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清潔な白い部屋の中に消え入りそうな声が続いている。
「昼間は……大丈夫です。外に出なければ、息苦しくなることもありませんし……。眠ることは、薬を飲めばだいたい……その……あの」
桐島敦司(きりしまあつし)は背後で腕と足を組み、目を瞑って悠然と座っているパートナーの黒沢隆宏(くろさわたかひろ)を気にしてその先が続けられない。一番伝えなければならないことだったが本人がいる前でそのことを話すのは躊躇われた。
「吐く? まだ」
桐島は黒沢とのセックスの後に吐くことがあった。どうしようもない焦燥感があって、ではその正体は、と言われると何かもわからず、ただ込み上げる辛さを胃液とともに吐き出していた。だが黒沢はそのことに気付いていた。それを知られてからはなぜか嘔吐が少なくなった。具合が悪くなれば黒沢がトイレにまで付いてきてくれて、黙って背を撫でてくれた。それだけで心は温かさに満たされて涙が溢れた。桐島は思い切って顔を上げた。
「だいぶ少なくなったんです。彼、が、そのことを知ってくれて、大事に、してくれて」
「それはよかったね」
「はい」
「大事にされて自分にその価値があるとわかることができたらだいぶ楽になるよね」
価値。それかもしれない、と桐島は頷いた。自信がなかった。黒沢に愛されている、ということにいつも疑問が付いてきた。自分がいることで黒沢がダメになるのではないかとも考えていた。今は少し軽減された気がする。それは、と思い、桐島は左手の薬指のエンゲージリングを撫でた。
「はい、だから、もう薬は、いらないかと」
「それは駄目だよ」
カルテに文字を書き込んでいた初老の医師が顔を上げた。
「いきなり薬を止めるのはよくない。様子を見ながら少なくしていこう」
桐島は俯いた。自分のことでこれ以上黒沢に迷惑を掛けたくない。忙しい仕事の合間を縫って診察に付き合うと言ってくれているのだから。桐島がそっと振り向くとその気配を感じたのか黒沢が目を開いた。珍しく優しく微笑んで小さく頷く。それを見た医師がにこやかに診察の終わりを告げた。
「お大事にしてください」
薬局を出て黒沢の横を歩く。以前はいつも黒沢の背を見て歩いていたのが嘘のようだ。もう隠し通せない、と苦しかったすべてを告白してから黒沢はだいぶ優しくなった気がする。本人はそうとは思っていないようだが、桐島は申し訳ない、と思うばかりで何もできない。車につくと助手席のドアを開かれて、先に乗るよう促される。こんなことも前はしなかった。
「どうした、敦司。早く乗れ」
「あ、うん」
席に座り、安全ベルトを止めていると黒沢が隣りにきて、車体が少し揺れた。
「……え」
いきなりキスをされて、桐島は目を見開く。その様子を見て黒沢は笑った。
「そんなに落ち込むな。もうダメだって言われたわけじゃないだろう」
「……そうじゃなくて」
「俺に気を遣うな。勝手にしていることだ」
仕事を中断させてまで病院に付き添ってもらう。そのことに最初は強く反対した桐島だったが、黒沢の優しい気持ちに押されてしまった。いや、本当はずっと寄り添ってくれることを望んでいたのに、いざそうなるといたたまれなくなる。黒沢は変わり始めている。自分も変わらなければ、と思うが心がなかなか付いていかない。
「……ありがとう」
精一杯の気持ちを込めてそういうと黒沢はぽんぽんと桐島の頭を軽く叩いた。せっかくの晴れた青空に映える横浜の風景も見ず、桐島はただ俯いていた。
……続く
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