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第13話 製剤室
どんよりと椅子に沈んだ慧の頭を、同僚の瀧沢さくらが遠慮なくつついた。目だけ上げた慧に、ため息混じりにさくらは言った。
「もう昼だよ?まだそんな顔してんの?」
「瀧沢さ~ん・・・」
真人に別れを告げられた慧は、午前中の業務をぼんやりとこなすだけで精一杯だった。さくらは慧の腕を無理矢理引っ張り上げた。
「何だか知らないけどさ、お昼ご飯行こうよ。悩みがあるんなら、あたしでよかったら聞くよ~?」
さくらは一つ年上のしっかり者で、いつも慧のミスをさりげなくカバーしてくれる存在だった。慧は、もし自分が異性愛者だったら、さくらの気持ちに気づかないふりをせずに、彼女を受け入れただろうと思ったこともあった。
「最近、萩野くん様子おかしいとは思ってたんだけどさ~、今日は相当ヤバい顔してるよ?」
「そんなにヤバいっすか・・・はは・・・」
「笑い事じゃないよ~ねえ、萩野くんさ・・・悩みって、恋愛でしょ」
「・・・バレてます?」
「バレバレ。女の観察眼をなめちゃいけないよ?」
「ははは・・・」
混み合う職員食堂で、さくらはトマトソースのパスタをフォークに巻き付けながら、慧を上目遣いに見た。
慧はカレーをぐるぐるかき回すだけで、まったく食がすすまなかった。
「それで、言われるままに別れたの?」
「・・・はい・・・」
「何でそこで嫌だって言わなかったの?」
「だって・・・どう考えても俺が悪いし」
「そんなに落ち込むほど悪くないよ。だし、もう萩野くんはそのお姉さんのこと、好きになってるんだから」
慧は、話を女性にすり替えてさくらに説明した。さくらはパスタを飲み込み、水を喉に流し込んだ。そして、減ってないよ、と慧のカレーを指さして言った。
「早めにそのお姉さんにさ、やっぱり好きだって言ったら?手遅れになる前に」
「いやもう手遅れだと思・・・」
「あー!もう!どうしてこう世の男たちはだらしないのかなあ!」
さくらは急に立ち上がり、大きな声を出した。驚いて慧も立ち上がり、さくらの肩を押さえた。
「瀧沢さんっ!声でかいですって!」
どすんと椅子に戻され、さくらはふくれっ面で慧に詰め寄った。
「ほんとにさあ、男って何?よく分かんない生き物だよね。好きなら行けよ!女は男にグイグイ来られるのを待ってんのよ!」
まるで自分のことを言っているような口振りで、さくらは力説した。
慧は、女じゃないし、とさくらに聞こえないように呟いた。次にさくらは、意外な名前を口にした。
「萩野くんは、少しあの人見習いなよ。黒瀬教授」
「は?」
「あの人、何年か前に奥さんと別れてから、相手切らしたことないって噂だよ。考え方によっては、あのくらいガンガン行った方がいいかもしれないじゃない?」
理人の顔が浮かんで、慧は余計に憂鬱になった。黒瀬が離婚していたことは初耳だった。重い気分に黙っていると、さくらは新たな情報を小声で提供した。
「おまけに黒瀬教授って、バイセクシャルなんだってね・・・そうそう、笹本くんが、めっちゃ綺麗な男の人と教授が一緒にいるの、見かけたって言ってたし・・・」
「えっ」
理人と黒瀬のことは誰にも漏らしていないが、本人が隠していなかったのが慧は気にかかった。笹本という同僚が見たのが理人なら、本人の名前が出てもおかしくない。慧は、周りを気にしながらさくらに耳打ちした。
「それって・・・まさかうちの職員じゃないですよね?」
「違うみたい。なんか、モデルみたいな体型で、ロン毛のおしゃれな感じで・・・そうそう、うちの長谷川さんにちょっと似てたって!彼を筋肉質にした感じのいい男だったって・・・」
慧の憂鬱は、巨大な不安に変わった。
「長谷川さん、内線8番、お電話です」
「ありがとう」
その日の終業間際、理人は内線電話を受けた後、調剤部を出て行ったきり戻って来なかった。
業務が終わり、大きく伸びをした慧に、さくらが声をかけた。
「萩野くん、お願いがあるんだけど~」
「え〜、何ですか?」
慧の目の前に鍵の束をぶら下げて、さくらは深々と頭を下げた。
「製剤室の鍵、間違って持って来ちゃった~・・萩野くん、頼めない?」
「・・・施錠して、返してこいと?」
「恋愛相談のったよね?」
「はーい、わかりました・・・」
慧はさくらから鍵を受け取り、しぶしぶ西棟の製剤室へ向かった。エレベーターのボタンを押しながら、以前杉山に医局に呼ばれた日のことを思い出していた。
エレベーターが閉まる直前に、理人を愛おしそうに触れようとした大きな手。一瞬だけ見えた白衣の袖と、輝く高級時計。そしてとろけるような瞳でその手を待っていた理人の横顔。
あれは間違いなく黒瀬の手だったと、慧は思った。
そこに、さくらからの情報が上乗せされる。
(瀧沢さんの言ってた、長谷川さんに似てる男って・・・)
考えても答えの出ないことをぐるぐる考えている内に、慧を乗せたエレベーターは6Fに着いた。
外来が終わる頃には、入院病棟以外の施設は人気がなくなり静まりかえる。製剤室に続く廊下も、慧のほかには誰も居なかった。
鍵が開いたままの製剤室のドアを開けると、奥の部屋の照明だけが付いていた。出したままの椅子を元の位置に戻し、慧は奥に進もうとした。
「・・・んぅっ・・あ・・・」
慧は足を止めた。
金属製の作業台が、ぎっ、と音を立てている。そして、誰かの切ない声が漏れ聞こえてくる。慧は思わず片手で口を塞いだ。
(やばい・・・)
薄く開いた扉一枚隔てて、誰かが愛し合っている気配に、慧は身体を堅くした。戻ろうかどうしようか、と考えているうちに、慧はその声が誰のものか気が付いてしまった。
(長谷川さんの声・・・!)
切なく喘ぐ声は、理人のものだった。おのずと相手は一人に絞られる。
見なくても、黒瀬が理人を愛撫している様が目に浮かび、慧は余計に身動きが取れなくなった。
そろそろと後ろ下がりをしようとして、足が椅子に当たる。
金属のぶつかる音に、ドアの向こうの気配が凍り付くのを慧は感じた。
(見つかる!)
ゆっくりと扉が開く。その影から現れたのは、ワイシャツの前をはだけ、髪も乱れ、ベルトを外したスラックスを腰で履いた、黒瀬だった。中年とは思えない、美しく割れた腹筋が慧の目に飛び込んできた。
白衣は着ていなかった。
「・・・君は確か・・・」
「す・・・すみませんっ・・・かっ鍵を・・し、しめ・・・」
黒瀬の冷ややかな視線に、慧はどもりながら後ずさりした。
「・・・鍵」
「は、はい、あの、でもまた後で来ま・・・」
「萩野くん」
「はいっ!」
急に黒瀬に名前を呼ばれ、慧は飛び上がった。
黒瀬は奥の部屋を親指で指さし、狡猾そうな微笑を浮かべて言った。
「奥の部屋に、誰かが使ったままのキットが散らかってるんだが・・・片づけてもらえないか?」
奥には理人がいるはずだった。黒瀬があえて言っていることは解ったが、慧に断ることは出来なかった。小さくはい、と答えて、重い足取りで慧は黒瀬の横を通り過ぎ、奥の部屋に足を踏み入れた。
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