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絹のようにやわらかく、バターのようにとろけたい①

「シノミヤって、昔の苗字だったんだ。両親が離婚して、転校した後で変わったから確か小四の頃まで。この字じゃなくて、数字の四に宮だったけど……この事、まだ(あおい)に言ってなかったよな」  バターの甘ったるい濃厚な香りを嗅いで幸福感に包まれていたのに、恋人のいきなりの告白に一気に気持ちが削がれてしまった。  (かける)が作ってくれたパスタに視線を落としたまま、しばらく顔を上げることができなかった。いかにも高カロリーな、このチーズとバターとキノコのパスタは簡単でうまいしコストもかからないので同棲する前からよく作ってくれている。  上にちょこんと乗った山吹色の四角い塊が徐々に丸みを帯びてきた。  じわじわと形を無くしていく様を見て思い出す。あの頃の僕も、こんな風に溶けてなくなりたいと思っていたのだ。 「……四宮(しのみや)、翔だったの?」 「うん。変な感じするだろ」 「……しのみや、かける……」 『ここ、篠宮マンションの一階にオープンしたというパン屋の店主にお話を伺いたいと思います』とテレビにテロップ表示されたのがきっかけだった。  夕飯時はだいたいテレビを付けっぱなしにしていて、今も僕たちの横で賑やかな音を立てている。だが何も頭に入ってこない。僕はもう一度口の中で『シノミヤ カケル』と呟いた。  じっと見つめていたパスタの上のバターは今にもその姿を消そうとしている。それが完全に溶け切るまえに、僕は徐に椅子から立ち上がった。   「あの、ちょっと出かけてくる」 「何か買い物? 飯は?」 「僕の分も食べていいよ。先、寝てて」 「は? 急にどうしたんだよ」 「翔、あの」  訝しむ翔の瞳の奥をじっと見つめ、つい口から出そうになってしまった言葉を喉の奥へ押し込んだ。  ――あの時、お前のせいで。  何も言わぬまま、玄関で靴を履きドアを開けた。  翔は何事かといよいよ慌てて腕を掴んでくる。 「腹減ってるっていうからせっかく作ったのに、どうしたんだよ? 俺、何か気に障るようなこと言ったか?」  言ったよ、とは言えなかった。  知りたくなかった。知らなければ良かった。  目の前の大好きな翔と、あの時たくさん憎んだシノミヤ カケルが同一人物だったなんて。 「ううん、何も。なんかパスタの気分じゃなくなったんだ。外で適当に済ませてくるから」  比喩ではなく、僕は部屋から飛び出した。  翔は脚が速いから、このくらい全力で走らないとすぐに追いつかれてしまう。けれど杞憂だったみたいで、振り返ってみても翔は追いかけてきていなかった。  暗い夜道の中、心許なく明かりを放つ自販機の前の縁石に腰掛けて、膝を抱える。  僕は小四の頃、四宮 翔から酷く嫌われていた。  といっても、今思い返せばそこまで酷くなかったのかもしれない。私物を捨てられたり、体に痣ができたなんて事もなかった。  ただ、怖かった。四宮 翔という存在が。  いつも僕を、獰猛な肉食獣のような目で見てきた。話しかけても無視される事もあった。他の子がしたミスは許すのに、僕がする些細なミスは許さない。  この頃の嫌な記憶には蓋をしたので今となっては曖昧だが、確かに翔は二学期の途中で転校をしていた。ほっとしたのも束の間、気づけば僕は学校が楽しくなくなっていた。友人は出来たが、人の顔色を伺うようになってしまって、心の開き方がイマイチ不鮮明。中、高になってもそれは一緒だった。  けれど大学で古川(ふるかわ) 翔と会ってから変わったと思っていた。  その気さくで誰に対しても物怖じしない明るい性格の翔といると、自分までもが明るい人だと思えてくる。翔も好きだし、翔といる自分も好きになった。  ただ一つ、「カケル」という名前だっていうのが心に引っ掛かったけど、名前に罪はない。翔はあいつとは違う。そう思っていたのに――  僕は震える両手で顔を覆う。  やっぱり、知りたくなかった。  けどもう知らなかった自分には戻れない。  周りと同化するようにじわじわと染み溶けてしまったバターは、もう元には戻れないのだ。  そんな昔のこと、水に流せばいい。  頭では分かっているのに、どうしてもあの時のトラウマが消えない。  もし、四宮 翔にあんな扱いを受けていなければ自分の人生は変わっていたのではないのかと弱い自分は思ってしまい、情けなくて涙が出た。  別れようか。  まだ、付き合って半年じゃないか。他に男はいくらでもいる――  

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