサクラに、もう会えないかと思った………」
「………うん、実は最後かも」
「え?」
「司、今から僕が言うことをちゃんと聞いてくれる?」
「どう……いうこと?」
僕は司にキスをすると、起きたばっかりの司の体をベッドに逆戻りさせるように押し倒した。
ーーー
勒に首を絞められながら激しくレイプされて、苦しさと痛さから急に解放されたように、僕は体が軽くなった気がした。
フワッと、宙を浮くような、そんな感覚がして………。
綺麗な声が頭の中で響くように、聞こえてきた。
〝朔、あなたの願いを3つ叶えてあげます〟
願い?
………何?とうとう幻聴まで聞こえてきた?
「どういうこと?願いが3つって何?そう言うこというのは誰?」
幻聴の声の主に、僕は考えうるありったけの質問をぶつける。
〝私はあなたに大事にしてもらっていた、猫のぬいぐるみです。朔、会いたかったです〟
あ?……。
あぁ、あの白い猫のぬいぐるみ!!
小さい頃から一緒にいた、唯一、母親が買ってくれた、すごく大事にしていたあのぬいぐるみ!!
………アイツに蹴飛ばされちゃって綿が飛び出してしまって、庭に捨てられたところを勒に燃やされちゃったんだっけ………。
僕の一番の宝物だったんだ、あのぬいぐるみ。
僕が宝物を失ったあの日から、僕はアイツからも勒からも犯されて………。
夢も希望も何もかも失ってしまったんだった。
「あんなことになってしまって、ごめんね」
〝いいえ。とんでもありません。私こそお礼もちゃんと言えずにすみませんでした〟
「それで、ぬいぐるみの君が話しかけてくるって一体どういうこと?僕、ヤられすぎておかしなったのかな?」
〝私、朔を迎えに来たんです〟
「え?………迎えにって」
〝朔。あなたは、死んだんです〟
………死……んだ…?
………そ、っか………死んだのか、僕。
そりゃ、そうだよな。
普通に裂けるまでレイプされた上に、首まで絞められたら………。
いくらなんでも、死ぬよな。
………これでもう………苦しい思いも、辛い思いもしなくていいんだ。
〝私、朔に大事にしてもらったお礼がしたくて、神様にお願いしたんです。朔の願いを叶えてあげてくださいって〟
「………別に、よかったのに。もう死んだんだから」
〝私の体を3ヶ月あげます。その間に、朔がしたい3つのことをしてください。
「猫の体で?!」
〝はい!〟
はい!って、さぁ………。
そりゃ、こうしてお礼に来てくれるのは嬉しいよ?
嬉しいけど………こんな、妄想100%の話、信じがたいし………。
でも、本当だったら………本当だったら………。
「………本当に、叶えてくれるの?」
〝もちろんです!〟
いつもの僕なら、全てに諦めて、こんなおいしい話にはウラがあるって思って………。
でも、僕はもう、死んでるんだ。
………もう、我慢しなくていい。
「じゃあ、叶えてくれる?僕の最後の願い」
ーーー
1つ目は、名前も知らない僕の秘密を知っているあの人とずっと一緒にいたい。
2つ目は、穏やかに、幸せに、楽しく過ごしたい。
そして………。
「3つ目が、最後にその人に愛されたい………いやっていうほど肌を重ねたいって………」
僕はいつの間にか泣いてしまって、僕の目の前にいる司も目に涙をいっぱい溜めていて。
だって……これが終わったら………。
僕の願いが叶ったら、僕らはもう2度と会えない。
声を聞くことも、触れ合うことも、名前を呼び合うことすら叶わない。
「………朝っぱらから……なんてこと言うんだよ………サクラぁ………」
「これが最大にして最後の僕の秘密………ごめん、司………巻き込んじゃって。でも、司のことが好きだから………最後くらい、ワガママになりたかったんだ」
司の目からとうとう涙が溢れ出して、僕はたまらず司に抱きついてキスをした。
唇から体温が伝わって、舌先が絡まりあって。
僕の最後の願いが、とうとう始まる。
心から、司が好きだ。
司が僕に触れたり、僕の肌にキスをしたりするたびに、あり得ないくらいビクついて息が上がる。
僕が司のを擦ると、司が僕のと重ねてきて……気分が上がる、テンションも上がる。
「……っはぁ、つかさっ……つかさ………好き」
「サクラ……そばにいるって、約束したじゃないか………」
「……ごめ……ん………つかさぁ」
司の指で慣らされてグショグショになった僕の中に、ゆっくり司のが入って、深く、奥まで、僕を満たしていく。
………そして、繋がる。
司と、一つに………繋がった。
「サクラ……好きだ………行かないで」
そう言った司の顔は涙でグシャグシャになって、僕はその顔を見上げるたびに、僕は胸が苦しくなって………でも、仕方がない。
僕が望んだ最後の願い………なんだから。
「司………サクラの僕も、朔の僕も………覚えてて………」
「………サクラ」
「僕は、また………生まれ変わって……司に会いに行く。………覚えてて、何もかも………僕の声も、イチゴミルクの匂いも………全部、全部」
司が僕を奥まで突き上げて、満たされて………体が反りかえる。
たまらない………。
こんなに、心の底から気持ちがいいなんて………。
司と初めて肌を重ねたあの夜、夜空に吸い込まれそうになるくらい、深く心が揺さぶられたあの夜………。
その時から僕は司に惹かれて、運命を感じて………。
いつかはこうなることを、心の中で望んでいた。
体の外と中から伝わる司の熱が、たまらなく気持ちよくて、嬉しくて………。
ずっとこうしていたいのに、最後の1日が終わるのはあっという間で。
…………1日が終わるのが、こんなに短いなんて思わなかった。
ちょっと前まで、父親にも勒にもヤられてた時は、1日を果てしなく長く感じていたのに………。
僕の横で、疲れ果てて眠る司の頰には涙の痕が残っていて、僕はそんな司が愛おしくて、その髪をそっと撫でた。
………手、が………透けてる………。
もうすぐ、こんな些細なことすらできなくなるなんて………。
でも、楽しかった。
なにより、嬉しかった。
僕の抱えていたたくさんの秘密は、溶けてなくなって………。
苦しい思い出も、イヤな思い出も、全部楽しい思い出に塗り替えられて………。
もう、思い残すことは、ない。
徐々に透ける体を司に預けて、僕は最後のキスをした。
「………つかさ、あいしてる…………あい……し……て………」
✴︎
俺の最近のお気に入りは、歯茎が痙攣するような激甘なイチゴミルクだ。
朔がよく1人で勉強をしていた大学の片隅で、朔の記憶を辿るように俺もイチゴミルクを飲んで、課題を片す。
あの日、朔とサクラの最後の日。
唇がふっとあったかくなって、胸がギュッとなった瞬間、何かに弾かれたみたいに目が覚めた。
目が覚めたら、もう。
朔もサクラも、猫もいなくて………涙がとまらなかった。
もうガキでもないのに、しばらく涙が止まらなくて。
何をしていてもサクラを思い出して。
俺は女々しくも、2週間くらいは家から出ることすらできないでいた。
そんなボロボロの俺を支えたのは、サクラが言った「僕はまた、生まれ変わって司に会いに行く。覚えてて、何もかも。僕の声も、イチゴミルクの匂いも、全部、全部」って言葉で。
その言葉を励みに、通常の生活に戻れたようなもので。
片時もサクラを忘れないように、俺は朔の記憶とサクラの記憶を辿っているんだ。
だから、たまに。
サクラと初めて出会ったあの店に行く。
サクラの父親らしき人は、いつも店の片隅のソファーで、誰とも喋らずひたすらハイボールを口に運んでいて。
サクラのお兄さんは、相変わらずで。
お客さんの前では極力明るく振る舞ってるけど、ふとした時に、やつれた顔で悲しげな表情をするし………。
カウンターテーブルには、季節を問わず桜の花が一輪挿しに飾られるようになった。
ここだけは、俺と一緒で………。
サクラからも朔からも逃れられずに、時が止まったかのように、サクラを、朔を、待ち続けてるんだ。
記憶は違えど、同じ人の記憶を共有できる人がいるということは、俺にとってすごくありがたいから………。
本当のことは、俺が握っているサクラと朔の秘密は、この人達には絶対に言えないけど。
俺は、サクラが最後に言った「司に会いに行く」って言葉を信じて、生きている。
「今日から4週間、この学級で教育実習をします、伊藤司です。学校のこととか色々教えてください。よろしくお願いします」
小学校に教育実習にきたこの日、担当することになった四年一組のクラスから、あの懐かしい匂いがした。
甘ったるい、あの、イチゴミルクの匂い。
その時、1人の男子児童が席から立って、俺の目の前にきた。
………この子、か。
この子から、イチゴミルクの匂いがする。
「四年一組のクラス委員をしてます。春山紗久です。よろしくお願いします」
紗久……。
名前まで、似てる………。
声の、話す感じもなんとなくサクラっぽくて………。
情けなくも俺は「こちらこそ」なんて、気の利かない返事をしてしまった。
紗久はにっこり笑うと、背伸びをして内緒話をするように口を近づけたから、俺は紗久の身長に合わせて身を屈める。
「先生からぼくと同じ匂いがする………。懐かしい………。つかさ………会いたかった」
その話し方、そのイチゴミルク、全てがサクラで………朔で………。
俺は、涙が出そうになるくらい………嬉しかったんだ。
「俺だって………会いたかった………サクラ」
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