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こんなことになるなんて思ってもみなかった。 「は? まさかこのビルに住んでんのか?」 繁華街の雑然とした裏通りに建つ鉄筋コンクリート五階建て、なかなか年季の入った雑居ビル。 扉もなく歩道に直に面する開放的な出入り口。 入ってすぐのところにダイヤル式郵便受けが取り付けられている。 その内の一つのダイヤル番号を合わせ始めた志摩に岬はびっくりした。 「そのまさか、だ」 一階から四階にかけて古着屋や美容室、隠れ家的なカフェバーなどの店舗が入っていた。 エレベーターはなく、味のあるレトロな細い階段を最上階まで上る。 テナント募集中の空室を通り過ぎた突き当たり。 古めかしい押しボタンのチャイム。 暖か味など皆無な重たい鉄扉を開けば、間取りは2DK、最新式から程遠いキッチンに出迎えられた。 トイレと風呂は別々、洋室が並んで二つ。 キッチンと隣接する洋室の壁際には一人用のダイニングセットに書籍の詰まった本棚が設置され、ほぼ中央には応接間の雰囲気を醸し出す革張りの三人掛けソファとガラステーブルが配されていた。 「センセェ、このウチ攻めすぎじゃねぇ?」 ノートパソコンが置かれたガラステーブルに郵便物を下ろすと、羽織っていた薄手のジャケットをソファの背もたれに引っ掛け、洗面所で手洗い・うがいをしてきた志摩は「友人に借りてる」と答えた。 「友人の父親がこの辺一帯の市街地に土地を多く所有する地主で、不動産賃貸業を手広く展開している、ここはその内の一つだ」 「へぇ」 「ずっと昔に居住スペースとしてリノベーションしたそうだが、友人が譲り受けて、その友人から俺が譲り受けた」 「あー、だから古くせぇのか……」 いや、友人の話よりセンセェの話だろ。 「家族団らんが満喫できる自慢のマイホームっぽいだろ」 「どこがだよ、うるせぇし落ち着かねぇし、安眠できねぇわ。どっか別に住んでるとかじゃねぇの? 単身赴任でこっちに来て家族は地元に残してるとか」 「コーヒー、砂糖いるか、牛乳多めか」 「砂糖ゼロ、牛乳ちょっと!」 開け放されている仕切りの引き戸の向こう、キッチンに立った志摩の背中をチラリと見、岬は改めて部屋の中を見回した。 窓を覆うブラインド。 物干しワイヤーに丁寧に吊るされた洗濯物。 ラグ一枚ない剥き出しのフローリング。 そこはかとなく香る住人の匂い。 「……なんで元セフレと会ってたんだよ。正直、向こうはセンセェに未練タラタラに見えたぞ。胸とかぎゅうぎゅう押しつけてたじゃねぇか。アンタだって満更でもなさそうに見えたし、実はセフレ関係復活とか?」 「まさか」 意外なくらいすぐそばで聞こえた返事に岬はどきっとした。 次の瞬間、背後から両腕による拘束、ムードたっぷりなバックハグ……というより、無作法にも胸をがっしり掴まれて吊り目を白黒させた。 「久々の客にコーヒーでも出してやろうかと思ったけど、やめた」 「は?」 「セフレ復活はありえない」 不意討ちの悪戯(あくぎ)に困惑している生徒の平らな胸を制服越しに掌で実感しながら、志摩は、耳元で教えてやる。 「悩み相談だよ。いかにも教師らしいだろ」 「はぁ? 元セフレ相手からの悩み相談のどこか教師らしいんだよ」 「今の恋人が短小でいけないんだと」 「そんな悩み相談あるか!」 「本番同時のバイブ使用を勧めておいた」 「爛れすぎだ!!」 ……志摩センセェってそんなでかいのかよ? インキュバスの血を引いてるから、まぁ、当然っちゃあ当然かもだけどよ……。 「明日からどうする」 唇が耳たぶに触れるか触れないか、ギリギリのところで問いかけてきた志摩に岬はゴクリと喉を鳴らした。 「連休中、耐えられるか。他に慰めてくれる相手なんていないだろ。お前、どうしたい、岬?」 一日中、志摩からのお誘いを期待していた岬は「会いたい」とすぐさま答えそうになった。 しかし瞬時に本音を呑み込んだ。 代わりに担任の鳩尾に肘鉄を喰らわせた。 「ッ……いきなり反抗期ちゃんがえりするな」 「はぐらかすな! 奥さんこどもいねぇのかよ!? どーなんだよ、ちゃんと答えろ!!」 「ウチならいくら大声出してもお巡りさんを呼ばれる心配ないから喚き放題だ、よかったな」 痛みに片頬を歪めながらも拘束を緩めない志摩を、岬は、肩越しにギロリと睨みつけた。 「いないよ、家族なんて」 彼と目が合うなり岬の感情を巣食っていた苛立ちは瞬時に削げ落ちた。 「結婚もしていないし、隠し子もいない。家族なんてどこにもいない」 志摩はそう断言した。 「死んだ魚の目」と常々揶揄される、教室では乾いているはずの双眸。 それが今は眼鏡レンズの向こう側で淡く濡れているように見えた。

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