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第7話(10/16修正)
「やっぱり腫れてきてるかも。痛みませんか?」
「大丈夫ですよ。こんなの、ちょっと冷やせば直ぐに治りますから」
保冷剤をタオルで包み、頬に当てている自分を充輝は覗き込んでくる。
ソファーに座り込んだ二人の距離がさらに縮まり、痛みを感じている余裕が無くなってきた。
リビングにはローテーブルにテレビと最低限の家具しかない。
大変こざっぱりとしていて生活感があまり感じられない。
何というかモデルルームのように映った。
それでも彼の自宅で、しかも二人きりという状況だ。
煩悩まみれの頭が良からぬ妄想を始めようとするのを、必死に食い止める。
こちらの葛藤など知りもしない充輝はなおも気遣うように見つめてくる。
その瞳はとても澄んでいて、さらに居たたまれなくなってしまう。
浅ましい欲を見透かされそうで、俺は堪らず目を逸らした。
「明日、ちゃんと病院に行って下さいね」
「はい。わかりました」
「じゃぁ、飲み物用意しますね。ホットコーヒーでいいですか?」
気を利かせてくれる相手へ「お構いなく」と、せめてもの思いで声を掛けようとした。
ところが、空気の読めない自分の腹はあろうことか、このタイミングで小腹がすいたと間抜けな鳴き声を上げるではないか。
黙ってくれ、と慌てて抑えた腹を見て充輝は噴き出した。
「軽く食べれるもの、作りましょうか」
「いや、今のは何て言うか……決してそんなつもりじゃ……」
「いいんですよ。たいしたものは作れませんけど」
立ち上がり、彼は黒のエプロンを身につける。
ダイニングも一体となったフロアからはキッチンの様子も窺えた。
慣れた様子で冷蔵庫や戸棚を覗き見て、材料を揃え始める。
絶景、だった。
充輝の料理姿を堪能できる日が来るなんて思ってもいなかった。
まるで恋人同士みたいだと、ふと思い浮かんだワードに鼻の下が伸びる。
このままあの世へ旅立ってしまったとしても、悔いはない。
いや、せっかく料理までご馳走になれるのだから、それまでは死んでも死にきれない。
くだらないことを真剣に考え込む。
その合間も、下ごしらえを始めた姿へ目を向けた。
キッチンに立っているだけだというのに、佇まいなのか何なのか、妙に色っぽく見えてうっとりと見惚れてしまう。
すると、熱い視線を感じ取ったのか、充輝と目が合った。
相手はふわりと微笑む。
「テレビでも見て、ゆっくりしてて下さい。直ぐ用意しますから」
「…………は、はい」
頭に残る「テレビ」というワードだけを頼りに、リモコンを探し出してスイッチを入れた。
お笑い番組の最中らしく、芸人が画面の中で騒ぎ倒している。
「いつもこんな時間まで仕事してるんですか?」
のんびりと響く声音とは裏腹に、充輝はテキパキと調理を進めていく。
甲斐甲斐しい姿に自分の眦はだらしなく垂れ下がる一方だ。
「今日は遅番に加えて残業だったんですよ」
「そうだったんですか。スーパーってやっぱり毎日忙しいんですか?」
「いや、日によってまちまちですよ。特売日になれば、ご近所さんが押し掛けてきて大変ですけど、そうでない時はもうさっぱりで。差が激しいですね、結構」
「へぇ。お休みとかちゃんと取れてますか?」
「これからクリスマスとお正月がやって来ますからねぇ。正直、あんまり休めなくなります」
「うわぁ……スーパーで働くのも大変ですね。俺も似たようなところがあって、そういうイベント事っていつも仕事で休みとか取れないんですよね……。……ありがたいことではあるんですけど」
充輝は苦笑いを浮かべる。
自分が商売として書き入れ時なのと同じように、充輝もまた、売り出す時期として絶好の日なのだろう。
けれど彼も心の奥底では、やっぱりクリスマスを友人や恋人と一緒に過ごしたいと思っているのか。
それもそうか。
可愛らしい女の子と充輝の仲睦まじい光景を思い描いて勝手に心寂しくなる。
「なんて、ファンの人の前でこんなこと言っちゃダメですよね」
「いやいや、誰だってそうですよ。充輝さんなんて、そもそも日頃から休みも無いでしょう?」
「うーん……正直に言うと……。仕事があるってだけですごくありがたいことで、感謝しなきゃいけないんですけど、やっぱりちょっと、たまに……」
「ちなみに、今度のお休みっていつなんですか?」
「明日が半日休みなんですよ。それで、次は……えーっと、いつだっけ?」
つまりは思い出せないくらい先だということなのだろうか。
それだけ働き倒しても、飄々と話ができるから感心してしまう。
よっぽど仕事が好きで、おまけに自己犠牲の精神も持っていなければできない生活だ。
自分にはきっと堪えられない。
視線をテレビ画面へ戻すと、ちょうど充輝の出演するコマーシャルが流れていた。
彼がイメージキャラクターを務める新発売のアイスクリームだ。
今や夏よりも冬に売れてしまう商品で、この時期にも新商品が出てくるようになった。
「このアイス、今度うちの店でも大々的に売り場展開するんですよ」
何せ、充輝が広告塔を務めているのだ。
情報を入手した自分は早々に、仕入れの手配を済ませていた。
「そうなんですか? 嬉しいです。それ、お世辞抜きで美味しいですよ。前のヨーグルト味はいまいちだったけど、今度のは本当美味しいです」
「へぇ、俺も早く食べてみたいなぁ」
「よし! すみません。お待たせしました」
「おぉ……!」
ローテーブルに配膳されたのはお茶漬けだった。
この時間の腹を優しく充たしてくれる定番のものだが、えらく豪華に仕上がっている。
陶磁器の茶碗は大きめで、その隣には漬物の乗った小皿も添えられている。
熱いお茶まで揃ったお膳はそれだけで完璧だった。
「料亭とかで出てくるお茶漬けですよ」
「そんなたいそうなものじゃないです。あったのを詰め込んだだけで」
「こんな……これ、俺が食べていいんですか?」
「何言ってるんですか。久保さんのために作ったんですよ。食べてもらわないと困ります」
目を丸くして驚く自分を充輝はおかしいと笑う。
隣に腰を下ろした彼から「どうぞ」と促され、とりあえず「いただきます」と両手を合わせた。
けれど、充輝が自分の為に作ってくれたものだという価値まで合わさると、とてもではないが、手をつけることなんてできない。
「そんなに見てばっかりだと冷めちゃいますよ。お茶漬けはアツアツを掻き込まないと」
急かされてようやく大きめの茶碗を手中に収めた。
お茶漬けと言っても、お茶ではなく出汁を使っているもので、大粒の梅干しの香りとよく合った。
鰹節と海苔と、彩りも綺麗なそれを箸で軽くほぐす。
増して食欲をそそられ、自然と喉を鳴らしてしまう。
「それじゃぁ、すみません。いただきます」
「どうぞ、どうぞ」
湯気の立つお茶漬けを掻き込む。
味はもちろん文句無しだ。
しかしそれよりも、優しくて温かい、このじわりと胸に広がるものは一体何なのだろう。
ふと手作りの料理を食べたのなんていつぶりだろうか、と思い返す。
「…………俺、明日死ぬかも」
「えっ?」
耳に入って来た言葉が意外過ぎたようだ。
ギョっとした充輝が、確かめるように訊き返してくる。
「し、死ぬ……?」
「だって、こんなの……ありえない……」
久し振りに食べた手料理が憧れの人のものだなんて、何がどう転がったらこうなるんだ。
自分の為だけに、彼が料理を作ってくれた。
信じ難い事実を前にして、太腿を何度か抓ってみる。
ちゃんと痛い。
夢ではなく、れっきとした現実だと知らせてくれる。
腹だけでなく心ごと満たされるような満足感だ。
「口に、合わなかったですか……?」
「まさか! すごく美味しいです! 実は……手料理を久しぶりに食べたんで、感動しちゃって」
「え。久保さん、彼女は?」
「いないですよ。もうかれこれ三年くらいは独りかなぁ」
充輝に首っ丈でどうにも彼以外の人へ目を向けることすらできないでいる。
アイドルに本気で恋をする自分が、本人を前にするとかなり痛々しく感じられた。
「意外だなぁ。優しいからモテるでしょう?」
「全然。俺、鈍臭いんですよね」
「あぁ、チャックが全開だったり」
すかさずツッコミを入れられて、例の一件を思い出す羽目に遭った。
「まぁ、そうですね……。そういうところがだらしないっていうか、間抜けでなかなか」
「へぇ、一緒にいて楽しそうだけどなー」
充輝なりに褒めてくれているのだろうが、楽しいの意味合いが少しばかり気になる。
果たしてそれは、純粋に「楽しい」という意味だろうか。
腹も減っていたので、休むことなくどんどん箸を進める。
米粒一つ残さず完食して、茶碗を置いた。
「ご馳走様です。本当に美味しかったです。ありがとうございました」
「大袈裟ですよ。こんなものしか用意できなかったのに」
「そんなことないですよ。充輝さんの手料理ならどんなものでもご馳走です」
すると、充輝の白い頬がやんわりと染まる。
「なんか……久保さんに美味しいって言ってもらえると、嬉しいな……」
「え……」
はにかむ彼はぽつりと呟くと俯いてしまう。
何て可愛らしいことを言ってくれているんだ。
美味しいご飯の後にこのデザートは堪らない。
思わず下品な思考に走ってしまいそうになるのを、寸前で理性に食い止めてもらう。
「今日、久保さんに会えて良かったです」
改めて充輝は礼を述べたけど、精一杯の笑顔だと、今ならわかる。
いつだって、どんなことがあっても変わることなく輝いて見えていた。
それもただの自分の思い込みだった。
全ての事情を知った訳ではないものの、笑顔の裏に隠そうとする苦しみに、今はちゃんと気付くことができた。
先程の、夜道での出来事を思い出す。
「さっきの、あの男のことなんですけど……」
トーンを下げて言葉を噛み締める。
充輝も言わんとしてることを理解して口を噤んだ。
そして、彼は寂しそうに微笑んだ。
「さっきの、ああいうファンの人ってたまにいるんですよね。ちょっと熱烈で困っちゃいますけど」
あの男をファンだと告げる充輝に、複雑な思いだった。
自分も充輝に対して邪な想いを抱いている「イタい人」だが、あんな奴と自分を同じカテゴリーに入れないで欲しい。
「ずっと後をつけられてたんですか?」
「今朝、ロケ先にいたんですよね。スタッフさんと口論になっているのは見たんですけど、詳しいことはよくわからなくて……。それからもう半日以上経ってるのに、駅でまた見かけたんですよね……。一駅だけだからって電車を使ったのがダメだったのかな」
「そうだったんですか……。あの男にはどんなことを?」
「何かをされたってことはないんです。ただスタジオとかロケ現場でよく見るなぁって思ってたら、家の前でも待ち伏せされるようになっちゃって」
「家って、それマズいんじゃぁ……」
「あぁ、ここは大丈夫です。仮住まいしてるんですよ、今」
自衛のために引っ越しすることを決めた彼は新居を探す間、自宅には戻らず、こういった所で寝泊まりしているのだという。
元より家には帰れず、ホテルに宿泊することの方が多いそうだ。
先日無事引っ越し先が見つかり、今はタイミングを見計らっているらしい。
よくよく考えれば、中心部からも離れたこんな辺鄙な所に芸能人が住んでいる訳がない。
何とも恥ずかしい発言をしてしまったと口を噤むと、相手は話を続けた。
「待ち伏せされることはあっても、声を掛けられたり、何かされるってことは無かったんです。ただじっとこっちを見てきて、何かボソボソ独り言を言ってるだけだったんで、俺自身、そこまで気にしてなかったんです。でもマネージャーは心配性だから、『何かあってからじゃ遅い』って極力一緒に行動してくれてて。ただ、それもやっぱり限界があるんですよね」
それが先程の一件ということか。
四六時中、誰かが傍についているという防ぎ方では確かに限界がある。
「そういうのって警察とかに相談しないんですか?」
「マネージャーにもそう言われたんですけど、被害を被った訳でもないし、一応……ファンの人でもあるだろうし、できるだけそこは避けたくて」
「………………」
お人好しだと言われているし、自分もそう思っていたけど、まさかこんなところでもそれが発揮されるとは思ってもいなかった。
根が優し過ぎるというか、それとこれはまた別の話だろう。
呆気にとられているこちらを見て、充輝が苦く笑った。
「マネージャーと同じ顔してる。やっぱりバカだなぁって思いますよね」
「あぁ……いや……まぁ…………はい」
流石に彼を庇い切れなかった。
現に危ない目に遭っている姿を見ているので、認識が甘かったとしか思えない。
「駅で相手を見つけた時、『どうせ後をついてくるだけだろう』って高を括ってたんです。そしたら、人がいなくなったところで急に路地裏に引っ張られたんです。……掴んできた手がびっくりするくらい強かったから、それだけで頭も真っ白になっちゃって……ちょっと怖かったんですよね……情けないなぁ……」
怯えきった充輝の様子を思い返す。
彼も目を伏せ、同じように思い返しているのか、自分の手の平を見つめている。
微かにだけど震えているように見えて、俺は思わず自分の手をそこに重ねた。
「そういう目に遭って怖いと感じるのに、男も女も関係ないですよ。怖いものは怖いんですから。充輝さんが無事で本当に良かったです。俺も残業した甲斐がありました」
にっこりと笑ってみせ、無事であることが何よりも大事だと伝えた。
充輝は胸を撫で下ろし、全身の力を抜いた。
その視線が再び手元へと落ちて、握ったままの俺の手を見た。
慌てて離した手を、今度は充輝が追い掛けて掴んでくる。
「久保さん……っ」
「はいっ……」
何やら思い詰めた表情をしているのも大変気になるが、握られた手の方にも意識が向いてしまう。
両手で包み込む白い手は骨張っているのにやっぱり柔らかい。
「久保さんは、俺のファン、なんですよね……」
「はい。ファンです……」
「それは、やっぱりアイドルとしての『長谷川充輝』が好きってことですか……?」
「えぇーっと……」
彼が何を言わんとしているのか汲み取れなくて、首を傾げる。
そんな俺に充輝は切羽詰まって様子で訊いてきた。
「一人の男として、俺のことを好きになってもらえませんか?」
「あー……っと、それは……どういう……?」
何を言われているのかはわかった。
でも、それが理解できるかと言われると、別問題だ。
傾げた首がいよいよ直角に曲がってしまいそうだ。
だって「好きになってもらえないか」と言っているんだぞ。
アイドルがファンに向かって。
「俺……実は、男の人が好きなんです。それで……久保さんのこと……ずっと気になってて……」
曲がっていた首が無事元に戻った代わりに、今度は思考が停止してしまった。
許容量をオーバーしたような、そんな感覚だった。
「もし、少しでも好きになってもらえる可能性があるなら……」
「………………」
人間、本当に驚いてしまうと声も何も出なくなってしまうものらしい。
そして相手もまた必死過ぎるあまり、こちらの異変もまるで見えていないようだった。
「あっ。もちろん今すぐにどうこうって訳じゃなくて、とりあえず連絡先とか、交換してもらえたらなぁって……」
それに対して自分が何と返事したのか覚えていない。
記憶があるのはここまでだった。
そこからどうやって彼の家を後にし、自宅へ帰ってきたのかも覚えていない。
次に意識が戻ったのは翌日の、ちょうど日の出頃だった。
スーツ姿のまま、放心状態でベッドに座っていた。
スマートフォンを握ったままでいることに気付いて、真っ黒の画面を点灯させる。
そこには充輝の名前でメッセージが届いていて、昨日の礼について書かれていた。
「連絡先、交換したのか…………」
カーテンも開けっ放しの窓から眩しいほどの陽の光がゆっくりと降り注いでくる。
そんな中で、俺は他人事のようにそう呟いた。
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