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第6話
神里の眼の前で昴が一瞬固まって、それから困惑したように笑った。
「――なんだよそれ」
「なんだよって……四年の夏だよ。他の連中が帰省でいなかったとき。俺がひとりでいるところに昴が帰ってきたけど、鍵忘れたっていうから開けてやっただろ。おまえ、なんか変でさ。そのあと風呂がやたら長いんで心配して見に行ったら、風呂場を磨いてた」
「風呂場を?」
「そう。なんかこう――鬼気迫る感じで」
「何それ」
「俺に聞くなよ。おまえがやってたんだ。それで変だと思って声をかけたらなんかおまえ暴れてさ、で、俺にキスしてきた」
昴は眉をひそめて神里をみつめている。半開きになった唇から舌がちらりとのぞき、ついできっちり閉じた。のどぼとけが一度上下した。
「嘘だろ。そんなことするか」
何をいってるんだこいつは。神里は呆れた。
「嘘ってなんだよ。したって」
「してない」
昴はきっぱりといいはなつ。神里は逆に不安になった。
「いや――昴、本気でいってる? だいたいおまえあの時……怪我かなにかしてたと思う。顔が腫れてたみたいだったし――それも聞いたような気がするけど、なんでもないっていったんだ。めちゃくちゃ暑い日でさ、夜も暑くて……」
そのとたん昴は何度かまばたきをした。神里がみつめかえすと今度は眼をそらした。
「四年って学部だろ? もう七年――八年前じゃないか。覚えてない」
「いやそりゃ、もう相当前の話だけど……俺はけっこう気になってて――ていうか、そんないっつも思い出してるわけじゃないけど、忘れるのは無理だって」
「勘違いだろう。ぶつかったとか」昴は早口でぼそぼそといった。
「でなきゃ夢でもみたんだ」
「なんで昴が俺にキスしてくるなんて勘違い、俺がするんだ」
「知るか。だから夢でもみたんだろうって。神里――おまえはさ……」
つぶやくようにそういって昴はそわそわと体を揺らし、伸ばしていた足をひっこめる。
「おまえは電車の音が好きな変態だけどさ……それ以上に変な趣味はないだろ」
「変な趣味?」
神里は面食らって聞き返した。昴はいいにくそうにまた顔をそらした。声は小さかった。
「電車で男のケツを撫でまわしたりする趣味だよ」
「そんなのあるか」
神里は即答し、それからやっと気がついた。まずい。この先に踏みこむのはとてもまずい。
わかっているはずなのに口が勝手に動いた。
「昴、よくその……痴漢に遭う?」
昴は馬鹿にしたような眼つきで神里をちらっとみたが、何もいわない。
「遭うんだな」神里はつぶやいた。
「べつに」
「警察とか届けて――」
「時間の無駄だ。男相手に本気になってくれるかよ。よくあるし」
「なあ、その――四年の夏休みの時も何か――」
「あのな、神里。僕は覚えてない」
昴は壁をみつめたまま神里をさえぎるようにいった。
「おまえにそんなことをした覚えもない。だいたいなんでこんな話になったんだよ」
昴は本当に覚えていないのか。それとも自分が昴のいったように勘違いしているのか。
神里にはだんだんわからなくなった。しかしあれがもし記憶ちがいや夢だとしたら、どうして自分はそんな思いこみをしているのか? あれはものすごく印象的な出来事で、こいつの濡れた髪や唇の感触まで思い出せるくらいで……
神里は昴の閉じた唇をみつめて身じろぎした。痴漢云々の件についてはひとつ思いあたることがあった。
「昴――俺、一度おまえが忘れた弁当を駅に持って行ったことがあるだろ?」
「それが?」
昴は壁をみつめたままだ。
「あの頃おまえ、変だっただろう」
「どこが?」
「おまえいつも分単位で同じ時間に出るじゃないか。それがあの頃は妙にぐずぐずしたり、やたら早く出たり、パターンが壊れていて変だと思った。あげくのはて弁当まで忘れるから、それでちょっと――気になっててさ。持って行ったんだ」
「あれは――」
突然昴は神里の方へ向き直った。ぱちぱちと何度かまばたきをし、そして急に笑い出した。高くうわずったような声の、奇妙な笑いかただ。いつもなら昴の笑いは伝染するのに、嫌な感じがして神里は笑えなかった。
「駅で毎日あとをつけてくるおっさんがいてさ。いつも真後ろに並んで電車に乗ろうとするから、時間をずらして避けようとしてたんだ。むこうのパターンもわからないから毎日おっかなくて」
笑い声をいったんおさめて、昴は面白い話でもしているかのような口調で話している。
「おい、それってほとんどストーカーじゃ――」
「おまえが弁当を持ってきたときもすぐ近くにいたんだよ。でっかい声でおまえが弁当忘れてるぞっていったときも」昴はまたハハハッと笑った。「あの時はたぶんおまえのおかげで助かった。おっさん、翌日からいなくなったからな。なんか勘違いしたんじゃないの――おまえのこと」
昴はまだにやにやしている。だが神里は腹が立てていた。立派なセクハラ案件なのにいったい何がそんなに面白いのか。
「昴、何を呑気に笑ってんだよ」神里は不機嫌にいった。
「怒れよ、自分のことだろうが。笑いごとじゃない」
「今となっては笑いごとだよ」
「ちがう」
「なんで神里が怒るんだよ」
そう聞かれてまたムッとした。なんでだって?
「あのな――昴」
「なに」
神里はかがんで手をのばし、昴の肩をつかむと、壁と自分の顔のあいだに挟むようにしてキスをした。
魔がさしたような、よくわからない衝動だった。怒りのせいだったのかもしれない。
神里の手のしたで昴が固まっている。触れた唇は柔らかくてウイスキーの匂いがした。キスをしながら、昴のびっくりしたようにひらいた眼が伏せられるのを神里はみていた。昴のまつ毛は長かった。女みたいだ、とふいに思った。何年も誰かとこんなことをしていないのに、違和感がない。おまけになんだか――気持ちがいい。
神里の頭の一部はおかしいと訴えている。俺はいくらでも飲めるはずなんだが、自分も十分酔っぱらっているということか? もちろんふたりともかなり飲んでいた。肉を食ったあとでウイスキーの残りをほぼあけてしまったからだ。それにしたって、いま俺が昴にやってるのはどう考えてもセクハラじゃないか。でも昴が忘れているといった風呂場でのことだって、俺へのセクハラみたいなものじゃないか?
急に股間がきつくなった気がした。
なんだこれ。まずい。
神里はぱっと手を離し、顔を離した。昴が眼をあげて自分をみた。怒っているのか呆れているのか、それとも酔ってぼうっとしているのか、動転した神里にはよくわからなかった。昴の唇がやけに赤くみえた。神里の唾液で濡れているのだ。舌がちらっとのぞき、のどぼとけがまた上下する。
ふいに神里の下半身で血がたぎった。自分のからだのそんな反応に神里は焦った。俺はそんな|気《ケ》は――
突然大きな音で電話が鳴った。
「僕のじゃない」
昴がぼそっといった。神里はリビングをみまわし、自分のスマホをひろいあげた。
「こんな時間に電話なんて誰だよ。彼女?」
昴の声は嫌味のようだった。神里は首をふる。
「いや、実家――もしもし?」
『友祐? ごめんねこんな遅くに急に』
電話の向こうで唐突にしゃべりはじめたのは北海道にいる母親だ。『実はいま病院から戻ってきたんだけど、お父さんが入院しちゃって――』
「え?」
『夕方倒れて救急車に乗って、来週手術することになったのよ。いま千紗と美沙ちゃんもいるからいろいろ大変で、しかもおじいちゃんはデイケアだったし、明日もおばあちゃんのところへ送る予定だったし、そんなこんなで電話が遅くなったんだけど、とにかくお父さん手術するから』
「え、ちょっと待って――お母さん」
なんだって今日は急なことばかり起きるんだ。混乱しながら神里は電話に向かって口走る。
「手術って――何の病気――俺、帰らなくて平気?」
『もし都合がつくなら帰ってきてもらえるといいんだけど、お父さんだけじゃなくて千紗の赤ちゃんもいるから大変だし、でも無理しなくていいから……』
「あ……待って。明日が日曜だから――月曜休めるか会社に確認して――また電話する」
通話を切って顔をあげる。昴が度肝を抜かれた顔をして神里をみていた。
「おまえの実家? 大丈夫?」
問いかけた声はおそるおそるといった調子だった。
「父親が病気らしい。帰らないとまずいかも」
「北海道だっけ。遠いな。飛行機?」
「予約しないと」
「朝の便を調べるよ」
昴が自分のスマホを拾っている。喜ぶべきかどうか、さっきまでの雰囲気も神里がしでかしたことも今の電話で消し飛んでしまったように、いつもの平然とした表情に戻っている。だが神里の頭の中はまだくらくらしていた。これは酔っぱらっているせいなのか、それとも別の理由があるのだろうか。自分でもよくわからなかった。
「昴――さっきの」
「おい、明日だと直行便はもうないらしいぜ」
「ごめん」
口に出したあとで神里はしまったと思った。いったい何が「ごめん」なのだ。さっぱりわからない。自分がこんなことをいわれたら腹を立てるかもしれない。ヒヤッとしたが、昴は神里の方をみなかった。
「べつにいいよ」
そしてスマホをつかむとリビングを出て行った。
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