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第5話
銀色の四角い網の下で七輪の炭火が燃えている。暗い赤のうえに灰がかぶり、あいだからオレンジ色の炎がヒュッとあがる。
昴は料理全般を面倒くさいと思うたちだが、炭火で肉を焼く行為には執着がある。焼き網の銀色のマス目の上に赤い肉を等間隔で並べ、炎があぶるのをじっと待つ。肉汁が表面にのぼって、炭火に垂れる一瞬前にトングでひっくり返し、焼き色を鑑賞する。肉を返すタイミングには肉の種類ごとに最適解がある。絶妙なタイミングでひっくり返せると何かに勝利した気分になる。
神里は昴のように肉の焼き方に固執がないらしい。それどころか自分の肉も昴が焼いてかまわないというので、昴は自分の分と神里の分と、領域を分けて肉を並べる。四角いマス目で区切られた焼き網は領域確定にも便利で良い。ときおり問題が起きるとすれば、七輪の炭のならびが不均衡になってしまうことだろう。こちら側とあちら側、どちらかによく燃える炭が偏ると、肉を置く座標の最適解が変わってしまう。
神里は昴が肉を焼くはしからどんどん食べている。昴は鍋奉行なる行為は嫌いだが、他人の肉を焼くのは好きなのかもしれない。しかし以前から自分がこんなことをしていたかと聞かれると、そんなことはまったくないと即答できる。ダイニハウスの他の住民たちと焼き肉に行くのは戦争のようなものだった。肉はあっという間になくなるので最適解など求める余裕はないし、ビールもなぜか飲みすぎてしまう。神里とふたりで食べる方が、ペースとしてはちょうどいい。
二人分の会計をすませてアメをもらい、外に出る。この焼き肉屋はレジで必ずアメをくれるのだ。神里は先にアメだけ取って外に出ていた。昴はアメの包み紙とレシートをポケットにつっこむ。レモン味が好きなのに、見当たらなかったのでリンゴにした。
めずらしいことに今日の神里は昼間みた映画についてほとんど話さなかった。気に入らなかったのだろうか。誘われてたまに劇場に行く程度の昴にしてみると、神里はけっこうな映画通である。監督のこれまでの傾向からしてああだとかこうだとか、分析めいたことも聞かされるのが常なのに、今日は静かだ。
神里は昴の斜めうしろを歩いている。横は歩幅分ほど離れている。白い塀の向こうを電車が通りすぎる。神里以外の誰かが夜道でこの距離にいると自分は警戒するかもしれない。ふとそんなことを考えてから、男のくせに夜道を警戒なんてどうなのか、と昴は思う。
「飲み足りない気がする」
歩きながら珍しく神里がそんなことをいった。
「ダイエットコーラなんか飲んでるからだ」と昴は返す。酒に強いくせに腹がどうこうなどといって神里がやせ我慢をしているのは、昴にはときに馬鹿馬鹿しくみえる。
「それは先週の話だろう。今日の話だよ。もうすこし飲みたいかも」
線路沿いを歩くにつれて途中の踏切の音が遠くなる。住宅街の中に入るとあたりはますますしんとした。
「先週のウイスキー、まだ残ってたぞ」
昴はキッチンの在庫を思い浮かべていった。
「みんなで割り勘で買ったやつ?」
「そ。あけてしまおうか。炭酸あったっけ」
「俺は氷があればいい」
神里のスニーカーのつま先に当たった小石がぴょんと前に飛ぶ。神里はどんな酒も平気で飲むのだ。
「じゃ、それでいい」と昴もいう。
酒と飯がありがたいのは、一週間のうちに溜まった理由のない疲労や、これまた理由もなく気にかかっていた何かがどうでもよくなってくることだ。昴はリビングの壁にもたれて低いテーブルの脚にのばした足先をひっかける。神里はテーブルのすぐ横にあぐらをかく。土曜の深夜にテレビをつけたままダラダラ飲むのは悪くなかった。明日も休みだと思うとなおさらだ。今までも時々こんな夜があった。深夜まで適当に飲みながら、適当にしゃべるのだ。昴にとって「適当に」話せる相手は貴重だ。
「最近気に入ってる電車ってあんの?」
何気なくたずねると「大江戸線の飯田橋近くが面白い」と神里はいった。
「地図を調べてないんだが、線路が曲がってるのかもしれない。急にドライブがかかる箇所があって盛り上がる」
続けて彼は該当箇所の音を口真似する。ボイスパーカッション――ともちがう、なんと呼ぶのか、音の形態模写である。神里はしごくまともな人間にみえるが、毎度のことながらこういうところは変態だと昴は思う。神里にとって電車は楽器のようなものらしい。
「いつも思うけどさ、電車が好きなんて変態だな」
笑いながらそういうと、神里も笑いながら「悪かったな」といった。
気安くこんなことをいえるのは半分は酒のせいで、半分は相手が神里だからである。他人の機敏を読むのが不得意な自分を昴はよく知っている。だが神里を前にしたときは、あまりそんなことを考えなくていい。
いつの間にそんなふうに思うようになったんだろう?
ふとそんな疑問が沸きあがり、昴は笑うのをやめた。
何年も同じ家で暮らしていても、それほど同居人のことを知っていると昴は思っていなかった。何しろ神里の仕事が何なのかもよく知らないくらいなのだ。大学院へいった神里は就職も昴より二年遅かった。もともと学部も全然ちがう。昴は文系で神里は理系、大学四年の夏、就職も決まった昴はバイトばかりしていたが、神里は毎日実験だかなんだかで大学へ通いつめていた。
とはいえ、かつてダイニハウスに住んでいた他の連中についても昴は同じくらい何も知らなかった。ただ彼らは出て行って、自分と神里だけがここに残っている。もし神里までここを出るといいだした時、自分はいったいどうするだろう。
「いつまでここに住むかな」
そう口に出したのは内心の思考の連続だった。
「え?」神里が驚いた顔になった。「出ていく予定があるのか?」
「あ、いや。考えてないけど……」
昴はコップを置いて伸びをする。
「坂田が結婚したせいかな。神里も結婚するかもしれないだろう? そうしたら僕だけになる」
「そんな予定ないけどな。相手がいない」
嘘だろうとかそうでもないだろうとか、適当な相槌をうてばよかったのに、昴はなんとなく話の接ぎ穂を失って黙ってしまった。テレビからタレントたちの笑う声だけが部屋の中に響く。飲みすぎたのかもしれなかった。くらくらする。
「なあ、僕と神里って、そんなに仲いい?」
神里が吹き出した。
「悪くはないだろう? ていうか、当人にいうなって」
「こういうの変かな」
「ただのシェアだ。相原が悪いんだ。他人事だと思って適当にいいやがって」
では神里も気にしていたのか。そう昴は思い、すこし安心した。それがまずかった。
「だよな。一緒にやってないのは法事とセックスとか、童貞にきついことをいう」
しまったと思った。口がすべった。神里とはたしかによく話をするが、こんな話はしたことがない。というわけで、昴は苦し紛れに続きの言葉をひねりだす。
「おまえはいいよな。彼女いたし、今もモテそうだし」
神里は顔をしかめた。
「もう別れて何年もたつし、モテるような要素もない」
「あっそ」
それこそ適当に流すか冗談にしてほしかったのに、神里は真顔でいる。昴は顔をそむけて溶けかけた氷をグラスに流しこむ。これを飲んだら終わりにしよう。
「昴、童貞なの」
なのに神里はいらない口をきく。
「聞くなよ」
「ごめん」
「苦手なんだよ」
何が、とはいわなかった。昴本人にも何が苦手なのかよくわかっていなかったからだ。どうしてこんな話になってしまったんだろう。神里に電車の音真似をずっとさせておくべきだった。ところが顔をあげても神里は真顔のままだ。眉がすこし寄って、眸は真っ黒。まっすぐに昴を見ている。
暑くも寒くもないのに、どういうわけか体の一部がチリチリした。神里がいった。
「じゃあさ、一度やってみる?」
「何を」
深い意味もなく昴は首をふる。もう土曜は終わりだ。さようなら休日一日目。なのに神里は酒のコップを置いてこちらへ体をのりだしている。「昴」と呼ぶ。
「おまえ昔、俺にキスしてきたの、覚えてるか?」
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