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第3話
あの世の入り口、と言われる場所に僕は佇んでいた。
目の前には大きな川があって、船頭が小さな船で死んだ人の魂を対岸へと運ぶ。
「いい加減、乗ってくださいよ」
三途の川を船が岸を離れる直前、三途の川の係の人が僕に困った顔で言った。
毎回、同じ会話。
でも、僕は。
その船にどうしても乗ることができなかったんだ。
だって、早く生まれ変わりたい。
早く司に会いたいんだもの。
この川を渡ってしまえば、司に会うのが遅くなってしまう。
ここで待っていたら、ひょっとしたら死んだらいけない人がくるかもしれない。
短絡的だけど、僕はそう思ったんだ。
「いやだーっ!離せーっ!!」
甲高い声が、静かな空間に響き渡った。
三途の川の岸まであと数メートル。
そんな場所で、小学生くらいの男の子が係の人に羽交い締めにされて暴れている。
「君はまだ死んだらいけないんだよ!紗久くん!」
「やだ!!もう帰りたくないのっ!!離してってばーっ!!」
男の子と係員の押し問答は延々と続き、とうとう僕の目の前まで移動してきたんだ。
………これは、チャンスなんじゃないだろうか?
そう思うといてもたってもいられずに、僕は思わず口を開いた。
「ねぇ、いらないなら。僕に君の体を頂戴よ」
一瞬で、止まる空気。
その場にいる人の視線が一斉に僕に注がれた。
「ちょっと!新庄さん!何言ってるんですか?!」
「本気です、僕!!ねぇ、そんなに死にたいなら僕の権利を君にあげるよ!だから、僕に君の体を頂戴!!お願い!!」
僕よりだいぶ小さな男の子が、どうしてこんなに死にたがってるのか疑問には思ったけど、僕はどうしても生き返りたかった。
どうしても、司のそばにいたかったんだよ。
「紗久っ!!紗久っ!!」
聞きなれない女性の声が、僕の耳に突き刺さるように入り込む。
目を開けると、これまた見知らぬ男性と女性が僕を心配そうに見下ろしていて、その反対側には白衣を着たおじさんと、若い女性がいて。
………そっか、僕。
あの子と入れ替わったんだ、って思い出したんだ。
「死んだほうがいい。ボクなんか、死んだほうがいいんだよ!!」
三途の川の小さな船に乗る直前まで、そう言って暴れていたな、本物の紗久は。
春山紗久、10歳。
医者の父親と専業主婦の母親、2つ年上の優秀な兄の四人家族。
三途の川の係員は、それ以外の事は何も教えてはくれなかった。
僕の家族と似てる、けど………僕の家族より雲泥の差で恵まれているはずなのに………。
どうして、小さな紗久はあんなに死にたがっていたんだろうか?
あの時、僕の申し出に紗久は満面の笑みを浮かべると、「ありがとう!お兄ちゃん」と言って小さな船に乗り込んだ。
船に乗り込んでしまったら、係員たちはどうすることもできなくなってしまったのか、ただ一言、僕に言ったんだ。
「新庄朔さん、あなたは春山紗久として天寿を全うしてください。もし守れないようなことがあれば、あの犬があなたを迎えに行きますから」と、三途の川の対岸にいる方に視線を向けたんだ。
視線の先には、黒い大きな犬が三匹。
僕の記憶が間違っていなければ、あの犬はきっと………ケルベロスに違いない。
………司と、一緒にいたい。
少しでも早く、少しでも長く、司に会いたい。
なら、僕のやることは………一つ。
朔の僕は、紗久の僕として生きなきゃならないんだ。
僕はなんの愛情も感情も湧かない、目の前の人たちに、極力笑顔を作って言った。
「お父さん、お母さん。大丈夫だよ。僕は平気。心配しないで」
「退院おめでとう、紗久。一時はどうなることかと思ったけど、元気になって何よりだ」
「ありがとう、お父さん」
「でも、心配だわ。本当に事故前のこと、覚えていないの?」
「うん。ごめんね、お母さん」
「いいのよ、紗久が謝ることじゃないわ」
事故、か。
違う………多分、紗久は自殺をはかったんだ。
紗久の両親の話によると、紗久は自殺マンションの3階の階段の踊場から転落して、意識不明になっていたそうだ。
ランドセルを背負ったまま、平均台みたいに転落防止柵の上を歩いている紗久が、近所の人に目撃されていたらしいから。
見ようによったら、やんちゃな男の子がバカな遊びをしていて結果落ちた、くらいな感じなんだろうな。
でも、紗久は本気で死にたがっていた。
まだ僕はほんの一週間しか紗久として生活していないけど、紗久が何で死にたがっていたのか、未だに解らなかったんだ。
こんなに両親に恵まれて。
こんなに心配してくれる人がいて、とても幸せそうで。
何が、イヤだったんだろうか………?
「紗久」
自宅に到着して、紗久のいかにも小学生らしい部屋を見回していると、部屋の入口から声がした。
声変わり真っ最中な、不安定な声に僕は思わず振り返る。
「………えっと」
「本当に記憶がないんだな、紗久」
「ごめんね。………お兄さん、だよね?紗季、兄さん」
紗久とはあんまり似てない、紗久のお兄さんの紗季。
僕が入院していた時、紗季は一度も病院に姿を現さなかったから、僕は瞬時に反応することができなかった。
こういう時、〝記憶がない〟で押し通せばかなり便利だって心底思ったんだ。
「大丈夫、か?」
「うん、もう平気。ありがとう………お兄ちゃん」
「なんか………おまえ、変わったな。紗久」
ドキッと、した。
血を分けた兄弟の、第六感的なものが紗久の中にいる〝偽物の朔〟を見破ったんじゃないか、って。
………なら、これは逆にチャンスかもしれない。
「………そう、かもね。本当に分からないんだ、今までの僕のこと。だからね、お兄ちゃん。お願いがあるんだけど、聞いてくれてるかな?」
「なんだ?なんでも言って、紗久」
「僕の無くした紗久を、お兄ちゃんが知ってる限りでいい。教えてくれないかな?」
僕の知らない紗久は、かなりいい子だった。
学校ではクラス委員をしていて、運動は苦手だけど優しくて、みんなから慕われていたって。
だから、紗季は事故で紗久が落ちたのが信じられなかったらしい。
「高いところが嫌いなのに、あんな遊びを紗久がするわけない。落ちる何日か前から、紗久の様子が明らかにおかしくて、俺が何を聞いても『なんでもない、大丈夫』って笑って………。でも、よかった。紗久が生きてくれて、本当によかったよ」
と、言った紗季の笑顔が胸に刺さった。
紗久じゃない………んだよ、僕は。
紗久の体と命を無理やり奪った、朔なんだよ。
人生二巡目の小学校に通い出しても、紗久の生活は特に変わったところはなくて。
余計に、何で紗久があんなに死にたがっていたのか、分からなくなってしまったんだ。
そんな矢先、僕の目の前に現れたんだ。
「今日から4週間、この学級で教育実習をします、伊藤司です。学校のこととか色々教えてください。よろしくお願いします」
………時間は、かかると思っていた。
何せ紗久は小学生だから、司に会いに行くまで結構時間がかかるって。
何で………こんなに早く。
嬉しくて。
僕は、その衝動を抑えることができなかったんだ。
「先生からぼくと同じ匂いがする………。懐かしい………。つかさ………会いたかった」
その笑顔、イチゴミルクの香り、その全てが司で………。
僕は涙が出そうになるくらい………嬉しかったんだ。
「俺だって………会いたかった………サクラ」
司の穏やかな優しい声が、耳に響いて………。
紗久を忘れて。
朔としてその体にしがみつきたくなってしまったんだ、僕は。
「春山君、もう調子は良さそうだね」
移動教室で廊下に出ようとした僕は、担任の先生に呼び止められた。
眼鏡をかけた、優しそうな、男の先生だ。
「はい、長谷川先生。ありがとうございます」
「一時はどうなることかと思ったけど、無事に戻ってきてくれてよかったよ」
長谷川先生は、そう言って笑うと僕の頭に軽く手を置いた。
その手は僕の頬をすべり、華奢な肩をかすめて、僕の背中へと降りていく。
………この感じ。
僕が考えすぎかもしれないけど………。
10歳の紗久の中身は、成人した朔なわけで………。
この先生が紗久に触る手つきとか、紗久を見る眼差しとか。
………アイツに、似ている。
僕を好き放題してきた、アイツ…………義父に似てるって、直感したんだ。
湧き上がる嫌悪感から、全身に鳥肌が立つ。
でも………悟られたらいけない。
なんでも経験した朔じゃない。
僕は、記憶をなくした………純粋な紗久なんだ。
「先生?」
「あ、あぁ……ごめん、春山君。移動教室だったね」
「はい」
「ねぇ、春山君。………本当に覚えてないの?」
「………はい。ごめんなさい。先生」
「いや………春山君が謝ることじゃないから。ほら、授業遅れちゃうよ。ごめんね、ひきとめて」
そう言ってバツが悪そうに苦笑いを浮かべる長谷川先生に、僕は疑問を抱いてしまった。
長谷川先生は………ちがう。
でも、本当にちがうか………分からない。
紗久があんなに死にたがっていた理由が、この人なのか………お腹の中がもにょもにょして………。
スッキリしない………。
気持ちの悪さが、残ってしまったんだ。
………こんなことに、エネルギーを使いたくない。
司の近くにいたい。
司と早く、話をしたい。
紗久だけど、朔として、司にふれて欲しいんだよ。
「サク………くん?」
「………司………先生」
昼休み、みんなは外でラインサッカーをしていて。
僕は、一人。
図書室で本を物色していた。
懐かしいなぁ、この本読んだなぁ。
紗久にとったら初めてかもしれないけど、人生二巡目の朔にとったら、図書室の本は懐かしさ満載で。
………つい。
紗久であることを忘れて、エドガー・アラン・ポーの本を手にしたところだったんだ。
僕の後ろには、どうしても会いたかった………司がいて。
僕はこみ上げる嬉しさを隠すように、苦笑いをしてしまった。
「…………すぐ、分かったよ。サクラ」
「…………本当に?」
「まぁ………思いの外、小さくてビックリしたけど」
「これでもかなり姑息な手を使って、急いできたんだけどな」
僕は司の手をとって、図書室の奥、本棚と本棚の間に移動してしゃがみ込む。
懐かしい、この手。
どんなにこの手に、触れたかったか………。
どんなにこの手を、欲していたか………。
欲求を抑えることができなくなった僕は、手にした司の手を、自分の頬に押し付けた。
「………サクラ」
「会いたかった………。ちゃんと触れたかった、司に………」
僕は、司の首に両腕を回して。
司は、僕の小さな体を抱きしめて。
顔を寄せると、どちらからともなく、互いの唇を重ねた。
柔らかな接点から伝わる熱、うっすらと口が開くと舌先が軽く触れて………。
それが合図になったかのように、キスが激しくなる。
司にしがみついた僕と、僕の頭を強く抱える司と。
あんな別れ方をした分、会いたくても会えなかった分。
お互いの存在を確かめるように、お互いの熱量を伝えるように………。
激しく舌を絡めて、キスをする。
「………んっ……あっ、つか……さっ」
「……サク………っ!」
この時を、何度夢見たことか………。
ようやく、司と一つになれる………。
ガラッー。
図書室の引き戸が勢いよく開く音がして、僕の心臓は止まるんじゃないかってくらい、大きな音をたてた。
司が僕を強く抱きしめて、空いている手で僕の口を塞ぐ。
「春山君?いるのかい?」
この声………長谷川先生、だ………。
なんで………?
なんで………紗久を探してる、の?
なんで………?
長谷川先生の足音がカツンカツンって図書室に響いて、その足音を頼りに司が僕を抱えて本棚の間を移動する。
見つからないように………。
僕たちのことを、知られないように………。
「春山君?」
「………あれ?おかしいなぁ………春山君?」
長谷川先生は僕に語りかけているのか、それとも独り言を言っているのか定かじゃない口調で、図書室をうろうろして。
僕を見つけきれずに、また足音を響かせて図書室を出ていった。
言い知れぬ、怖さと苦しさが僕を襲う。
紗久は、まだこんなに小さいのに………。
信頼していたであろう先生につきまとわれているの、か………?
………義父の、アイツの記憶が長谷川先生と重なって、僕の小さな体の震えが止まらなくなってしまった。
「サクラ………大丈夫?」
「司……司………僕を離さないで………司」
思いの外、僕の声は震えていて。
後ろから僕を大事そうに抱きしめる司の腕を、僕は落ちないように必死で握りしめた。
「大丈夫だよ……サクラ。俺がいるから。心配しないで………サクラ」
「司………司………」
僕は、相変わらずだ。
紗久の体を奪ってまで司に会いにきたのに、やっぱり僕は何かに怯えてて、司に支えてもらって、助けてもらって。
………あの頃の僕と、なんら変わらない。
「………っうぁ……」
「泣くな、サクラ。………大丈夫だから、な?」
耐えきれずに、涙が頬を伝った。
幸せに、なりたい。
司のそばに、いたい。
ただ、それだけなのに………。
どうして………僕の手には届かないんだろう。
どうして………幸せが、こんなに遠いんだろう、か。
「サクラ、これ。常にサクラと繋がっていたいから。持ってて」
そう言って、司は僕にスマホを差し出した。
桜色の、今の僕の手には、かなり大きなスマホ。
僕は嬉しくて、本当に嬉しくて。
でもこのことは、誰にもバレるわけにはいかなくて。
小さな紗久の体の中にいる朔に、小さな秘密が生まれた。
………また、秘密だらけになっちゃうのかな?
まぁ、紗久の体を奪った時点で、僕にはすでに秘密が生まれていて、今に始まったことじゃないことくらいわかってるんだけど。
それでも、今の僕にとったら。
それは、心地のいい秘密だったんだ。
あの頃の、苦しい秘密とはちがう。
…………優しい、秘密なんだ。
「また、それ飲んでるの?」
リビングで宿題をしながらイチゴミルクを飲んでいた僕に、紗季が顔をしかめて言った。
「うん」
「紗久、甘い物苦手だったのに」
「………事故で、舌がかわっちゃったかな…?お兄ちゃん、変?」
「変じゃないよ。………そんな紗久もかわいい」
一緒に暮らしていて気付いた。
紗季は、紗久のことが本当にかわいくてたまらないらしい。
いつも紗久に気を使って、優しくて。
………アイツが家に来る前までは、勒もこんな感じだったよなぁって………つい、感慨深くなってしまった。
「宿題、分からないとこない?」
「うん。大丈夫」
ごめんね、紗季。
紗久の中身は成人した朔で、小学生なんて2回目だから、ある程度は大丈夫になっちゃったんだよ。
「そういえば」
「何?」
「さっき、おまえんとこの担任がマンションの下にいたよ?紗久、何かした?」
ドキッと、したー。
なんで?!
なんで、そんなとこまで?!
必死こいて、長谷川先生が怖いのを隠して今日一日やり過ごしたのに………なんで、僕のとこにくるの?!
「………ううん。心配………なんじゃないのかな?僕、休んでたし」
「紗久っ」
そう紗希が叫んだと、同時。
紗季が、後ろから紗久である僕を抱きしめた。
「紗久………紗久じゃない、みたい。優しくて、かわいい紗久なのに………俺の知ってる紗久じゃないみたいだ」
…………バレ、たら。
いけないんだ………バレたら、あの黒い犬がくる。
僕を、三途の川の向こうに連れて行く、ケルベロスがくるのに。
でも僕は、言い訳をすることも、嘘をつくこともできなかったんだ。
「紗久………好きだよ。紗久………俺から、離れないで。アイツ……なんかに、触らせないで………紗久」
…………どう、して…?
瞬間、義父であるアイツの顔と勒の顔、長谷川先生の顔と紗季の顔が頭の中でグルグル回り出した。
紗久は、普通の子でしょ?
どうして、僕と被るの?
どうして、司だけの僕になれないの?
………どうして?
紗久、君は何から逃げたかったの?
何から逃げて、死を選んだの?
教えて………!!
教えて、紗久っ!!
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