翌日。少しまぶたを腫らして出勤してきた逢阪に、店のスタッフ達は遠巻きに触れずにいてくれた。ただひとり、土井を除いては。 「どうしたの、その顔！腫れてるじゃない！」 大騒ぎする土井に、慌てながら田城が飛んできた。 「そっとしてやれよ」 「出来ないわよ！せっかくの可愛い顔が不細工になってんだもの」 褒められてるのか、けなされてるのか分からず逢阪は力無く笑い顔を作った。その顔を見て田城が心配そうにしていた。 「大丈夫？」 「朝起きたら、こんなんなってただけで、どうもしてないよ」 さあ頑張るぞー、といつものように背伸びをしながら工場に向かう。そんな逢阪に田城と土井は首を傾げた。 実際、逢阪は大丈夫ではなかった。昨日帰宅してからというもの、涙が止まらなかった。まるで失恋したかのように、次から次へと涙が流れ、しまいには頭痛がしてベッドに倒れこんだ。失恋したわけではないのに、何故こんなに涙が出るのか。逢阪はそう思いながらも泣き明かした。今朝起きたらこの有様だし、身体は気怠い。よほど休もうかと考えたが一人で家にいる方がまた悪い方へと思考が飛躍してしまいそうなので、結局出勤する事にした。 考えたって、仕方ない事だ。独りよがりのこんな思考は、仕事をしていたら忘れられる。そう逢阪は思いながら、作業に入った。幸いにも今日は作業予定がたくさん入っていたので集中できるはずだ。 （集中したら、いらないことは忘れられる) 作業に集中する。確かに逢阪はそう思いながら手を動かしていたはずだったが… それは突然、起こった。 「調子悪いなあ、何でだろ…」 点検中の車のバッテリーの様子がおかしくて、逢阪は手こずっていた。本来なら数分で済む作業なのに、すでに二十分以上かかってしまっている。端子の先を弄りながら作業していた逢阪。いつもならそんなことはしない、小さなミス。やはり何処かで気持ちが緩んでいたのだろうか。ほんの些細な手順を省いてしまった。 『バチン！！』 嫌なショート音が辺りに響く。目の前で火花が飛んで、逢阪の顔面を直撃したのだ。 「！！」 うわあ、と声にしたかどうか分からない。ただ直ぐ顔面を手で覆った。近くで作業していた他の整備士たちが、ショート音と逢阪の様子に血相変えて駆け寄る。一人が事務所へ駆けて行き、一人が逢阪に声をかける。 「おい、逢阪！！大丈夫か？逢阪あ！」 顔が熱くてたまらない。痛いと言う言葉すら出ない。髪の毛が焦げたような嫌な臭いがする。工場はあっという間に大騒ぎとなり、事務所から営業や土井たちがかけつけていた。 （何だこれ、何が起きたんだ） 痛いのか、熱いのか。今自分はどんな状態なのか。 「逢阪！！」 山本の怒号が遠く聞こえる。ああ、耳もやられたのだろうか。 （やばいなあ、怒られちまう…立たないと…） 顔を覆ったまま、立ち上がろうとして…逢阪はそのままその場に倒れ込んだ。 ＊＊＊ いらないこと考え過ぎたから、ばちが当たったのかなあ。 仕事中に怪我したなんて、遼が知ったらきっと怒るだろうなあ。 呆れるかなあ。もう離れていっちゃうかなあ。 そうだよな、もう俺なんかいらないもんな。 アイツがいるもんな。 そうなったら俺、会社辞めようかなあ… ＊＊＊ 全治十日間の火傷。 幸いにも目には火花が入っておらず、耳の聞こえの悪さも一過性のもの。十日間と言っても真皮の浅い部分のみの火傷だった為、それより早く治るかもしれないとの見解だ。数日間は入院したがその後は自宅待機。入院中には山本と店長が様子を見にきてくれた。山本に至ってはお見舞いというよりも随分と説教を食らい、逢阪は自分のしでかした事に頭をさげるしかなかった。 整備士にとってはちょっとした油断が生死を分ける。それを身を以て知る事となった逢阪は、数日ぶりのコーポに戻った。この頃になると顔を覆っていた包帯が取れて、大きなガーゼを頰に貼り付けしただけ。幸いにも跡が残るようなことにならなかったので安堵した。 入院中、携帯に浅倉からのメールはあったものの、逢阪はそのメールに返信はおろか、見ることもしなかった。色々返信する気力がなく、放っておいたらそのうち浅倉のメールは来なくなった。 （このまま終わるのかなあ…） 少しだけ痛む頰をさすって、逢阪はソファでウトウトし始めた。 （ああそういえば、クリスマスの時はこの部屋に遼が先に帰ってて、ご馳走してくれたっけ…） 自然に涙が出て、ガーゼに染み込んだ。本当はこんな時こそ横にいて欲しかった。もし、転勤がなければきっとうまくいっていたはずなのに。 どうしてこんなことになったんだろう。 （ああ、また俺、ウジウジしてら） 眠りにつく前のフワフワした浮遊感を感じながら眠りに入ろうとした、その時… チャイムが鳴り、ドアを激しく叩く音が聞こえた。時間をみると午後十九時。こんな時間に客なんて、誰だろうか。 ボンヤリとした頭で玄関までいき、ドアをゆっくり開けると外側から勢いよくドアを引っ張られて、逢阪は外に転びそうになった。 「もー、誰…」 顔を上げるとそこには浅倉がいた。 逢阪が驚いて口をあんぐりと開けたまま、浅倉の顔を見る。その顔は怒っている。 無言で逢阪の手を引っ張り朝倉は部屋に入った。 「ちょ、ちょっと遼！」 今日は平日だ。十九時ならまだ仕事中だし、何より浅倉のいる事務所からここまでは百キロもの距離。なのにこの時間にここにいるということは、仕事を投げて来たとしか思えない。それだけに逢阪は目の前の浅倉が本物なのか、夢なのではないか、と一瞬思った。 逢阪をソファへ投げつけると、朝倉はその前に立ち、低い声で聞いた。 「何やってんだ、お前」 明らかに怒気が入った声。逢阪はおずおずとその顔を見上げる。 「あれだけ気を抜くなといってただろう！お前ら整備士は危険と隣り合わせだからって！！」 浅倉の怒鳴り声に思わず、喉がピリッとした。背中を思わず伸ばしてしまう。本気で怒っているのだ。 整備士や営業が業務中に怪我をすると、社内で掲示される。浅倉はきっとそれで逢阪の怪我を知ったのだろう。 「…ごめんなさい」 逢阪は何も言い訳をせずに、素直に謝った。そして浅倉が身を寄せて逢阪をきつく抱きしめた。 「お前が無事でよかった…。お前に何かあったら…」 耳元で囁かれたその言葉に、逢阪の胸が熱くなり、浅倉の身体を抱き返す。そしてそのまましゃくりながら泣いていた。 「ごめん、なさい…俺、心配かけて…」 涙でどんどんガーゼが濡れていく。泣きじゃくる逢阪の頭を浅倉はゆっくりと優しく撫でた。 「もうこれ以上、心配させるなよ。心臓に悪い」 そういって逢阪の顔を覗き込んだ浅倉は、安堵したかのように優しい顔をしていた。そして浅倉が逢阪の頰をさすり、唇を重ねる。 （ああ、やっぱり好きだ） 仕事を投げてここに来てくれた浅倉。心配して怒鳴ってくれた浅倉。 （ええと…俺は何で、諦めようとしたんだっけ…） 今はとりあえず、この優しいキスに集中しよう。 ＊＊＊ 「ほら」 浅倉が淹れてくれたコーヒーを逢阪が受け取る。フンワリとコーヒーの良い香りが鼻孔をくすぐった。浅倉は相変わらずのミルクティーだ。 ありがとう、と受け取りつつも逢阪はあまり浅倉の顔が見れない。きっとメールをほっておいたことを聞かれるだろうな、と。あんなにメールを無視し続けたのだ。何も言わない訳が無い。 「で、連絡してこなかった理由は何」 (ほらきた) 逢阪はおずおずと答える。 「…怒らない？」 「怒らないよ。もう怒ってるから」 「…」 逢阪はコーヒーを一口飲んで、覚悟を決めた。 「遼が、もう俺のこといらないのかなって思ってきて、もうメールする気力がなくてさ」 「…はあ？」 こんな説明では、納得できないのは当たり前だ。浅倉は黙ったまま、逢阪の言葉の続きを待っている。これからいうことを、もし浅倉が否定しなかったら。まだ逢阪の中で疑念が残っている。 「引かないで聞いて欲しいんだけど…遼さ、龍崎店長と仲良いよね」 「何で龍崎が出るんだ」 「…会議終わった後、たまたま見たんだ。仲よさそうに歩いてさ。龍崎、頭いいし人当たりもいいしさ。遼、お気に入りだろ？それに比べて俺は頭悪いし、何もできねえし」 「祐希」 「龍崎もまんざらじゃないみたいだし。アイツ、遼に近付きたいって言ってた。一緒にいたいって…」 「祐希！」 浅倉に強く呼ばれて、ハッとする。浅倉の顔を見ると… なんと、笑っている。 「…何笑ってんの」 そう逢阪が言うと浅倉が抱きついて来た。危うくコーヒーをこぼしそうになって慌てる。 「祐希、ゆーき！」 「あ、あぶねえだろ」 ブツブツ言うのを聞かず、それでも浅倉は逢阪をきつく抱きしめて笑いながら聞く。 「お前まさか、妬いてたの？それで様子おかしかったのか？」 「はあ？俺の様子なんて最近見てねえだろ」 「龍崎んとこに車、持って来てただろ。あの時、何にも言わなかったからさ」 「へ…」 浅倉は気がついていたのだ。後ろ姿しか見ていなかった筈なのに。みんなと同じツナギなのに。ちゃんと見分けて、逢阪だと分かったのだ。 「すぐ分かったよ。分からないわけ、ないだろ。恋人なんだから」 逢阪は自分の顔が赤くなっていくのが分かった。どんだけ自分の事が好きなんだろう、この男は。 こんなに愛されているのに、疑ってしまった自分が恥ずかしい。 今度は逢阪から浅倉に抱きついた。 もう迷わないから、ずっとそばにいて欲しい。 「あと、龍崎はそんなんじゃないから。アイツ、仕事の方法を学びたいってやけに尊敬はしてくれて、よく一緒にいたいとかいってくるけど」 逢阪の頬をさすりながら、浅倉がそう言う。 「え、でも…」 浅倉は迷ったような素振りを見せたが、ため息をついてこう言った。 「アイツの目当ては俺じゃないよ、佐田だ」 佐田は浅倉の同期だ。浅倉に何かと敵対心を持っていて、競り合おうとする。彼が店長止まりなのはパワハラまがいの仕事の進め方をするからだ。当然、店のスタッフたちには嫌われている。一時期、逢阪に優しくしてくれていたのだが、それも浅倉に対する当てつけのようなものだった。そんな評判の悪い佐田を、あの龍崎が…？ 「…本当に？」 「本当も何も、龍崎本人が相談して来たんだ。俺が同期だからって」 だいたい何故、あんな奴が好みなのか分からん、と浅倉。 桁外れに心臓に毛が生えた人間だなあ、と逢阪は驚いた。支店長にそんな相談をすること自体、すごい。 「うちの会社、どんだけ社内恋愛多いんだろうな…」 ポツリと呟いた逢阪の言葉に確かに、と浅倉は笑う。 「遠距離はもう、勘弁だな。…休みにもっと逢おう。元はと言えば、逢わなかったのが今回の原因だもんな」 逢阪の頭をクシャッと撫でてキスをする。そのキスは段々と深いものになっていく。 「先、進んでもいい？退院したばかりだけど」 浅倉の要望に、逢阪は笑いながら答える。 「もちろん！」 久しぶりに肌を重ねた二人は、お互いを強く求めた。あまりに気持ち良すぎて一回目は早々と終わってしまった。リベンジとばかりに始まった二回目。さっきイッたのに、そのまま浅倉が続けようとする。 「ちょ、っと…休ませろ…ッ」 「いやだ。さっきのじゃ満足出来てない」 果てたばかりなのに、浅倉がなお腰を突き出し、逢阪の中にさらに深く入った。 「ふっ…あああ！あ、あ……」 浅倉の身体にしがみつきながら嬌声をあげる逢阪。浅倉のものを包み込んだそこは、毎回新たな快楽を生んでさらに高みへと誘う。 淫らな音と、浅倉の久々のその顔にゾクリとする。 脚を持ち上げられ、奥を突かれ、逢阪は余裕がなくなっていく。 「り、ょお…っ、も、だ、めっ…ああっ」 「ま、だ」 「な…イジワル、すんな…っ」 「長いこと、触れられなかったんだ。ゆっくり楽しもうぜ」 「ヒッ…ああっ…！」 時間を忘れるほど、二人は抱き合った。 ＊＊＊ 結局、浅倉はそのまま逢阪の部屋に泊まった。朝を迎えた時に逢阪は腰の痛みで目が覚めた。 「いってえ…」 「おはよう」 気がつくと、浅倉はもう出かける準備をしていた。これから向こうへ出勤しなければならないのだ。逢阪はまだ自宅での療養なのでベッドでゆっくりしている。 また離れ離れになるのか、と目に見えてしょんぼりした逢阪に近寄って浅倉は額にキスをする。そして、一ついい知らせがある、と言ってきた。 「龍崎の店、エンジニアリーダーが抜けるんだ。それで、アイツが俺に相談して来たんだ。逢阪連れて来てもらえないかって」 「…え…」 「アイツな、山さんに聞いてたらしいぜ。お前の仕事っぷりとか。まあ、山さんも薄々気付いただろうな。龍崎が欲しがってるって。あと、アイツと同い年なんだってな。仲良しが近くにいないから、ぜひ店に来て欲しいって言ってたぜ」 龍崎にそんなに熱望されているなんて、と驚く。そしてエンジニアリーダーとして迎えてくれるならステップアップにもなる。何より龍崎の店に配属になれば、浅倉とも逢いやすくなる。まさに一石二鳥だ。 「まあもう本部に希望だしてるけど？あとは本部次第だな」 職権濫用だな、と逢阪は笑う。浅倉と龍崎のコンビが希望しているなら、本部は逆らえないだろう。山本や田城、土井には悪いけど異動となりそうだ。 「そういえば龍崎に色々バレてると思うよ」 玄関先で浅倉が靴を履きながら、苦笑いして呟いた。 「えっ？何でバレてんの？！」 「メールも電話も繋がらなかった時にさ、龍崎が『明日、逢阪さん退院するみたいですよ』って教えてくれたんだけど」 「だから昨日来てくれたのか」 「どーやらお前の店に電話して聞いたみたいで。その時、土井が出て答えたらしいんだ」 「あ」 最強の腐女子事務員、土井は逢阪と浅倉の関係をほぼ分かっていた。本能で嗅ぎつけたのだ。あまりにも聞いてくるものだから、逢阪は白状したことがある。 「ずばり言われたわけじゃないけど、『仕事してる場合じゃないですよ、逢阪さんのとこに行ってあげてください』とか何とかにやけながら言ってきて…」 「もういい…」 きっと土井も全て言ってはないだろう。そのあたりはキチンとした子のはずだ。ただ、相手が悪かった。 土井の言葉の端々で、勘のいい龍崎はピンと来たのだろう。 逢阪の顔が真っ赤になっていく。恥ずかしくてきっと、次に龍崎に会った時、顔がまともに見れない。こんなに盛大な勘違いをしたこともバレていたら、もう仕事なんて、絶対手につかない。 「…どんな顔して逢えばいいんだよ…」 そんな逢阪の様子を見ながら、浅倉は笑う。 「普通にしてりゃ、いいよ。見せつけよう」 【了】