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第8話

 神里がダイニハウスに戻ったのは月曜日の夕方だった。最初から最後まで慌ただしい帰省だったが、父親はじきに退院というし、妹の子供にも会えたし、どれほど役に立ったのかはともかくとして大げさに感謝もされたので、良かったなとは思っていた。妹の赤ん坊をあやしているときの母の物言わぬ圧力――そっちはどうなの? とでもいうような――はともかくとして。  玄関をあけるとすこしこもったような匂いがした。平日だから昴は会社だろう。なのに三和土にいつもの革靴がある。いぶかしく思いながらキッチンへ入ると、テーブルに調剤薬局の袋が無造作においてあった。父親のことが頭に浮かんでぎょっとした。 「昴?」  上でガタガタと物音がした。階段がきしみ、ふりむくとTシャツにジャージをはいた昴が立っている。元気のない様子で手を振ると黙って冷蔵庫を開けた。と、手が止まって思い出したように「悪い」といった。 「何が?」 「おまえのスポドリ飲んじゃった。今度返す」 「どしたの。会社は?」 「ん、風邪――? 熱が下がらないんで朝病院行ったら、扁桃腺が腫れてるって」  流しのところに空になったスポーツドリンクのペットボトルが置いてあった。レトルトパウチのゴミも積んである。昴は冷蔵庫からゼリー飲料のパックを取り出して咥えている。 「大丈夫か?」  昴はうなずいただけで、ゼリー飲料を片手に階段をのぼっていく。神里はスーツケースを片手にその後についていった。荷物を自分の部屋におしこみ、窓を開けてから廊下に出る。昴の部屋の戸は中途半端に開いている。隙間からのぞくと床にタオルや保冷剤がちらばって、昴はベッドの背板にもたれていた。  何年も同じ家に住んでいるが、昴の部屋の中を見たことは二回くらいしかない。神里も昴もダイニハウスから住民が減ったのをいいことに、それぞれの趣味の物品――ゲームや本や神里に至っては録音編集用の機材等々――でそれぞれ一部屋占領していて、そっちの方は時々適当に出入りするが、寝室には用がなかった。意外に汚いな、と神里は思った。こいつが完全な一人暮らしになったらいったいどんな暮らし方になるんだろうか。だいたい、自分がいないあいだに熱を出すなんてどういうことだ。 「タオル、片付けようか」 「ん? いいよ」昴は怠そうにこたえる。 「なんで熱なんか出してるんだ」 「知るか。出るときは出る」  たしかにその通りだ。なのに神里は奇妙な苛立ちを感じていて、そんな自分を変だと思った。はっと気がついた。やっと帰ってきたのに、昴がいつもの調子でないことが不満なのだ。  なんだよ、それ。  自分にツッコミをいれながら神里は昴の部屋に散らばったタオルを拾った。着替えたあとにほうり出されたらしい他の服も拾って階下へ降りる。洗濯機にほうりこんでから自分の荷物のことを思い出し、二階へ戻った。帰省中の汚れ物を持って下に戻る途中でまた昴の部屋をのぞく。眠っているようだ。  洗濯機が回る音をききながらリビングに行ってテレビをつけた。冷蔵庫にはろくな食べ物がなかったが、どこに何があるのかすぐにわかるのは嬉しかった。帰省中は実家でも料理をしたが、母と妹の城であるキッチンは神里にとって未知の領域で、何をするにも手間がかかっていた。だいたい、かつて自分の部屋だった場所は妹と姪っ子に占領されているし、持ち物は何年も前から納戸行きである。独立した以上はそういうものだろう。実家はもう自分の家ではない。しかし別にさびしくはなかった。  階段で足音がする。昴がぼうっとした顔でリビングを通りすぎ、ふらふらとキッチンへ行った。 「大丈夫か?」  神里が声をかけると、小さく「薬を飲むんだ。そのまえに何か食べないと」と返事をする。 「作ってやろうか?」 「レトルトでいい」  そういわれても気になって、神里は首をのばしてキッチンの方を見た。昴はおぼつかない手つきでレトルトの封を切っている。 「いいから座ってろよ」  昴の肩をリビングの方向へ押すと、素直に歩いていつもなら神里が座る位置にどさっと座った。電子レンジにラップをした皿をいれていると後ろから「おまえ、親は?」とたずねる声が聞こえる。 「とりあえず大丈夫」  神里はレンジの中でラップがふくらむのをみつめた。熱い皿を盆にのせてリビングに運ぶと、昴はスプーンをにぎり、湯気を吹くあいまに「ならよかった」という。神里もソファに座り、昴が食べるのを眺めていた。隣で食べている人間がいると食欲がわいてくる。それに空港で軽食をとりはしたものの、考えてみると夕食の時間だ。 「おまえ、晩飯は?」  神里の腹具合を見透かしたように昴がいった。 「これから」  昴はスプーンをふる。 「食う?」 「おまえが食えよ、病人」 「薬を飲むためのアリバイだから、全部はいらない」  昴はそういって皿を置き、水を飲んだ。視線はぼうっとしたまま壁の方に向いている。 「表が埋まらなくてさ」唐突にいった。「神里が帰る前に全部うめて、今月は圧倒的勝利のはずだったのに」 「そりゃズルい」 「ルールには反してない」 「いや、風邪はズルの天罰だ」  そのままふたりとも黙っていた。沈黙の居心地は悪くなかった。テレビでは気象予報士が天気図を説明している。明日も全国的に晴れ。 「熱は下がったのか?」 「だいぶまし」  ほんとうかな、と思った。手をのばしたのは神里にとって自然な動作だった。 「触るなよ。うつるだろ」  昴はぶつぶついったが、神里の手を払おうとはしなかった。昴のひたいは湿って、すこし熱いような気がしたが、よくわからない。 「ノロじゃあるまいし、風邪ならうつるときはうつる」 「そうかもしれないけどさ……病気とか介護とか大変だよな」 「ん? ああ――うちの実家? まあでも親とかきょうだいとか地元にみんないるから」 「そうか。僕んとこはおやじだけだ」  そういえば昴の実家は片親らしい。ずっと前にちらりとそんな話を聞いたことがある。 「神里、女つくんないの?」  唐突に昴がいった。神里は面食らって隣をみた。昴はソファに深く腰をおろし、膝に肘をついて顔を伏せている。 「昴、だるいなら寝ろよ」 「おまえに聞いてんの」  駄々をこねるような口調だった。神里は仕方なく答えた。 「いや……機会がないし、べつにいいかなって……」 「なんで」 「いやほら、そういうのっていろいろ……出会うためになんとかとかつきあったりとか、手続きが面倒というか」 「手続き」昴が笑った。 「僕なんか手続きどころか、書類をもらうのもおっかない」  顔をあげた昴の眼は熱っぽくとろんとしている。ふいにどきっとして、ついで脳裏に先週の夜のことがよみがえった。昴の閉じたまぶたやまつ毛の長さ――神里は思わず腰をもぞもぞさせ、それを隠すようにあわてていった。 「昴、なんか嫌なことがあったらもっと話せよ」  昴は不思議そうな眼つきをする。 「なんで」 「いやその……何年一緒に住んでいると思ってるんだ」  はは、と昴がまた小さく笑った。「法事とセックス以外」  またか。神里は小さくため息をつく。 「気にするなよ」 「おまえは気にしてない?」  逆に問いかけられてまたどきっとした。 「なあ」昴が小さな声でいう。 「僕とおまえ、ちょっと変じゃないか」 「なんで」  神里は反射的に返したが、そのあとに続けた言葉の動機は自分でもよくわからなかった。 「同居するのにセックスが必要ってこともないわけだし」  昴がまた笑った。 「そりゃそうだ」 「それに変でもいいと思うし」 「なんで」 「さびしくないから」  昴は何もいわなかった。恥ずかしい気分に襲われて神里は後悔した。どうしてこんな話をしているんだろう。そのとき昴がぼそっといった。 「もし必要だってことがあるなら、僕はおまえならいい」  とたんにまた思い出してしまった。キスのこと。唇の感触のこと。心臓がどくどくと脈打った。たしかに変だと思った。昴がいったとおりだ。 「あのな、昴」 「僕は童貞だけどな」 「ひっぱるな」  昴は答えなかった。どうしたらいいのかわからなくなって、神里は昴のひたいに手をあてた。 「まだ熱あるんだろう? 寝ろよ」 「そうする」  昴は立ち上がり、黙ってリビングを出て行った。  神里はソファに座ったままテレビの音を聞いていた。昴の食べ残したおかゆがテーブルで冷えている。皿をキッチンに運び、空のペットボトルからラベルを剥がし、流しにちらばったゴミを捨てた。足音を立てないように二階にあがり、昴の部屋をのぞいた。  スタンドの小さな明かりがついたままだった。昴は眠っていた。規則正しい寝息が聞こえる。神里はとじたまぶたをみつめた。やっぱりまつ毛が長い、と思った。そのまましばらく寝顔をみていた。静かな部屋に昴の呼吸だけが響いている。

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