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第4話
よく、眠れなかった。
先生のことも、紗季のことも。
色んな事と、色んな可能性が頭を駆け巡って。
僕は大人だから、まぁいい。
でも、紗久は子どもだ………。
まだ、小さな子どもなんだよ………?
僕が考えていることが、もし、小さな紗久がそういうことをされていたとしたら………。
紗久の体を無理矢理奪ったことを、僕は後悔した。
胸が痛くなるくらいに、後悔した。
紗久の魂は、三途の川を渡ってしまったけど。
紗久の体は、この世に残っていて………。
紗久は紗久の知らないところで、ずっと苦しまなきゃならないんじゃないかって。
僕のせいで、紗久は死んでもなお、苦しまなきゃならないんじゃないか、って。
僕の願いを叶えるために、紗久として生きるってことは、きっと僕自身も辛くなるんだろうな……って。
司………の、そばにいたいと思えば思うほど、紗久の体はポロポロ崩れていきそうな、そんな感覚に陥ってしまったんだ。
『司、おはよう』
気を紛らわすように、司にメッセージを送った。
直後にスマホが小さく震えて、司のメッセージがポップアップされる。
〝おはよう、サクラ〟
たかだか、他愛もない、挨拶だけのメッセージなのに。
どうしてこんなにも、幸せで嬉しくて………苦しいんだろう、か。
好きな人と一緒にいたい、それだけなのに。
そんなささやかな願いもままならない。
大人になっても………そういう感情は安定しない。
きっといくつになっても。
人を愛することは幸せで、そして苦しい。
「学校、迎えに行こうか?………あの先生のこと、心配だし」
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんの方が学校遅いじゃない」
「……本当に、大丈夫?」
「うん。友達と一緒に帰ってくるし。大丈夫」
紗季と途中まで登校する道すがら、紗季はすごく心配そうな表情で僕に言った。
〝弟の僕〟が心配で言っていることなのか、〝好きな子としての僕〟を守りたくて言っていることなのか。
………僕は極力、笑顔を顔に張り付けて言ったんだ。
紗季に伝わるように、不安定な僕に言い聞かせるように。
「僕、新しい僕になったんだ。だから、大丈夫。大丈夫だよ、お兄ちゃん」
今朝のあの言葉。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん」って言葉を、あの時の僕が勒に伝えていたとしたらどうなっていただろうか?
義父に犯されて、身も心もボロボロだった中学生の僕は。
その身に降りかかった不幸を達観して「大丈夫だよ」と言えたとして、勒は弟の僕にどう接してくれただろうか?
もう………どうでもいい、って思ってたのに。
僕を不幸のどん底に突き落としていた義父も勒も、もう僕には関係ないと思っていたのに。
紗久のこの状況から、どうしても考えざるを得なくて………。
「もし」とか「こうしていたら」とか、別な選択肢があったんじゃないか、って。
後悔なんてしていないのに………さ。
「春山君?大丈夫?」
授業中に物思いにふけっていた僕は、長谷川先生に注意をされてしまった。
教室の後ろには、教育実習で来ている司もいるというのに………何、やってんのかな………僕は。
「すみません。大丈夫です」
「まだ、体調が戻らないかな?」
「………はい。少しキツくて」
「じゃあ、保健室に行こうか」
「あ、俺が付き添います!」
長谷川先生が僕の肩に手をかけようと、その手を伸ばした隙間に、背の高い影がスッと入って。
僕の体は、その影に引き寄せられた。
司が………司が僕を庇うように、僕の肩を抱き寄せて長谷川先生と僕の間に割って入ってくれていた。
「伊藤先生……」
困惑した顔を隠すように笑って、長谷川先生はその手を名残り惜しそうに引っ込める。
「行こうか、春山君」
「はい。お願いします」
僕はわざと、司に体重をかけて席を立ったんだ。
保健の先生は今、家族の介護で休職中で、怪我をしたり具合が悪くなった生徒は、大体校長先生や教頭先生に付き添われて保健室に行く。
「ありがとう………司」
「ううん。………やっと、2人っきりでサクラと話せるし。渡りに船ってヤツかな?」
僕は保健室のベッドに腰掛けると、司の首に両手をかけて、そのままベッドになだれ込んだ。
司はベッドのカーテンを閉めて、僕にのしかからないように僕を支える。
「司……キス、して」
「サクラ………」
「キス、だけでいいから………お願い」
「キスだけじゃ………終わらない、かも」
ベッドに横になると、身長差や体格差なんて関係なくなる。
僕の小さな唇は、司のソレに全て覆われて………一瞬でキスが熱く深くなるから………涙が出そうになるくらい、体の感覚を全て鋭くして司の一つ一つを刻み込む。
「んっ………んっ、んん」
司の暖かくて滑らか手が、僕のポロシャツをめくって、僕の小さな小さな胸の膨らみを愛撫した。
「………あ、…っつ、かさぁ………や、やぁ」
「サク………サク…」
……こんな、こんなトコで。
朔の僕は大人だけど、紗久は子どもで………。
セックスに耐えられるかも、分からないし。
誰かに見らたりしたら………ダメ、なのに。
ダメなのに………。
狂おしいほど、司が欲しい。
司が………欲しい………。
司の指が、紗久の胸から細いお腹を掠めて、ゆっくり僕の下着の中に入ってくる……。
『伊藤先生』
もう少しでってところで司の指が止まって、僕ははだけたポロシャツを瞬時に元に戻した。
「はい、何でしょうか。長谷川先生」
『春山君、大丈夫かな?』
気を使っているのか、それとも僕たちの雰囲気を野生的なカンで感じとったのか。
長谷川先生は、ドアごしに僕の様子を伺う。
司は僕の口を優しく手で塞ぐと、人差し指を口の前で立ててにっこり笑った。
「久しぶりの学校で疲れがたまっちゃってたみたいで。今、少し眠ってます。あまり無理をさせたくないから、このまま寝かせといていいですか?」
『うん、わかったよ。………伊藤、先生』
「何ですか?」
『春山君、何か言ってなかった?』
「何って………何ですか?」
『いや、なんでもない。じゃあ、春山君が目を覚ますまでお願いできるかな?伊藤先生』
「はい、大丈夫です」
『よろしく、ね』
ドアの向こう側から、人の気配が消えて。
僕は、顔をすっぽり覆う司の大きな手の中で、ホッと息を吐いた。
………長谷川先生は。
「何か、を。隠してる」
僕が思っていることを、そのままストレートに司が声に乗せて、僕は小さく息を止めた。
………司でさえも感じとる、長谷川先生の違和感。
僕はたまらず司に抱きついたんだ。
僕は、一人じゃない。
紗季のことも、長谷川先生のことも、一人で悩まなくていいんだ。
だって、僕には司がいる。
………さっきの、答えが………うっすらながら、見つかった気がした。
あの頃の、義父に犯されてた中学生の朔は一人だったから………多分、どんなに勒に「大丈夫だよ」と言っても、同じことになっていたと思う。
逃げ道がなかったんだ、あの頃の朔には。
だから、どんな選択肢を選んだとしても、結局は同じ結末になっていたんだ。
………それ、なら。
一度、堕ちた人生を経験している僕は、その経験を活かすことができるんじゃないか……?
本来なら死ぬべきではなかった紗久の魂を、救うことができるんじゃないか……?
神様は多分、僕を試しているに違いない。
その試練こそ、真に僕の願いを叶えてくれる足がかりになるはずだ。
だから僕は………僕にできることをしなきゃいけないんだ………!!
「………司」
「何?サクラ」
「明日の夜、僕と会ってくれない?」
「夜なのに、大丈夫?だって、君は………」
「うん、大丈夫。明日は紗久の両親は、病院の記念パーティーに行く予定だから」
「そっか………なら、少しは大丈夫だね」
「………必ず、司のとこに行く。だから………だから、待ってて。絶対………だよ?約束だからね?」
「………うん、分かった。待ってるよ、サクラ」
そう誓って、僕は司の肩に腕を絡めると、熱くて貪るようなキスをした。
「あなた、ケルベロスでしょ?」
通学路でたまに見かける、黒い服を着た若い男に僕は戸惑うことなく声をかけた。
紗久の家まであと数十メートルのところにある公園のベンチで、目を合わすことなく座る男が、僕の声に微かに反応して顔を上げる。
耳たぶの下半分がない。
耳をピンと立たせるために、その威厳ある姿を、その恐怖を具現化する姿を誇示するために。
その耳は彼らのトレードマークであり、〝番犬〟としての誇りなんだ。
「なんで分かった?」
「………カン、かな?」
僕は今だに懐かしく思うランドセルを背負ったまま、ケルベロスの横にドカッと腰掛けた。
「ねぇ、紗久が死を選んだ理由を教えて」
「何を………」
「一度死んだ人間が、すんなりと他人の体に入れるワケがないんだよ。僕は試されてる………そうでしょう?」
「…………」
ケルベロスは相変わらず、目を合わさず僕の話を黙って聞いている。
「どうして、紗久が死んだのか教えて。紗久が何に苦しんで、何に心を痛めたのか教えて。………僕は、僕の仕事をしなきゃ。そうでしょ?ケルベロス」
「………それで、いいのか?」
「………うん」
「おまえがその責務を果たすと、喉から手が出るほど欲していたおまえの望みは、そこで途絶えてしまうんだぞ?」
「………分かってる」
「なら、何故」
「………やっぱり、ちゃんとした僕でいたいんだ。
紗久の体を奪っても、どんなに司を思っても。
紗久は朔にはなれなかった。
また、秘密を抱えて生きるより、ちゃんと司に向き合いたい。
………そして………。
そして、紗久には生きて欲しい。
こんな僕でさえ、少しは楽しいことがあって、幸せなことがあったんだ。
紗久にも、これから先の幸せを感じて欲しい。
紗久には、きっと楽しいことがたくさん待ってるはずだから」
ケルベロスは、この時初めて僕と目を合わせた。
オレンジ色の、煉獄の炎のような……。
全てを焼き尽くすような瞳が、僕をとらえた。
「2度も………傷つくことに、なるんだぞ?おまえも………おまえの思い人も。それでも、いいのか?」
僕は笑って答える。
「現世じゃなくてもいい。
輪廻や転生を繰り返してでも、僕は司を探し出す。司に会いに行く。
………本音を言えば、今の司とずっと一緒にいたいけど………それは紗久じゃない。
きっと司も同じことを思ってるよ。
偽りの〝紗久の中の朔〟じゃなくて、本物の朔に会いたいはずだ。
だから、大丈夫。僕は………大丈夫」
笑ってるのに………涙が、溢れて止まらない。
そう決めたから、自分でそうしなきゃって決めたから、後悔はないはずなのに………。
………司の笑顔が瞼にちらついて、司の手の感触が僕の肌にぶり返して。
涙が、止まらない………んだ。
ケルベロスは、泣き止まない僕の頭にソッと手を置いた。
「あの白い変わったネコの言ったとおりだ」
「………え?」
「芯が強くて、優しくて。
なんでも我慢してしまうけど、やると決めたらちゃんとやる人だって………。
おまえが幸せなら、バレようがどうしようが黙っているつもりだったんだ。
………でも、やはり、自己犠牲で………。
おまえは自らを追い込んで苦しい道を選ぶんだな。
辛いだろうが………紗久の魂を救ってやれるのはおまえしかいないんだ。朔………」
「………うん、分かってる。ありがとう」
「………よく聞け、朔。今から紗久が死んだ理由を教えよう。一回しか言わない。だから、心して聞け。………そして、紗久の魂を連れ戻すんだ。朔!」
僕は元々、宵っ張りだから。
紗久の部屋を開けると、深夜の湿り気の風がスッと入ってくる。
これ………僕は、すごく気持ちいい。
サクラとして夜のバイトをしていた時は、この空とか、風とか………大好きだったな。
サクラの思い出と朔の思い出は、違うラインを走っているみたいなのに悩みは共通で。
その悩みをサクラの時も、朔の時も、秘密にして生きていた。
それを両方から見ていたのが司で、はじめはすごく司の存在が怖かった。
怖かったけど、僕の秘密を共有してくれる人ができたことに、僕は心底、安心したんだ。
結果として。
それに気付いたのは、僕が無意識に死んでからだったから。
…………だから、僕はいつだって後悔している。
今だってそう。
司に1秒でも早く会いたくて、なりふり構わず紗久の体を手に入れて。
僕だけの感情に突っ走ってると、その分紗久との歪みが生じて、色んな人を巻き込んでしまう。
結局、何をしても………僕は、後悔から抜け出せないんだ。
………何、やってんのかな、僕は。
後悔ばかりして、死んでもいいって思ってたのに急に生に執着したり。
一人で秘密を抱えて生きてきたのに、司という存在にすべてを持っていかれて。
でも、今は………今は、ちゃんと、腹を括ったから。
………大丈夫。
ちゃんと、〝朔〟として〝紗久〟の決着をつけなきゃ。
………大丈夫、大丈夫だよ。
僕は部屋を出ると、極力音を小さくして紗季の部屋のドアをノックした。
「お兄ちゃん………。紗季、ちょっと話がしたいんだけど………。いいかな?」
ーーー
「いやぁ、やめて!!お兄ちゃん!!」
泣いても、謝っても。
お兄ちゃんが、僕を縛る手は容赦なくて。
僕はお兄ちゃんの制服のネクタイで、後ろ手に縛られてベッドに押さえつけられた。
今日は、お父さんは夜勤で。
お母さんは、地元の高校の同窓会でいなくて。
家には、お兄ちゃんと僕の二人きり。
嫌がらせにしては、お兄ちゃんの顔が切羽詰まってて。
イタズラにしては、僕を押さえつけるその手が震えていて。
………本気だ。
と、わかるまで………そう時間もかからなかったんだ。
縛られてもなお、僕は抵抗した。
………だって、こんなの………僕が大好きなお兄ちゃんじゃないんだもん。
大好きだけど………こんな怖いことを、したいわけじゃないんだもん。
「やめてっ!!やだぁっ!!」
「なんで………そんなに嫌がるんだよ。………俺の気持ちはわかってんだろ……、紗久」
分かんない………分かんない、よ。
だって、紗季は………僕の〝お兄ちゃん〟じゃない………か。
抵抗しているうちに僕は疲れて、力も入らなくなって、紗季に着ている服を全て、下着まで全部剥ぎ取られた。
うつ伏せに押さえつけられて、紗季が僕の小さな胸を指でいじって、背中に歯をたてる。
ドロドロした何かをかけたもう一方の紗季の指は、僕のお尻に徐々に太くなりながら入ってくる。
僕は………何を、させられてるんだろうか。
………こんなの、知らない。
………知らない、よ。
「いっ…あぁっ………やめっ………やめっ」
「ずっと、したかった。紗久と、こういうこと。
………紗久、きれいだ。
白い肌も、天使のようなに純粋なココも。
全部、俺のもの。誰にも………渡さない」
………ゾッ、とした。
と、同時に僕のお尻の中に入っていたお兄ちゃんの指が抜かれて、熱くてかたい何かがゆっくり隙間なく入ってくる。
く、くるし………いたぁ、い。
お尻も、それ以外も、心も全部………苦しい、痛い。
「あ“ーっ!!」
つぶれた叫び声が、僕らしかいない家にこだました。
誰も、来ない。
誰も、お兄ちゃんを止めてくれない。
そして、僕は………お兄ちゃんに裏切られた気がして………。
涙が、止まらない。
お兄ちゃんは、いつから僕とこんな風なことをしたいと思っていたのかな………?
僕のことを、弟だって思わなくなったのは、いつからなのかな………?
僕はまだ、子どもで。
保健の授業でサックリとしたことしか、学んでないのに。
色んなことをすっ飛ばして、僕は汚れた大人になった気がしたんだ。
大人になりかけたお兄ちゃんの体と、まだまだ子どもの僕の体が、大人みたいにぶつかり合って、その一線を超えていく。
………お兄ちゃん、どうして?
どうして………なの?
ーーー
「………紗久じゃないんだろ?おまえ」
「やっぱり、気付いてた?紗季」
電気もつけずに暗い部屋に一人座っていた紗季は、何もかも悟ったような目で僕を見た。
部屋は暗いけど、紗季の細かい表情までみてとれたのは、月が異様なまでに明るいから。
その明かりをたよりに僕は、ベッドに座る紗季の前に立った。
「迎えにきたんだよ、紗季」
「どこから?」
「………あの世から。間違って紗久が逝ってしまったあの世から、迎えにきたんだ」
「………どうして?」
「分かってるでしょう?………あの時、死ななきゃならなかったのは、紗久じゃない。紗季、君なんだよ」
「…………」
紗季は、月明かりを涙で揺れる瞳に宿して僕を見る。
あの、運命の日。
マンションの踊り場の転落防止柵に手をかけたのは、紗季。
それを紗久は必死に止めていた。
紗久は紗季にされていた一連のことを、担任の長谷川先生に告白した、そのことを聞かされたショックで、そういう状況になっていたんだ。
精一杯の力で柵から紗季を剥がした紗久は、そのまま足をかける。
ちょうど、平均台のような体勢になった紗久は、にっこり笑って紗季に言ったんだ。
「さよなら、紗季」って。
ふわっと、紗久の小さな体が宙に投げ出されて。
スローモーションのように、落下していく。
そう………あの日、死ぬべきは………。
その日が命数だったのは、紗季だったんだ。
「………紗久に、謝りたい」
「直接は、無理だけど………ちゃんと、聞いてるよ。僕を通して、ちゃんとね」
「ねぇ………あなたは、許されざる恋をしたことがある?
俺は、紗久を愛してはいけなかったの?
この気持ちに嘘をついて、ずっとずっと、過ごしていた方が良かったの?
ねぇ、教えて?」
紗季が、視線を僕から逸らさずに言った。
………それ、僕に聞く………かな?
僕は、その答えを間違ったらいけないんだけど………。
どうしても、嘘をつくことができなかったんだ。
「僕は〝愛〟とか、そういうのが、分からなかったんだ。
僕もそう。紗久みたいに、一方的に義父からも兄からも、体の深いところまで弄ばれて、ボロボロになって。
でも、義父も兄も僕を〝愛してる〟って言う。
………正直、ツラかったよ。
肌を重ねることが愛なのか、って。
身も心も支配することが恋なのか、ってね。
でもね、僕は一人の人に出会って、それがどういうものか分かったんだ。
独占したい、その肌に触れていたい、ずっとずっと一緒にいたい。
でもね、それは一人じゃダメなんだ。
お互いの気持ちがそうじゃなきゃ、成立しないってこともね」
紗季の瞳から涙がオーバーフローして、ポロポロと溢れ落ちる。
でもその顔は、すごく吹っ切れた顔をしていて。
穏やかな笑みで、僕を見ていた。
………だから、僕は確実ではないけど、確信したんだ。
紗季は、義父や勒みたいにならずにすんだかもって。
ちゃんと、分かってくれたかもって。
「………俺、生まれ変われるかな」
「うん、大丈夫。生まれ変われるよ、紗季」
「生まれ変わったら………ちゃんと、紗久に真っ向から〝愛してる〟って言えるようになりたい。
2度と同じ過ちは繰り返さないように、するんだ」
泣きながら、でも、前向きに笑顔で言う紗季の頭に、僕は軽く手を添える。
「紗季ならできるよ、大丈夫」
その時、僕と紗季の間にサッと影が入った。
ベランダに音もなく現れた、精悍な顔をした耳の欠けた男………ケルベロスだ。
「迎えにきた、春山紗季。行こうか」
紗季は涙で濡れる頬を拭おうともせずに静かにうなずくと、差し出されたケルベロスの手を取って立ち上がる。
………僕も、もうすぐ………こうなるんだよなぁ。
でも………今僕は、後悔していない。
自分に秘密もない、嘘もない。
今が一番、キレイな気がする。
「後で紗久の魂を連れて、おまえを迎えに行く。それまでおまえの思うようにしろ、朔」
「うん、ありがとう!ケルベロス!!」
僕はそう言うと、2人に踵を返して家の玄関を飛び出したんだ。
懐かしい、司の家。
猫になって暮らした僅かな期間だったけど、あの時から何も変わらないから、僕はたまらず部屋中を見渡した。
「サクラ………また、俺の前から、いなくなっちゃう?」
ローテーブルの上にイチゴミルクの入ったマグカップをソッと置いて、複雑な顔をした司が言う。
「………うん。ごめん、司………」
「せっかく………会えたのに………早すぎる、かな」
「………やっぱり、紗久じゃダメだったんだ。僕は僕として、司と一緒にいたいんだ」
僕は小学生ならではの細い腕で、司のがっしりとした体にしがみついた。
そして、そのままの惰性でキスをする。
重なる唇から触れ合う舌先まで、お互いからイチゴミルクの味がして………照れ臭くなって、思わず笑ってしまった。
「いつか、ちゃんと朔として会いにくるから。いつになるか分からないけど………。だから………それまで、司のこと好きでいていい?」
「………もちろん。俺も朔を見つけに行く。大丈夫、すぐわかる!………だから、それまで………朔を好きでいていいかな?」
気持ちが、繋がる。
体温が、伝わる。
やっぱり、好きって気持ちは一方通行じゃダメなんだ。
気持ちを受け取る器が必要で。
………愛しあうって。
重いのに……苦しいのに………すごく、幸せだ。
「今、僕は小学生だけど、小さいけど………。最後に、抱いてくれる?」
「………大丈夫?」
「………優しく、ね?司」
「うん」
「司の全てを忘れないように………全部、紗久をとおして朔で覚えたい。司………愛してる」
唇を重ねると、司が紗久の未発達の体を愛撫する。
紗久の薄い体に腕を回して、小さな紗久の入り口に司の熱いのがゆっくり挿入ってきた。
感じ、る。
気持ちよさ………司の全てを………忘れない。
忘れるわけない、よ………。
朔の短い一生で、初めて心から愛したこの人を。
次に生まれ変わっても………ずっと、ずっと、忘れない。
「………司。………〝さよなら〟って……言わないよ、僕。………だから………〝またね〟って。……司、またね。司」
「もう、いいのか?」
人気のない深夜の公園で、僕はベンチに座ってその声を待っていた。
「うん。ありがとう、ケルベロス。最高の思い出になったから」
「おまえがその気なら、俺は見逃しても………」
「いいんだ。いいんだよ、ケルベロス。優しいんだね、あなたは。………もう、大丈夫だよ。僕は、後悔してないから」
精悍でキツい見た目とは裏腹に、ケルベロスは優しくて………優しくされなれていない僕は、つい泣きそうになってしまう。
僕はベンチから立って、ケルベロスに近づいた。
「もう、大丈夫。僕を連れていって」
「………分かった。すぐ済む。目を瞑るんだ、朔」
ケルベロスが懐から青白い光の玉を取り出した。
………あ、紗久の、魂……。
キレイな、魂だなぁ………って、ぼんやり考えながら僕は目を閉じた。
少しの間だったけど、楽しかったよ………紗久。
ありがとう、紗久。
またね、司。
刹那に。
僕の胸を抉るように腕が入ってきて、僕の体は一瞬で軽くなった感じがした。
✳︎
「お兄さんが急逝したのはビックリしたけど。春山君が、元に戻った感じがする!よかったぁ」
教育実習の最終日、僕の指導教員だった長谷川先生が満面の笑顔で言った。
紗久の体で朔と過ごした大事なあの日。
俺は不覚にもまた眠りこけてしまって、気がついたら紗久の小さな体はなくて。
………また、やっちまった………って思ったんだ。
ふと、ローテーブルに目を移すと、小さなメモが置いてあった。
朔らしい、几帳面な字のメモ。
僕は、飛び起きてそのメモを食い入るように見る。
『司!ありがとう!
そろそろ迎えが来るから、行きます!
最後に、一つだけ。
僕のわがままを行使していい?
司から渡されたスマホ。持っていっていいかな?
ひょっとしたら、もしかしたら、あの世からメッセージを送れるかもしれないし。
じゃあ!またね!
司。愛してます。
サクラと朔、そして紗久より』
サクラ、らしい。
でも、前みたいに悲しくはなかったんだ。
いつか、会える。
必ず、見つけ出す。
そして、何より………サクラと繋がっている、ツールを持っているから。
だから、大丈夫。
前を向いて、生きていけるんだ。
たまに、くるんだよ。
サクラからメッセージが。
『元気?』とか『頑張って』とか………『愛してる』とか。
たったそれだけで。
切なくなるけど、嬉しくて。
サクラを思いだして、にやけちゃうんだよ……。
「春山君に色々相談されてたんだよ。
でも、春山君自身に固く口止めをされてたからさ。
………まさか、転落事故を起こすなんて夢にも思わなかったし。
一命を取り留めて学校に出てきた時は、別人みたいになっちゃってて………。
でも、本当、よかった」
「長谷川先生は、生徒のことをよく見ていらっしゃるんですね」
長谷川先生は俺の言葉に一瞬、ビックリしたような顔をして、でもすぐにその顔を崩して破顔一笑した。
「いやいや、伊藤先生には敵わないよ」
「え?どうしてですか?」
「別人の春山君にボク自身、一歩引いてしまって戸惑ってしまったんだ。
でも、伊藤先生は生徒一人ひとりに分け隔てなく接していて。
………初心回帰っていうんだろうね。
伊藤先生と一緒に過ごせて、ボクもすごく勉強になったよ。ありがとう、伊藤先生」
そう笑って右手を差し出す長谷川先生の懐の大きさに、思わず目頭が熱くなるのを感じた。
そんなんじゃ、ないのに………。
紗久の中身がサクラだったから………。
それでも、胸にじんわりくるような長谷川先生の言葉が嬉しかったんだ。
「伊藤先生は、いい先生になると思います。いや、絶対にいい先生になります。頑張ってください」
「………ありがとう、ございます。長谷川先生。頑張ります……」
………頑張れそうな、気がした。
サクラに繋がるツール以上に、長谷川先生のこの一言に……。
生きる勇気と、サクラを探し出せる自身がついたんだ。
「失礼します!」
職員室に耳慣れた元気な声が響く。
この声、かつてサクラが依代にしていた、紗久の声。
俺は、思わず顔をあげた。
「伊藤先生!お別れ会をするんですけど、教室にきてもらえますか?」
紗久の中の朔はもういなくなってしまって、その痕跡すら辿れないけど………。
俺は、忘れない。
サクラと朔が、いたことを。
目の前にいる小さな紗久の中にいたことを。
俺は、サクラに再びあう日まで。
絶対に、忘れない。
………愛してる、サクラ。
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