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第6話
「一体どこに需要があって、こんな夜中まで店を開けてなけきゃいけないんだろうなぁ」
「久保さんがそれを言っちゃいけませんよー」
アルバイトの女の子に宥められる。
閉店の深夜十二時まで残り十五分だ。
ついに店内からお客さんの姿が消えた。
住宅街という立地上、客層の主体は主婦となる。
一概には言えないが、現に今のような状況は少なくない。
こんな時間まで店を開けておく必要性が果たして本当にあるのか。
働き方改革が謳われている時代、もっと効率的なやり方があるような気がしてならない。
ただ、自分の意見は日頃から冗談ばかりを口にしているせいか、真面目に聞いてもらえない。
寂しいことだ。
「斎藤はまだ片付けやってるの?」
「今、廃棄を捨てに行ってくれてます。もうそろそろ戻ってくると思いますよ」
「そう。じゃぁ、三木ちゃんも定時になったら直ぐ上がってね。気を付けて帰るんだぞ」
「はぁい」
売り場で商品の整頓をしていた彼女は今年で二十歳の女子大生だ。
一回りも違う女の子ともなると、親御さんのような気持ちになってしまい、気を付けるように念を押してしまう。
雇い主としてはこんな時間まで働いてくれて有り難いけれど、昨今の性犯罪のニュースを目にする度、個人的に心配は募ってしまう。
ただ、いささかこちらの気持ちは鬱陶しいようで、聞き流されるのが常だった。
静まり返った店内に流れるBGMも心なしか大人しく聞こえる。
残業していたこともあって、今日は特に長い一日だった。
閉店へと向かうにつれ、張っていた気も抜けていく。
事務所へ戻り、身支度を整えて従業員用の通用口から外へ出た。
自宅までは徒歩で十五分ほどの道のりだ。
日中も随分と肌寒く感じられるようになったが、夜になると空気はめっきり冷たい。
見上げた空は雲に覆われているせいで、月も星も見えず真っ黒だ。
不意に木枯らしが吹き抜けて、堪らず身を縮こませる。
充輝と初めて会ったのは蒸し暑い、夏も真っ盛りの日だったな。
ふとした瞬間、つい充輝のことを考えてしまう。
街中で声を掛けた日のことだったり、スーパーで思いがけず再会した日のことを、まるで昨日のことのように思い返しては溜め息をつく。
『また久保さんに会いに来ます』
いい歳をした男が、二十歳の男の子の社交辞令を頭の片隅で反芻する。
自分で思っているよりも、もっとずっと恥ずかしいくらいに期待している。
そのことに気付かされる度、虚しくて泣けてくる。
「…………何やってんだろ」
静まり返った夜道で独り言ちる。
声にすると空虚さはさらに募って、吐き出そうと盛大に吐息する。
そこへ音が微かに響いた。
徐々に大きくなっていくそれは人が駆けているようだ。
人数は複数だろうか。
そう思った時、突然腕を掴まれた。
「すみません! 助けて下さい……っ」
抱きつくように縋ってきた相手の切羽詰まった様子に少し怖気づく。
何事だろう。
若い男の子のようだと外見で察していると、キャップを被った彼がこちらを見上げた。
「お願いします……っ」
「……え。充輝、さん?」
「あ、久保さん……」
まさかの再会に驚く間もなく、さらに男が一人現れた。
自分よりも一回りくらい年上だ。
ひょろりと芯の無さそうな軟弱な体型に、着古したジャケットとジーンズでさらに陰気臭さを放っている。
ショルダーバッグを提げ、息を切らした相手は肩を大きく上下させた。
薄らと笑みを浮かべると、気味の悪い雰囲気を存分に醸し出す。
「に、逃げること、ないじゃないか。少し話を、したいだけなのに」
充輝は男を振り返る。
「すみません。ちょっとしつこくて……」
困惑した表情は強張ってしまっている。
相手が一歩距離を縮めると、充輝はその分後退る。
男に追いかけられているという状況は一目瞭然で、自分は直ぐに彼を庇うために前へ出た。
ここでようやく俺も視界に入ったのだろう。
男の眼差しがこちらに向く。
眉間に皺を寄せ、「誰だ、お前は」と不快感を露わにした。
「ちょっと話がしたいからって、追い回しちゃ駄目でしょう」
軽い口調が癇に障ったのかもしれない。
相手の理性はそれだけで切れてしまった。
そもそも理性なんてものをこの男が持っていたのか、それすらも怪しいところだけど。
「何だよ、お前! そこ、どけよ! 俺は充輝に話があるんだ!」
馴れ馴れしく充輝なんて口にして。
そんな嫌悪感が不意に沸く。
ちらりと背後を見遣ると、充輝は表情を曇らせ、唇を引き結ぶ。
「彼は話したくないって言ってるんです。わからないんですか?」
「何でだよ! 俺に断りもなく勝手にいなくなった充輝が悪いんだろ! 悪いのは全部充輝じゃないか! 今日だってせっかく会いに行ったのに、警察呼ばれそうになって大変な目に遭うところだったんだぞ! 酷いじゃないか!」
予想以上の危険人物だった。
事態を大まかにだけれど把握する。
要するにストーカーという奴か。
叫んでいる内にさらに興奮したらしい。
ずかずかと地響きを立てんばかりに相手は近づいてきた。
立ち塞がった俺を力任せに押しのけようとする。
「ちょっ、やめろっ、て」
「どけよ! 邪魔なんだよ! 充輝っ、充輝! 何で逃げるんだよ!」
手を伸ばし、相手は叫び続ける。
男の視界に充輝がいる限り、この興奮は治まりそうにない。
何とか抑え込んでいる間に、彼にこの場から逃げるよう指示しようとした。
ところが振り返ってみると、ほんの数歩離れた所で充輝は立ち尽くしていた。
恐怖心から足を動かせないでいるのだろう。
顔は青ざめ、怯えきった彼と目が合う。
震える唇は懸命に言葉を発しようとしていた。
あまりにも痛々しい姿に、男を抑え込む腕に力が入った。
店で会った時の、優しい彼の笑顔を思い出す。
あの表情の裏で、彼をこんなにも追い詰めている奴がいたなんて。
呑気に笑いかけていた自分が心底腹立たしい。
ふつふつと湧き上がる怒りが誰に対してのものなのか、よくわからなくなってきた。
「愛してるって充輝も言ってくれたじゃないか! 離せよ! 俺が何したって言うんだよ!」
なりふり構わない相手は喚き、仕舞いに揉み合いになる。
もがく男を押さえつけようとした腕を叩き落されて、次いで拳が飛んできた。
それに気付いた時にはもう遅く、左頬に鈍痛が走る。
背後から上擦った声を聞く。
「久保さん……っ!」
「…………お前。いい加減にしろよ……っ」
低く、声を絞り出す。
人の胸ぐらを掴んだのは生きてきた中でこれが初めてだった。
「話したくないって、言ってるんだよ。わかるよな……?」
よっぽど恐ろしい顔でもしていたのか、男は途端に居竦まる。
戦慄く口元から引きつった声を聞いて我に返った。
自分のしたことに驚いて手を離した隙に、相手は一目散に逃げてしまう。
自分の右手を見つめる。
基本的に能天気な気性だから、あんな暴挙に出たことなど今まで一度たりとも無かった。
そのせいで、情けなくもその手は微かに震えていた。
はっきりと怒気を含んだ、自分のものとは思えない声音が耳の奥で反芻している。
「久保さん、大丈夫ですか?」
充輝はいつの間にか落としてしまっていた鞄を拾ってくれていた。
今にも泣き出しそうなくらい、可愛らしい顔は悲痛に歪んでしまっている。
俺のことを心配してくれるのは嬉しいけれど、そんな顔をしてもらいたくない。
「大丈夫ですよ。人の胸ぐらなんて今まで掴んだことなくて、自分で自分にびっくりしちゃいました。おかげでほら、右手なんて震えてるし。恥ずかしいなぁ」
「久保さん……」
安心してもらいたくて笑いかけたのに、相手は不安の色をさらに濃くする。
「そんなことより、充輝さんは怪我とかしてないですか?」
「俺は全然。でも、久保さん……頬が……」
言われて痛み出した左頬を、彼は撫ぜた。
充輝の指が自分に触れている。
こんな状況でさえも、邪な方向にばかり頭は働いてしまう。
俺は緊張で身を固まらせた。
「痛みますか?」
「いえ、全然大丈夫です。本当に大丈夫ですから」
本当だった。
触ってもらったところの痛みが綺麗に消えてしまうのだ。
このままずっと撫でてもらえれば、その内に治ってしまうにちがいない。
「……。あの、うちに来ませんか。すぐそこのマンションなんです」
彼が移した視線の先に、真新しいマンションが一棟建っている。
一年前に完成ばかりのウィークリーマンションだ。
「直ぐに手当てしないと、腫れたりしたら大変だし」
「手当……? 充輝さんの家で……? お、俺が……ですか?」
予想外の展開に頭が追いつかない。
偶然の再会の先に、まさか、こんなチャンスと巡り合うことができるなんて。
今、この瞬間、自分は一生分の運を使い果たしてしまった。
生唾を飲み込み、もう一度事態の確認をする。
「充輝さんの、家に、お邪魔して、いいんですか?」
「はい」
充輝は優しく頷いてくれたが、自分は嬉しさのあまり下心丸出しで頷き返してしまった。
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