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後日談「ひと匙」

 雨の日曜日だった。  神里はおそい朝食兼昼食兼夕食のおかずのためにキッチンに立っていた。昨夜は遅くまでサンプリングで遊んでいたので起きるのも遅かった。  ゲームで夜更かしした昴も神里と同じころに起きたようだ。洗面所の物音が静まったと思ったらキッチンにやってきて「朝飯?」と聞く。 「あさひるめし」神里はふりむかずに答えた。  窓に雨がざあっと吹きつける。今年は週末のたびに雨が降ったり台風がきたりで、ぱっとしない天候である。となると掃除もやる気にならないし、朝晩はかなり冷えてきたのに、冬仕様に布団を変えるといった作業も面倒くさい。今月のエクセル表で神里は昴にかなり押されている。この分だと来月の肉は神里の支出になりそうだ。 「ふーん」  肯定とも否定ともつかない音のあとに椅子が床を軋る音が響く。昴はここにいるつもりらしい。炊飯器にセットされた白飯はそろそろ炊き上がるころで、味噌汁も完成している。あとは卵を焼けば朝飯兼昼飯には十分なのだが、神里はまな板で野菜を切っていた。じゃがいもとにんじん、玉ねぎと糸こんにゃく。夕食のおかずと明日の弁当用に肉じゃがプロジェクトも同時進行することにしたのだ。  厚手鍋にゴマ油を流し、肉を炒めはじめたとたん、調理台の横にぬっと昴が立った。 「カレー?」 「はずれ。肉じゃが」  神里は鍋に野菜をざらざらと入れる。神里の料理はかなり適当である。最初のうちこそ料理本を買ったりネットで調べたりしたものの、新しいレパートリーに挑戦するのでもないかぎりは味付けもいい加減だ。へらで鍋をかきまわし、もういいかと判断して無造作に砂糖をすくい、投入しようとしたときだった。 「あ、それちがう」  斜めうしろで昴が唐突に声をあげたので、神里はスプーンを落としそうになって、あわてて調味料入れに戻した。 「いきなりなんだよ」  昴はまっすぐ神里をみつめて「いまの砂糖だよな?」という。 「ああ」 「おまえちゃんと計ってないぞ」 「いいんだよ適当で。二杯入れればいいんだ」  昴の眉が不満そうに上がる。いつのまにか昔買った料理本がテーブルに開かれている。神里は昴を無視して砂糖をすくって鍋に入れた。さらにマグカップに注いだ水を入れ、みりんと酒と醤油をだいたい同じくらいじゃじゃじゃっと入れ、だしの素を振った。鍋をかき回しておとしぶた代わりにコーヒーフィルターを裂き、丸い円に組み合わせて上にかぶせてから、鍋に蓋をする。  昴は神里の手つきをじっと眺めていた。なんとなく居心地が悪いが、炊飯器からは蒸気があがっているし、鍋は順当にぶつぶつと音を立てはじめた。神里は昴を無視してもうひとつのコンロにフライパンを乗せた。熱したところにゴマ油を流し――神里は最近ゴマ油に凝っている――卵をふたつ割り入れて、めんつゆと水をじゃじゃっと入れ、蓋をする。卵が半熟にできあがったところで火からおろし、味噌汁の鍋をかける。  いつのまにか昴が黙って炊飯器をあけ、白飯を盛り付けている。味噌汁の椀と卵の皿をテーブルに乗せてから、神里は肉じゃがの様子をみた。じゃがいもがまだ堅かった。  悪くない朝飯兼昼飯である。神里は満足だった。炊き立ての白飯に蒸し焼きにした半熟目玉焼きをのせて食べる以上の幸福は世の中にたくさんあるのかもしれないが、炊き立ての白飯の上で蒸し焼きにした半熟目玉焼きの黄身を崩しているとき、他人の幸福などはどうでもいい。  昴は黙って箸を動かしている。昴は目玉焼きを飯に乗せない派なので、皿のうえで几帳面に黄身と白身を分離させている。昴の目玉焼きの食べ方にはある種の信念を感じさせるところがあり、神里はいつも面白いと思っている。分離させた白身と飯を一緒に食べ、味噌汁を飲み、最後に黄身を一口で食べるのが昴の流儀なのだ。  今日も昴は順番に黄身まで片付けたが、空になった茶碗を置いて神里をみると、おもむろにこういった。 「やっぱりあれはちがうと思う」  コンロでは鍋がコトコトといい音を立てている。そろそろ蓋をとっていいだろう。神里は立ち上がりながら「何が?」と聞いた。 「レシピには大さじ二杯とあったぞ」 「それで?」神里はおとしぶた代わりのコーヒーフィルターを捨て、じゃがいもがほくほくに煮えているのを確かめた。「二杯入れたよ」 「あれじゃ二杯以上だ」  昴が何を指摘しているのか、神里にはいまひとつよくわからなかった。 「でも二杯だぜ? あんなもんだろう?」  今度は昴の方がきょとんとする。 「ふつう匙で計るときって、|す《・》|り《・》|き《・》|り《・》にするんじゃないか」  やっと合点がいって、神里は昴の方をみた。 「あー俺の計りは適当だから」  昴は呆れたような顔をした。 「おまえ理系じゃなかったっけ。神里の『ひと匙』って、ずっとあれだったのか」 「いいじゃないか。料理は芸術だ」  神里はさらに適当な答えをかえしながら、内心で、なるほど昴の思考だと当然のように『ひと匙』はすりきりになるのだな、と妙な感心をしていた。昴らしいといえばこのうえなく昴らしい。しかし、何年同居していても知らないことというのはあるものである。  鍋の中身はいい感じである。玉ねぎは透きとおり、肉の焦げ茶とにんじんの赤とジャガイモの淡い黄色のあいだに糸こんにゃくのぞいている。じゃがいもをひとかけらと糸こんにゃくの小房を皿にとり、いもをスプーンで割って味をみる。悪くない。 「ほらほら、うまいぞ」  昴はテーブルに座ったまま不信感に満ちた眼つきで神里をみていた。俺が作った飯を何度も食ってきたくせに、いまさらこんな顔をしているのかよ、と神里は可笑しくなった。 「昴も味見する?」 「僕はいい」  ふてくされた子供のような口調だ。神里の中にちょっとしたいたずら心が湧いた。味見用に別の小皿に料理をとったが、小皿を渡すかわりにスプーンに割ったじゃがいもを乗せて昴の顔の前に突き出した。 「ほら、あーんして」  昴は氷のような眼つきでみた。 「何があーんだよ」 「いいから」  昴はスプーンと神里を交互にみた。困惑した眼つきだが、神里には面白いだけだ。思わずニヤニヤしてしまう。昴の頭が揺れたが、結局素直に口をあけた。  面白いやつだな、と神里は思う。こだわりが大量にあって、ある点では極端に潔癖なくせに、思いがけないところで押しに弱いのだ、この男は。 「どうだ?」  昴はじゃがいもをゆっくり味わっている。答えなかったが、皿をちらりとみた眼つきで神里は確信した。 「俺の勝ちだな」  昴は眉をしかめ「いや。このポイントは半カウントだ」といった。  家事を分担するエクセル表にはどちらかが飯を作った時――だいたい神里だが――のポイントも計上されるが、これは半分だというのだ。 「なんで」  思わず神里は文句をいった。うまいと顔でいってたくせに、この負けず嫌いが。しかし昴は得意のポーカーフェイスに戻り「僕も味見で協力した」とさらりという。なんだと。 「何いってんだ。俺があーんしろっていわなかったら味見しなかったくせに」 「大の男があーんとかいうなよ。恥ずかしいやつだな」 「何が恥ずかしいだ。昴も口をあけたくせに」  そのとたん昴は途惑ったような、でも悔しそうな、なんともいえない表情になった。ふふん、勝ったぞ、と神里は得意な気分になった。 「俺の『ひと匙』はこれでいいんだ」 「神里、子供っぽいぞ」 「おまえだってうまいと思ったくせに、素直にみとめろ」  ふん、と昴は鼻を鳴らした。「うまかったよ」  

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