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第15話 新たな一歩

 祥と暖雅がツガイになってから2ヶ月が過ぎた。  暖雅は父・ラルフに連れられてドイツへ飛んでいた。  祥の父・啓司も同じ便でドイツに戻ったので、とても静かで穏やかな日常が戻ってきていた。  動物病院には相変わらず嬉しくない患畜が多く訪れる。だが、それも今日が最後だった。 「祥様、動物病院を閉めます」 「あぁ、頼む」  疲労の色が濃い表情のまま、白衣姿で休憩室の椅子に座り込む。従路が心配そうな顔になる。 「祥様、お食事はいかがなさいますか?」 「……要らない。水を飲むのも辛いんだ」 「水だけは摂るようになさってください。体に障ります」  従路が眉根をさげながら言った。 「そのお体で長時間のフライトは難しいかと」 「……」 「やはり容態が落ち着くまで日本に留まられた方がよろしいかと思います」 「……」 「龍福様にご連絡申し上げて、スケジュールを変更していただきましょう」 「……いや、でも……」 「ご事情も説明いたします」 「ちょ、ちょっと、それは……」  少しやつれた顔で口籠もった。 「し、知らせると面倒なことにならないか?」 「妊娠したことは早くお知らせした方がいいですよ。龍福様もラルフ様も啓司様も華耶様も喜ばれるに違いありません」 「……喜ぶ? 私は……こんなに辛いのに?」 「つわりですから時間が経てば必ず治まります。もうしばらくの辛抱です」  ヨロヨロと立ち上がると従路に支えられながら自室を目指した。  暖雅やラルフ、両親に身籠もったと話すのは気恥ずかしい。  オメガを診る病院で妊娠診断されて2週間になるが、従路以外、誰にも話していなかった。 「この従路も大変嬉しゅうございます」  ゆっくりと歩きながら従路が笑顔を零して言った。 「この従路。祥様を我が子のように、そして孫のように思いお仕えさせていただきましたが、僭越ながらオメガということが分かって以降、将来が不安でございました」 「心配かけてすまなかったな」 「とんでもございません。ですが、安堵致しました。素敵な方と出会え、そしてお子を授かったのですから」  動物病院から自宅に続く廊下を歩きながら従路が笑う。 「おめでとうございます。お生まれになる方は龍福様に似れば力強く優しい方に。祥様に似れば、美しく聡明なお子様になりましょう」  やっとの思いでリビングに辿り着き、ソファに座りながらポツリと呟いた。 「子どもができることは、こんなに喜ばれることなのか」  従路は満面の笑みを浮かべている。  それに触発され、スマホを取ってメールを打ち始めた。 「従路、退職金を渡すのを先に延ばしていいか? 体調が落ち着くまで側に居て欲しい」 「承知いたしました。では、フライトキャンセルの手続きをしておきます」 「頼む。暖雅には私から連絡しておく」  左手でメールを打ちながら無意識のうちに右手でお腹を撫でていた。 「諸事情あってフライトを先延ばしにする」  文面はそれだけだ。  送信ボタンを押した後、フフッと笑ってしまった。  メールを見た時の暖雅の顔を想像するとおかしくて堪らない。  今、自分が何も食べられず、飲むことも困難で、一日中寝ても覚めても胸焼けや胃のむかつきが止まらないという苦しい思いをしているのだから少しくらい八つ当たりしてもいいだろう。そんな風に考えていた。 「サイレントマナーにしておこう」  ククッと笑ってからスマホを充電器の上に置いた。そしてソファに横たわる。 「それでは祥様、失礼致します。また明日、朝6時に参りますので」  お粥や酢の物、リンゴなどをテーブルに並べた従路が帰って行く。  その背中を見送っていると、廊下の向こうから従路が言った。 「龍福様に八つ当たりするのは、ほどほどになさってください。……私のところに状況確認の連絡が来ます」  一礼してから帰って行く従路に生返事をしてから、目を閉じた。  妊娠を伝えたら暖雅はどんな顔をするだろう。八ヶ月後、子どもを腕に抱いたらどんな反応をするのだろう。  その前に、身重で飛行機に乗ることに対する賛否や、日本とドイツのどちらで出産するのかなど、ドイツで喧々囂々、まとまらない議論が紛糾するに違いない。 「さぁ、どうしたものか」  面倒そうにぼやいたものの、贅沢な悩みだった。  祥はこれから先のことを考えながらお腹を撫で、一人でフフッと笑った。  もうすぐ桜が咲く。  それを見に行くことはできるだろうか。もし、暖雅がこちらに戻ってこなかったら写真くらい撮って送ってやろう。  来年は三人で花見ができる――。  そう思うと気持ち悪さも少しだけ楽になる気がした。  この数日後「昏睡状態のアルファが二人、同日同時刻に覚醒」という奇妙な記事が週刊誌に掲載された。  従路に教えてもらった祥は、安堵の表情を浮かべ、心置きなく暖雅のツガイとなることができたのだった。 ―了―

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