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複雑なお客

「こんにちはぁ」  ちりん、とドアのベルが鳴った。明るい声が入ってくる。  皮肉なことに、この日もよく晴れた良い陽気の日になった。  日曜の午後だった。ランチタイムの終わり頃だったのでお客は減りつつあった頃。そのくらいの時間が少し空いていると伝えたので、そのとおりにきてくれたのだ。  游太にとってはまったく『来てくれた』なんて良い感情ではなかったが、仕方がない。 「ああ、いらっしゃい」  迎えに出たのは弘樹だった。まぁ当然かもしれないが。  游太は店内のホールからそれを見た。 「こんにちは」  春香のあとから背の高い男性が入ってきた。髪を短く刈り込んだ、スポーツマンを思わせるタイプ。  なんの仕事をしているだとか、そういうことは知らない。聞く必要もないと思う。日曜が休みというので普通のサラリーマンっぽいな、と推測するくらいであった。 「はじめまして。新谷さんの大学同期の相沢です」  弘樹が挨拶するのが見えて、游太はちょっとためらったものの、自分も近付いていった。  堀川とやらが游太を見た。その視線のとおりに弘樹が游太を示した。 「俺と同じで同期の瀬戸内です。今は一緒にこの店をやってます」  紹介は端的で無難だった。まさか『同性婚をしているパートナーです』などと言うはずはない。  けれど今ばかりはそう言ってほしかった、と無理であることを游太は思ってしまう。 「そうですか。今日はお邪魔致しまして」  堀川のそれから会話がはじまりそうになったが、入り口で立ち話もなんである。弘樹が「どうぞ、お席へ」と言って、堀川と春香は奥の席へ入っていった。 「綺麗ねー、菜の花? お花畑みたい」  きょろきょろと店内装飾を見回して春香が言う。はしゃいだ声だった。  普段なら褒められて嬉しいところだが、相手が相手である。游太は「そう?ありがと」とだけ言った。なるべく感情を押し殺しつつ。  弘樹が続けてくれた。 「店内装飾のほとんどはユウがやってくれてるんだよ」 「そうなんだー、昔から器用だったもんね。あ、ユウっていうのは瀬戸内くんのことでね、相沢くんたちは仲がいいからニックネームで……」  弘樹の言葉を受け止めたあと、春香は堀川に向かって説明している。堀川は楽しそうにそれを聞いていた。  そのようななんでもない会話が続いて、「じゃあ私はケーキセットで」「俺はコーヒーをお願いします」ということになった。  「ごゆっくり」と、弘樹と二人でキッチンへ戻り、仕事に取りかかる。  用意しているサーバーとドリッパーに手を伸ばして、豆を……。  そこで弘樹が小声で言った。 「大丈夫?」  それは気遣うような声と言葉、そして気持ちだったに決まっている。  しかし何故か游太の気持ちは逆に振れてしまった。  つまり、苛立ち。  どうしてこんな気持ちになったのかわからなかった。弘樹が気遣ってくれたのに。  自分に戸惑ったものの、この感情を出すわけにはいかない。腹の奥まで飲み込んで、笑ってみせた。 「うん? 別に」  笑ってみせた、けれど。  游太が心から笑っているはずがないと弘樹だってわかっているはず。やはり困ったように笑った。  その表情も、本当に何故だろう、游太の心を掻き乱した。 「ほら、ケーキだろ」 「うん。じゃ、コーヒー二杯、頼むな」  弘樹を仕事に追いやるようなことを言ってしまった。そう広くないキッチンであるとはいえ、弘樹が少し離れたことで、游太は小さくため息をついた。  ただし、心の中で。  とりあえずこの気持ちの悪い時間が早く終わってほしくて仕方がなかった。別に何時間も続くわけではあるまいが。体感的にはつらい時間になるに決まっていた。  ドリッパーにお湯を注いで、豆からコーヒーが抽出されて、ふんわり良い香りが漂ってもなにも変わらなかった。普段ならくさくさした気持ちをかき消してくれる香りなのに。  日常のそういう苛立ちや嫌な気持ちとは比にならないほど、心が荒れそうになっていること、そしてそれをなんとか押し殺していることを、なんの助けにもなってくれないコーヒーの香りは示していた。  きっと出来上がったコーヒーは酷い出来になってしまっただろう。  勿論、不味いわけはない。お客に出せないレベルではない。  酷い出来というのは、游太の心情的に、だ。納得できる出来とは程遠い。けれど出さないわけにはいかないから。  春香と堀川の前になんとか出して、「いい香りー!」と喜んでくれた春香の声に責められているような気持ちを感じて、今度こそはっきり、ずきっと胸が痛んでしまった。

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