3 / 11

第3話 道の称号

 その世界は濃淡のある闇色の影でつくられていた。  濃い闇、淡い闇。彼は腕をのばして闇の濃淡をかきわけ、脚にからみつく不気味な何かを払いのける。必要なのは道をさがすこと。不用意にふみだせば唐突に濃淡のない真の闇の淵があらわれ、彼は凍りついたように足をとめる。そろそろと引きさがれば背後から何者かの長い腕がのび、胴を締めつけようとする。剣をふるって薙ぎ払い、自分がほんとうは何をみているのかを疑いながら、また闇の濃淡をまさぐり歩く。ふいに襲ってくる何かを追い払い、切りつけ、打ち払う。  ふと気がつくと凍りついた星の海にいた。  彼は闇と星のあいだに道をさがす。道はぞっとするような闇と冷たい星の光のあいだにぼんやりと浮かびあがる。ふいにおのれの肩の上で不気味な影にみつめられているのを悟る。彼を浸し、喰ってしまおうとする影。彼はふるえ、手の中の剣をたしかめる。本能的に道をさがしながら自分はなぜここにいるのかと自問する。そもそも自分とは何だったのか。  そのときおのれをみつめる影から鎌で切りつけられるような一撃がふりおろされる。躊躇することなく彼の肉体は動いた。自分が何かわからなくとも、襲ってくるものに反応する体はここに存在する。彼はここにいる。  ぴしり、という音が鳴る。裂け目が入るような音、硬いものが砕けるような音。そのたびにおのれの何かが砕かれ、闇と星のあいだに吸いこまれていく。彼の内部から時というものが遠くなる。闇は彼を覆い、染みこみ、迷宮に同化させようとする。だが、どこからか鎌の一撃が舞い降りると、彼は瞬時に闇から浮かび、襲撃を跳ね返す。  凍てつく星のあわいには闇にまぎれて影なる存在が潜んでいる。剣に触れたものを彼は貫き、手に取って引き裂く。闇のあいだに糸のような裂け目があらわれる。裂け目は大きくなり、凍える星の色とはちがう、熱のある光を放ちながら大きく、大きくなり、闇に慣れた彼の眼を焼く。今度の闇は明るい、白い闇だ。彼は混乱して猛り狂い、吠え声をあげる。自身の体に触れたものに跳びかかり、あとを追い、牙をめりこませ、喰らおうとする。  まさにそのとき、いくつかの音のならびが意味をなした。 (ユトゥ)  ユトゥは突然意識を取り戻し、血まみれの両手を見下ろした。  この両手はおのれのものだ。生暖かい何かをつかんでいる。のびた爪が何者かの皮膚をやぶり、赤い雫が指のあいだから滴りおちる。腕も脚もねっとりとした液体に触れている。血は自分の指先が食いこむ皮膚から細い筋になって流れ続けている。 「俺は――」  ユトゥは混乱したまま手の力をゆるめ、自分自身の腕が押さえつけていた細い肉体を抱き上げた。首のまわりに垂れた白金の髪にもべっとりと血がついている。裸体には破れた布の切れ端がわずかにまとわりついているだけだ。 「お気がつかれましたか」  声が投げられ、ユトゥはびくりと顔をあげた。幅広の帯を締めた男と少年がふたり、うやうやしい仕草で膝を折る。 「俺はいったい……」 「あなたは選ばれて迷宮へ遣わされ、悪しきものを打ち払って帰還されたのです。神殿の一同、どれだけ喜んでおりますことか。どうぞ、こちらへ。湯あみの準備をしてございます」 「湯あみ? 待て、彼は」  ユトゥは腕の中の体を抱き上げようとして、自分の体が軽々と動くのに気がついた。身の内にこれまで感じたことのない活力があふれているようだ。ところが腕に抱いた男はぴくりとも動かず、ユトゥの手がずれたとたんにひらいた傷からまた血が流れだす。だが少年たちはユトゥを制するように近づき、ひざまずいた。 「レシェム様はこちらでお世話しますゆえ、どうぞ、湯あみへ」 「レシェム――」  ユトゥは繰り返したが、少年たちは丁重ながらもきっぱりした身振りで白金の髪の男をユトゥから奪い、担架に横たえた。去っていく彼らを呆然とみつめるユトゥに向かって、今度は幅広の帯を締めた男が礼をして、いまいる場所から出るようにうながす。そろりと踏み出した先は石づくりの廊下で、両側の壁にはおぼえのある浮彫がなされている。男はユトゥに進むようにうながし、自身は一歩下がってついてくる。 「まもなく都からお迎えが参ります。ユトゥ、勇者殿」 「――勇者?」 「あなたは迷宮から戻られた。これ以上ふさわしい称号もありますまい」  廊下の先はユトゥの記憶にない場所で、石の床のうえに大きな浴槽が鎮座していた。湯気にまじって清潔な香草の匂いがただよい、さっきの二人組とはちがう少年がぼろ布のようなユトゥの服をはぎとり、暖かい石の上に座らせると、背後からもつれた髪をくしけずった。自分の髪はいつ、これほど長く伸びたのか。鏡の前でユトゥは眼をみはる。べつの男があらわれてユトゥの髪を短く刈り、髭をそった。鏡に映る顔はユトゥ自身が思い描く像からすこしずれていた。頬が痩せ、眼尻と眉におぼえのない皺がある。  ユトゥの髪を刈った男は終わると無言で少年に指図し、二人がかりでユトゥの体を擦りはじめた。はじめ不要だと拒絶しようとしたものの、結局ユトゥは身をまかせた。のびた爪を切られ、全身を磨かれて、やっと浴槽に身をしずめる。あふれそうになった湯の表面に香草が浮きあがる。深く呼吸すると、冬のさなかだというのにどこからか新鮮な花の香りもする。 「ユトゥ様。お着替えはこちらに」  幅広の帯を締めた男があらわれてそういった。 「まもなく都から急使が参ります。あなた様を待ちかねております」  ユトゥにはまだ何が起きているのかわからなかった。自分がどうなったのか、なぜこんな待遇を受けているのか。そして自分が傷つけたにちがいない白金の髪の男はどうなったのか。 「大丈夫なのか?」  思わず問いが口をついて出た。だがユトゥの前にいる男は小首をかしげて「大丈夫とは?」と聞き返す。 「神官についてはご心配にはおよびません。我々神殿の者は、おのおのの役割を果たすのみです」 「俺には何がどうなっているのかさっぱりわからない。あの闇――」 「迷宮の闇はいま、あなた様が抑えた。この国に忍び寄る悪しきものは森からしばし消えうせる。だからこそあなたは勇者なのです」  男はユトゥに質問を許さず立ち去った。用意されていたのは新しいものの見慣れた軍装で、袖を通しながらユトゥはいくらか安堵した。すくなくともここには自分のよく知るものがある。  しかしその安堵もつかの間だった。部屋を出たとたん、都にいるはずのかつての上官から敬礼を向けられたからだ。 「閣下。お迎えにあがりました」  ユトゥは自分が砦へ赴任するきっかけとなった男の顔を無言で見返した。

ともだちにシェアしよう!