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第7話
昴は冷蔵庫をあけ、野菜ジュースのパックが残りひとつになっているのに気づいて顔をしかめた。一本で一日分の緑黄色野菜がとれるとパッケージに書かれているものだ。六本入りパックを買って毎日一本飲んでいるのだから、六日目になくなるのは当たり前である。なのに妙に苛ついた。喉が痛いせいかもしれない。
最後のジュースの一本でトースターで温めたパンを流しこむように食べた。冷蔵庫のサイドポケットには神里のスポーツドリンクが鎮座していた。昴はスポーツドリンクを飲まないので、これは神里専用である。しかし今週は本人がいないので、ずっと同じ場所におさまっている。
神里は帰省中だ。日曜に飛行機で実家へ帰ったあと、何日かこっちにいるという律儀なメールが昴にも届いた。神里の実家にはふだん両親と祖父が住んでいるらしいのだが、今は里帰り出産をしたきょうだいと新生児がいて、祖父は軽度ながら介護も多少は必要で、祖母は実家近くの施設にいるからそちらのケアも必要なところに父親が倒れたというのだった。
神里の会社には介護休暇だか家族休暇だか、そんな名前のついた休暇制度があり、それで何日か休めることになったらしい。神里なら実家でも頼りにされているにちがいないと昴は思う。もし自分が神里の立場だったら、帰っても何の役にも立たないだろうが。
一人暮らしはひさしぶりだ。昴は立ったままパンを飲みこみながらホワイトボードの表を眺めた。神里がいないあいだに全部青色で埋めれば今月は完全勝利できるかもしれないと一瞬思ったが、神里がいないときに埋めたところで有効なポイントになるのだろうか、とも考えて、わからなくなった。
この表は共同生活の家事雑用を分担するためのものだ。この家に自分ひとりしかいないのなら分担ではなくただのTodoリストにすぎない。しかしひとりで生活するのなら、ここまで律儀にTodoリストをこなす必要もないだろう。自分が気になることだけやっていればいいのだ。
もっともこの家にもっと人が住んでいたとき、昴は自分が気になることしかやっていなかったのではなかったか。こんな表を作ったのは神里と住んでいるからだ。
他に誰もいないダイニハウスは静かだった。静かなだけでなく、空っぽな感じがした。帰省して六日たっても神里はまだ北海道だ。冷蔵庫にはろくな食材がない。今週は牛丼屋で弁当を買ったり、以前毎日食べていた定番食を作ったりして晩飯にしたが、うまいとも思わなかったし、なにより退屈だった。今日は土曜だし、買い物に行かなければならないだろうが、それも面倒だ。
昴はスマホを眺め、神里にメッセージを送ろうかと迷った。しかし調子はどうだとか、いつ戻るのかなんて、たずねるのもおかしな気がする。神里はただの同居人なのだし、帰省が多少長引いたところで、あと何日かすれば戻ってくるだろう。
喉が腫れて痛く、パンを飲みこむのもすこし辛かった。風邪をひいたのかもしれない。今週は気温の上下が激しく、昴の勤務先には具合の悪そうな同僚がいた。早めにクリニックへ行ったほうがいいに決まっている。神里がいればうるさくいうにちがいない。だが今この家には昴ひとりだし、昴はクリニックの待合室を想像するだけで面倒になるたちである。休みをそんな風に使うのもかったるい。
などと思っているうちに背筋に震えがきて、寒くなった。昴は結局自室の布団に逆戻りし、体温計を腋の下に差しこんだ。枕に頭をつけるとほっとしたが、まだ寒い。みのむしのように頭から布団をかぶる。喉の腫れがひどくなったようで、不快だった。そのままうとうとしたのかもしれなかった。
蛍光灯の陰気な光が視界の隅でちらついている。薄暗い部屋は灰色のロッカーに囲まれている。高いところにある細い窓から非常灯の緑色が透かして見えている。閉じこめられて息ができない。
昴は眼をあけ、布団をはねのけた。とたんにひどい頭痛がやってきた。体温計はどこへ行ったんだろう。喉が腫れあがっていて、唾をうまく飲みこめなかった。もう痛くはない。今痛いのは頭だ。
水。それに薬――かなにか。
ふらつきながら階段をおりて冷蔵庫をあけ、神里のスポーツドリンクをボトルごと抱えて自分の部屋へ取って返す。あとで買って返せばいい。力が入らないのか、ボトルのフタをあけるのに苦労した。この手の飲み物はいつもなら甘すぎて嫌いなのに、今は味がよくわからなかった。震えながらまた横になった。震えるほど寒いのに顔の表面だけやたらと熱い気がする。
布団の暗がりで丸まっていると、また暗いロッカールームをみた。頭の中に勝手に浮かんでくるのだった。体のあちこちがズキズキ痛むのは、足をひっかけられて倒れた拍子に頭と背中が何かにぶつかったせいだ。
「今日で最後だって?」という声がきこえる。この部屋は冷房が効きすぎて寒い。この部屋だけじゃない、このバイト先の会社全体がそうだった。大学四年の夏だった。
二年ほど、ときどき短期でバイトに入っていた小さな会社だった。作業は官庁から発注された技術文書の入力で、昴のように短期間で入れ替わる大学生のバイトが数人いたが、ろくに話をしたこともにない。リーダーの男もバイトらしかったが、彼は学生ではないようだった。
仕事は単調で退屈だった。夏休みだから引き受けたが、就職も決まったし、いいかげん飽きていたので今回で終わりにするつもりだった。昼間社長にそう告げて、その日は最後だからときりのいいところまで片付けたのだが、終わるとかなり遅い時間だった。残っていたのは正社員がひとりと作業リーダーと昴だけだ。
リーダーの男は男女関係なく気安く話をする陽気なタイプだったが、昴は簡単に打ち解けるたちではなかったので、相手のことも学生ではなく自分より年上だ、程度のことしか知らなかった。もっとも相手は必要なこと以外は話さない昴にやたらと声をかけてくるのだが、誰ともそんな調子なのだろうと昴は思っていた。あのときも「最後だって?」と聞かれてもこれといって注意も払わず、狭いロッカー室の奥で私物を取り出そうとしていたのだ。
だからいきなりのしかかられたとき、昴の頭も体も麻痺したようにストップした。ロッカーの鉄の扉が首か肩をかすり、足をひっかけられて床に倒れる。次の瞬間、やわらかく股間を握られて全身がすくみあがった。
こっちはすくんで萎えているのに、のしかかってくる男の体に堅く張りつめた一物を感じてぞっとした。大声どころか、喉がひっくりかえったようになって、声をあげることもできない。ふいに口がなま暖かいもので覆われた。ぬるっとした感触が唇をまさぐって、自分のものでない息を吸いこんでしまう。
最高に気持ち悪かった。昴の頭は自分が何をされているのか理解するのを拒否し、ただ嫌悪のためにやっと体を動かすことができた――足をばたばたさせ、口のなかに入ってくるものに噛みついたのだ。
頭と肩がまたどこかにぶちあたる。怒鳴られたような気がする。何をいわれたのかよくわからなかった。嫌な味がした。気持ち悪い。無我夢中で絡んでくる腕や体をおしのけ、蹴って、鞄をつかみ、外に飛び出した。雑居ビルの廊下を走り、全速力で外に出て、ぬるい夏の空気の中を走り続けた。
昴は布団のなかで眼をあける。天井がゆがんでいるようにみえる。今も気持ちが悪い。熱のせいだろう。
ひじをついてスポーツドリンクのボトルをもちあげ、どうにかひとくち、ふたくち飲んだ。さっきは味がわからなかったが、今度は甘かった。いつもなら甘すぎると思うところだが、今は美味しかった。
(おまえ、俺にキスしてきたの、覚えているか?)
神里はそんなことをいったな――と昴はぼんやり思った。きっとあの日だ。悪いことをしたと昴の頭の一部は他人事のようにそう考えた。もっともいまだによく思い出せないし、ほんとうなら頭がおかしくなっていたとしか思えなかった。
ひょっとして自分は神里にあの気持ち悪さを伝染させてしまいたかったのかもしれない。上に乗った男のなまぬるい息とぬめっとした感触を。ほら、風邪は他人にうつすと治るというから。
だとしても馬鹿げていた。とはいえその後何年もロッカー室の経験そのものをすっかり忘れていたことを思えば、一応成功したのかもしれなかった。もうひとくちスポーツドリンクを飲む。乾いた唇がしめって、喉に甘さが下っていく。ふと唇のうえに感触がよみがえってきた。ロッカー室の男のそれでも、そのあとのことでもない。ついこの前の感触だ。神里が帰省する前の夜。神里の――
あれは悪くなかったな、と昴はぼんやりと思った。いまそう思うのは熱のせいだろうし、あのときそう思ったのは酔っぱらっていたせいなのだろう。
そろそろ終わりなのかもしれない、そんな言葉が頭をよぎった。自分の思考のはずなのに自分でも意味がわからなかった。何が終わるんだ。同居が? 分担が?
曖昧な意識のなかに曖昧な眠りがやってきた。今度は夢はみなかった。
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