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第4話
掃除機の音が響いている。
土曜日の午前だ。これから休日がはじまるという、一週間でいちばん幸福な時間かもしれない。神里はベッドに寝そべったままだ。布団の中で聞く家事の音にはとても安心させられる何かがある。掃除機を使っているのは昴だ。神里はぼんやり音を聞いている。掃除機の音の合間に聞こえるのは、窓の外を走る車の音、風が雨戸を揺らす音だ。
外出時によくヘッドホンをしているせいで、音楽が好きとか、詳しいにちがいないと誤解されることが多かった。だが神里のヘッドホンから流れているのはたいていの場合音楽ではなく、マイクで拾った環境音である。電車の走行音もそのひとつで、これはいまや特殊なコレクションと化している。だが他人にわざわざそんなことは説明しない。
昴に話したのがどんなきっかけだったのかも覚えていない。だが昴は神里の趣味を多少は面白いと思っているのかもしれない。二度ほど録音を手伝ってくれたこともある。
今日の夜は焼き肉の予定である。昴のおごりだ。その前に映画に行くことにしていたから、神里は横になったままスマホで座席を予約する。今日が封切りのアクション映画はそれほど話題になっていないらしく、当日だというのに空いている。神里は中央後部寄りの座席をふたつ予約した。昴とは何度も映画を見に行っているから、慣れた手順である。予約をするのはいつも自分だ。そう思ったときふと、妙な気分になった。
実をいうと、この妙なもやもやする気分にはここ数日何回か襲われている。たとえば朝、シャワーの後でヒゲを剃っていると昴がいきなり洗面所のドアをあけ、即座に閉めたときなどだ。あるいは夜、ぼんやりふたりでテレビの前に座っていて、どちらからともなく「お休み」といって部屋に消えるとき。
たぶん先週の飲み会のせいだった。昴とやってないことが「法事とセックス」なんて、相原がいうからだ。しかし相原に他意がないことも百も承知である。飲みの席の戯言にすぎない。おかしいのは戯言にひっかかっている自分の方だ。
ひっかかるのは「法事とセックス」という表現が、不思議なほど的を射ているせいかもしれなかった。考えてみると栖原昴という人間はいつの間にか完全に神里の日常の一部になっていて、彼がまったく関わってこない物事は、それこそ自分の実家周辺(つまり法事)とセックスくらいしかないかもしれない。神里は昴に仕事がらみの愚痴をこぼしたり相談をすることもたまにあるし(『ネ申エクセル』はその代表である)昴の調子が悪そうに感じると気をつかったりもする。共有部分の支出はもちろん完全な折半だが、たまにちょっとした融通――自販機のコーラとか、電車賃が足りない時や、給料日前に少し貸したり借りたりなど――もする。暇な週末は買い物にふたりで行くのも普通のことだし、近くに新しいショッピングモールがオープンしたりすると、散歩がてらこれまたふたりで冷やかしに行ったりする。
そんな日常が何年も続いて、自分では何の違和感も感じていなかったが、あらためて他人に指摘されるとふと不安になるのだった。もしかするとこういう生活は、はたからみるとちょっと変なのかもしれない。
もっとも最初はまったくこんな感じではなかった。『ダイニハウス』の住人が昴と二人になったときである。共有部分の家事分担だって、今のようなやりかたではなかった。昴には七面倒くさいこだわりがあって、掃除にしろなんにしろ、自分のテリトリーと彼が勝手に決めている部分は徹底してやるが、それ以外は見向きもしないのである。そのことは学生の頃からわかっていたが、昴の「料理」について知ったのはこの家で二人になってからだった。昴は判で押したように毎日同じものを食べていた。
神里がそれに気づいたのは自分がキッチンであれこれやる時間が増えたためである。五人住んでいたころはキッチンに興味などなかったのだが、人が減って空間が自由に使えるようになると料理をするのが楽しくなったのだ。鍋を洗うのは面倒だが、野菜を刻んだり味付けを工夫するのは面白かった。
レシピサイトや本を見ながら工夫するようになると、他人が食べているものにも注意が向くようになる。そしてはじめて、昴がこの家で食べているものが毎日毎日、そっくり同じメニューなのに気づいたのだ。
「これ二人分作ったけど、喰う?」
最初にそういって食べさせたのは肉入りオムレツだった。昴は「うん」といってきれいにたいらげ、礼をいった。そんな日が何度かあったのち、皿や鍋を洗うのを後回しにしたつもりが、いつの間にかきれいになっているのに神里は気がついた。昴が神里の分まで洗っていたのだった。
そんな調子でなんとなく「分担」が開始され、そして今に至るのである。
『ダイニハウス』に住民が多かった時は昴と特に仲が良かったわけでもないから、思い返すと不思議なことだ。そもそも神里がこの家に入居してから半年以上、昴とはまともに話をしたこともなかった。もちろん挨拶程度の会話はあったが、この家で昴が一番仲が良かったのはたぶん山川だっただろう。
それでも一年も経てば適当に会話をするようにはなった。が、親しいというほどでもない。
そんな昴に対する印象が劇的に変わった日があった。大学四年の夏のことだ。
他の住民が帰省や旅行でダイニハウスにおらず、何日間か神里と昴のふたりだったときである。ふたりといってもバイトや大学の用事で生活もバラバラだから、神里は昴の顔をほとんどみていなかった。その晩は猛暑で外は蒸し風呂同然だった。神里は短パンにTシャツ姿で、ひとりリビングのエアコンの風に当たっていた。玄関のドアのあたりで足音が聞こえる。数回ドアがガタガタ揺らされた後、ピンポンが鳴った。
「昴か?」
「悪い。鍵忘れた」
昴の声は小さかった。珍しいこともあるものだと思いながら神里は鍵をあけた。暗がりから熱気が侵入してくる。なのに昴の顔は青白く、ぼうっとした眼つきだった。神里は違和感を感じて彼の顔を見返した。腫れているような気がする。
「どうした? 大丈夫か?」
昴は何もいわなかった。視線は神里を通り越して廊下の先をみている。
「おい、なんかあったの?」
もう一度声をかけても首をふっただけで何もいわず、神里をすりぬけて二階へ行った。何なんだ――と思ったものの、まあ暑いからな、と神里は自分を納得させてリビングに戻った。二階から足音が響いてくる。階段を下りる音、給湯器のスイッチが入る音が聞こえ、かすかな水音が響いてくる。風呂に入っているのだろう。
神里はリビングでゴロゴロ寝そべり、何となくテレビをみていた。一度トイレに立つとまだシャワーの音が風呂場で鳴っている。リビングに戻って時計をみた。昴が帰ったのはいつだっただろう。
ずいぶん長い。ひょっとして風呂で寝ているのか? シャワーを流したまま?
急に不安になった。
神里は洗面所のドアをそっとあけた。とたんに湿った空気が流れ出した。暑い。浴室は洗面所の先、半透明の折り戸で仕切られている。その戸が半分あいて、昴がうずくまっている。Tシャツを着たままのようだ。
「昴?」
いいのかわるいのか半ば悩みながら神里は折り戸に乗り出し、浴室をのぞいた。昴は膝下まである長いTシャツを着て、うつむいて浴槽と床のタイルを磨いていた。スポンジを握りしめた指がくるくるとタイルの目地をなぞる。水が小さな流れになって服を濡らし、シャワーから散った水が髪や背中に垂れている。神里は面食らった。
「なあ、大丈夫か?」
返事はなかった。神里はしばらく昴を見下ろしていた。濡れて透けたTシャツの背中に一瞬、赤いあざのようなものが見えた気がした。胸の内側がざわざわしたが、昴はこちらに顔も向けないし、手はひたすらタイルをこすっている。湿った空気が重かった。汗が垂れてくる。神里は後ずさり、洗面所の外に出た。多少涼しい廊下に立って、閉じたドアをみつめ、迷った。
やっぱり変だ。
もう一度ドアをあけた。今度はすぐに浴室の折り戸に手をかける。
「昴?」
昴はうつむいたまま手を止めた。水が流れていく。神里は折り戸の外で膝をまげ、そっと手をのばした。
「なあ、もう十分きれいになって――」
昴の肩に触れたとたん、彼は跳ね上がるように顔をこちらにむけ、神里の手を振り払おうとした。思いがけなく強い力に逆にびっくりして、神里は反射的に昴の腕を握り返した。昴は暴れるように腕をふり、小さくもみあいのようになって、顎が神里の胸にふれた。
「おい!」神里は思わず怒鳴った。「どうしたんだ?」
昴はびくっと体をすくませた。「なんでもない」
「どうみてもなんでもなくな――」
「なんでもない!」
「どこがだよ。何があった? 事故? 怪我?」
その時だった。神里の頭を抱えこむようにして、昴がキスをした。
昴は神里ほど映画が好きなわけではないようだ。だが映画館は嫌いではないらしい。ちらっと横をみると、ポップコーンを片手に一心に画面をみつめている。今はお約束の殴りあいのシーンだ。監督のこだわりもあってやたらと筋肉の絡みが多い。楽しみにしていたはずなのに、神里はいつものように集中できなかった。大画面でライバル同士が顔をつきあわせて対決しているのを眺めているうち、ずっと昔のとある夜、昴がおかしかった夜のことを思い出したせいだ。
ポップコーンをかじる小さな音が聞こえてくる。神里はまたちらりと昴をみつめ、唇が動くのをみて、眼をそらした。
あのとき、昴のTシャツも髪も濡れていた。顔も濡れていて、眼は赤かった。押しつけられた唇も濡れ、舌先がぬるっと触れるのもわかった。
神里は動けなかった。ただただびっくりしていて、それ以外のことは何も感じなかった。鉄臭いような匂いがかすかにして、それが何かわからず、一瞬おいて血の味だとわかった。とたんにぐいっと昴に押しのけられた。あわててふりむいたが昴はすでに洗面所を出ていくところで、見えたのは丸くかがめた肩だけだ。ドアがぴしゃりと閉められ、階段を上る足音が聞こえる。床は濡れたまま、シャワーも出しっぱなしだった。
混乱したまま神里はシャワーの栓を止めた。昴の部屋のドアは閉じていて、耳を近づけても何ひとつ聞こえてこない。ノックしかけて迷い、結局何もしなかった。リビングの電気を消して自分の部屋に戻ったが、あまりよく眠れなかった。
ところが昴はそんなこともなかったようだ。
彼は翌朝平然とした顔でリビングにあらわれた。唇がすこし腫れていたかもしれないが、神里は昴の顔をまっすぐみることができなかった。しかし昴はいつもとまったく同じだった。昨夜のようなおかしな眼つきもなかったし、ものすごい勢いで浴室を磨いたりもしなかった。
あれから何年もたって、いまの神里は昴と格段に親しくなっている。しかしあの夜については、一度も話したことがない。
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