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第21話 ピアノ・ソナタ
二人が再び生きていこうと誓ってから、幾つの季節が巡ったことだろう。
世間一般からすれば普通というものとはかけ離れていただろうが、それでも自分たちにとってはささやかでありふれた毎日があって、それは積み重なって歳月とも呼べるモニュメントを作っていた。共に笑い、泣き、またある時はぶつかり、そして愛し合い。
「トロイメライ」に大きな花篭が届いたのは、そろそろ梅雨になろうかという日の夕方だった。季節柄の大ぶりな花に溢れたバスケットをカウンタの隅に飾ると、青木雄介は「さすが。」と呟いた。
「さすが、支配人の趣味だよね。華やかな大ぶりの花がたくさん。」
「アイツもまた随分改まった真似をするな。」
細いメントールの煙草を手に、瀬島薫が照れたような困ったような顔をした。
「いいじゃないですか。だって、やっぱり嬉しいんですよ。親友が直木賞作家になったなんて。きっと、この花のお礼が聞きたくて店に来るんじゃないですか、今夜辺り。」
歌舞伎町の高級ホストクラブ「ニュー椿」のナンバーワンホストだった瀬島薫は、念願の借金完済を遂げるとあっさりと引退してしまった。顧客マダム達の餞別は破格で、それと雄介の貯金をあわせて四谷に程近いところに小さな店舗兼住宅を買って、バー「トロイメライ」を開き、青木雄介をマスターとして引き抜いた。フロアには出ないけれど売れっ子バーテンだった青木雄介が辞めることについて、支配人である鍔木修一はあっさりと承諾してくれた。
「引き止めたいのはやまやまだけれど、やっぱりダンナの傍がいいだろう。」
その頃には雄介と共にカウンタに入っていた見習バーテンの津上翔一も一人前になって、マダムのファンも掴みつつあったから、代替わりとしてうってつけだったのだろう。
思い出の詰まった大久保のアパートから引越した荷物は決して多くはなかったが、新しくそろえたものが二つあった。
二人が愛を営むベッドと、そしてピアノだった。
「え、カオルさんピアノ弾くの?格好イイ~。」
第一印象が「カタブツ」だった瀬島にこんな趣味があったことを雄介は意外に思ったが、アップライトのピアノを買って店の片隅に置くとぐんとバーの雰囲気がらしくなったと喜んだ。
時折、瀬島が店で弾くピアノ。雄介は聴いたこともないクラッシックだったり、お客がいるとイージーリスニング系の曲が多かったが、カウンタのスツールからすっと立ち上がってピアノの蓋を開けると、雄介はシェーカーを振る手も止めてワクワクしていた。たとえて言うなら、そう、自分の服をそっと脱がせる時のような感覚。ウィスキーと、雄介のカクテルしかない店はこじんまりとしていたけれど、二人が暮らしていくには不足はなかった。
カラン、とドアベルの音がした。
「ほらほら、俺の言った通りだったでしょう?」
店に入ってきた鍔木を見て、雄介は瀬島ににっこり微笑みかけた。
「なんだよ、俺も雄介に行動読まれるようになっちゃったか。」
鍔木は傘を店のそとでぶんぶんと振ると「スコッチをダブルで。」と言ってカウンタに座った。
「どうだ、先生。」
「先生は止せよ。・・・自分としては、何も変わっていないのだがな。」
雄介が店を切り盛りし、「髪結いの亭主」然としては何だからと瀬島は以前からの翻訳の仕事を受けていたが、その合間を縫って書いた小説「ノクターン」が直木賞を受賞した。容姿もさることながら、小説が自分のホスト時代の話をベースにしていたこともあり、いわば「時の人」となっていた。
「すまない、店の話少し書いちまって。」
「おかげで”ノクターン“のモデルになった店とかでうちも評判いいのよ。悪いな、引退後まで世話かけちゃって。」
「広告料もらおうか、だったら。」
「売れっ子作家先生が何をおっしゃる。」
3人で屈託なく笑ったが、瀬島は鍔木の様子に気づいていた。
「ジュンのところに、行ったのか?」
「ああ。夜の仕事長いと、まぁいろいろ腹にたまるわけよ。でさ、あいつに聞いてもらっているんだ。つくづく思うが、腹を割って話せるのは後にも先にもジュンなのだろうな。まして今のジュンは言い返してこないから、ラクだよ。」
「鍔木・・・。」
鮫島潤一は、3年前に他界していた。
先天性の病気という爆弾を抱えて健康管理には人一倍気を使っていた鮫島だったが、ついに病魔には勝てなかった。最期に彼を看取ったのは、鍔木だった。
「いいんだ。最期を看てやれたし、俺なりに精一杯看病した。だから。」
「新しい恋はしないのか?」
「まだ俺吹っ切れないよ。案外だらしないだろ?」
「ジョージさんはどうですか?」
「アイツはノンケだから、ダメだって。でも、一番辛いのはジョージだからな、たまには一緒に飲んでいるよ。」
兄であるジュンが組を継がないでホストをしていたこと・・・絵の勉強がしたいという夢があるからと周りには話していたが、実のところは自分の身体に巣食う病魔を知っていたからだと後になってジョージから聞かされた。それだけに、ジョージとしては負い目があり、ジュンのためなら懸命に働いたのであった。
「親父が、褒めていたぞ。お前たちのこと。」
「先生が?」
「ああ。正直、弁護士を引退して保護監察をしていたのは、半分は偽善みたいなものだったからな。」
恵まれた者からそうでない者への施しのような気持ちで、社会的プレゼンも多少はあったのだが、雄介の更生ぶりを見てここまで人間は強く生きられるということに感動したのだという。
「あの暴れ者を、よくここまで支えた、ってな。」
「そうだろうか、鍔木。俺は雄介を守ろうと心に決めていたけれど、生きようとする強い意志に支えられたのは、実は俺のほうではないかと思うんだ。道を切り開くには自分が動かなくてはいけない、一見簡単な理屈だけれど実行することはなかなかできない。」
「あまり難しいことは考えたことがないけれど・・・。俺、佳耶が殺されて、もう誰かを好きになることないだろうと思っていたけれど、カオルさんを好きになって、もう一度生きようって思ったんだ。・・・ラットの奴に刺された時も、焼けるように痛くって、意識がぼんやりしたけれど、俺は死ねないって。俺が味わったあの悲しい気持ちを味あわせちゃいけないって、思ったんだ。」
「それが、オマエの生きる力だよ。親父は、オマエを見て、保護監察をもう少し続けてみたくなったそうだ。生きる力に、賭けたいってよ。」
「鍔木は、どうするんだ?」
「ニュー椿の2号店もできたし、しばらくは仕事中心だろうな。親父からは、修習だけでも終えておけと言われたが、ああやって新宿長いと、一般の善悪なんて麻痺しているから、もうオモテの世界には戻れないよ。」
瀬島が言葉と一緒に差し出した煙草に火をつけて、鍔木が訥々と話していた。
「そうだ、俺ここにきた用事を忘れていた。今度、画廊を買った。」
「画廊を?」
不思議そうに返す瀬島のグラスにスコッチをつぎたすと、鍔木は図面を広げた。
「青山の骨董通りにある画廊だが、オーナーが亡くなって、相続対策で売りに出ていたんだよ。・・・ジュンの絵を、置こうかと思うんだ。」
鮫島が死んでしばらくすると、鍔木のところにジョージが顧問弁護士を連れてやって来て、ジュンの遺言を託した。どこかの倉庫の鍵と、手紙だった。
「指定された倉庫に出向くと、あいつの描いた絵が残っていてな。捨てるにしのびなく、俺に託したのだろうけれど、しばらくは見るのが辛かったんだ。やっと、包みを開ける気になって・・・。」
ジョージと相談して、絵を画廊に出して売るという話になったのだという。
「売上よりも、アイツの絵を見てもらいたいんだ。優しい絵を。あの絵を早く見ておけば、俺はもう少し早く癒されていたかもしれないと思ったよ。少なくとも、あの絵の中でアイツは生きている。人の手に渡って、生き続けることができる。」
「いい考えだな。」
瀬島はカウンタを出ると、ピアノの蓋を開けた。
静かに弾くソナタに、雄介と鍔木はじっと耳を傾けていた。
暫く飲んで、話をして鍔木は店の様子を見に帰っていった。
「あ、鍔木さん忘れ物していった。」
だいぶ経ってから雄介がスツールの足元にあった包みに気がついた。
「いや、俺たちに渡す予定だったようだぞ。」
「受賞祝い」と書いたメモを見て、瀬島が包みを開けると、鮫島の描いた素描画だった。
「懐かしい・・・。」
かつて「ニュー椿」で働いていた時間が、そこにストップモーションのように刻まれていた。
カウンタの中の雄介、スツールに凭れる鍔木、そして瀬島と鮫島。
それぞれのその後は違っても、キャンバスの中は永遠だった。
「値段のつけられない、傑作中の傑作だね。」
うっすら涙ぐむ雄介の肩をそっと抱き寄せると、瀬島は優しく口付けた。
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