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第1話
ゴミクズのくせになんで喋ってるの?
全部、その一言から始まった。
思い返してみても自分が彼に何をしてしまったのか、どうしてそんなにも怒らせてしまったのかわけが分からない。謝りたいが理由が分からず尋ねようとしても不快そうに顔を顰められて声を出せなくなる。
弁解も謝罪も許されないうちに久住 はクラスメイトたちから人として扱われなくなった。
ゴミクズとして、クラスの隅っこで転がっていることを許してもらっている。
声を出すことは許されない。
顔を上げて視線が合うようなことがあってはいけない。
昼食だって存在しているだけで不味くなるから教室で食べてはいけない。
増えていく禁止事項。守らなければ容赦のない侮蔑の視線を受け、ひたすら言葉で自分がどれほど気分を害する出来損ないか教えられる。
暴力はなかった。だが、言葉の暴力が苛む。
生きていてごめんなさい。
謝ろうとしても言葉は許されない。人間ではないから。ゴミクズの分際で人の言葉を使うなと彼は――真野 は顔を歪ませた。
力強く切れ長の瞳といつも自信に満ちてつり上げられている唇。目元には小さなほくろがあった。身長はそこまで高くないもののすらっとした背中、長い手足とスタイルの良さが一目見てわかる作りをしている。見た目だけではなくて、話術に長けて、頭もいい。
彼は進学クラスの王様だった。
みんなが一目置いている。そんな彼と仲良くなりたいとクラスメイトたちは思っているだろう。
そんなふうに久住も考える一人だった。
積極性はないが彼と話してみたいと思っていたのである。だが、勇気がなくて遠巻きに見ていた。時々言葉を交わすだけのクラスの人気者。
ただ、普通に生活していただけだった。
それなのに……彼が宣言すれば、真野が喜んでくれるだろうと周りは悪ふざけに賛同する。
誰もが最初はそう思ったに違いない。悪ふざけでそのうち飽きたら終わる。
だが、楽観的な考えはすぐに打ち砕かれた。
徹底して人間として扱わない真野の態度に次第に賛同した者たちだけではなく、ほかのクラスメイトたちも従い始めた。そうして、どうにもならなくなってようやく久住もことの重大性に気づいたのである。
全部遅かった。
教師までも久住の名を呼ばなくなっていたのである。
こんな状況の中で勉強に集中できるわけもなくて成績は落ちていき、両親は息子の話を聞くどころか怠けていると叱りつけるばかりだ。
俺はどうして生きているんだろう。
何一つ認められない。成績の悪い自分。周囲を不快にさせてしまう自分。息をすることさえ悪いのだと思うと、どうして生きているのか、そもそもなぜ生まれてきてしまったのか分からなくなってグルグルと回る。
正常である自分が認められないことで久住はもうなにが正しいのか分からなくなった。
夕暮れの教室。
誰もいない教室にいる。
座っているのは自分の席ではなくて真野の席。このクラスの神様が座っている場所だ。震えてしまう。
手にしていたカッターの刃を出したり、戻したり繰り返す。かちかちかちかち。静かな教室ではよく響いた。
ずっと繰り返しているうちに外は暗くなっていく。ああ、早くしないとと思うがなかなか踏ん切りがつかなかった。
怖いのだ。息をすることも、しなくなることも。
でも、こうすることでしか償うことができない。
「これでゆるしてください」
もうこれで楽になりたい。
理由が分からなくたって、息を止めてしまえばすべて楽になる。
かちっと嵌った音。
少しがたついた刃と自分の手首へ視線をさまよわせた。喉が渇いている。皮膚に当たる冷たさ。力を入れると痛みとともに皮膚が沈む感触がした。
これでやっと、解放される。
手に力を入れようとしたその時、
「そんなんじゃ死ねないよ。どうする?」
突然現れた存在に驚いてカッターを落としてしまった。
薄く切れて赤い線が滲む。
「あ、え、あ、あの」
「あっ、ごめんごめん。驚いた?」
誰もいないと考えていたから誰かがいることにまず、驚いて、それから声をかけられたことにも驚いて言葉を失う。しばらくまともに会話をしていなかったせいかもしれない。
床に落ちたカッターを拾った男は柄の部分を差し出した。
「多分死ねないけどそうしたいっていうなら、思う存分やっちゃえよ。まあ、痛いから、痛いけど」
軽々しく進めてくる声には緊張感は皆無だ。
「お前もしかして有名なゴミクズくん?」
どこまでその名が知れ渡っているのだろう。
以前のクラスで仲良くしていた友達もいつのまにか久住を無視するようになっていたから、少なくとも学年中には知られているはずだ。情けない。
汗が滲む。顔を上げられない。見られた。どうしよう。こんな姿見られた。息ができなくなる。久住はパニックを起こしてしまっていた。
こんな姿を見られてしまった、また、これをネタに自分がいかにくだらない生き物なのか叩き潰される。
もう、何度も叩かれてミンチ状態だ。これ以上に叩かれたら本当に存在すらなくなってしまう。
だから、人間のうちに死にたかった。人間として認識できているあいだに命を断てば人間として自分は生きて、死んだことになる。
「死にたいの?」
軽い声音でありながら、それでいてふっと優しく触れるような問いかけだった。
肌を刺すような攻撃性は感じられず、久住の気持ちを聞こうと急かすようなこともない。
首を振る。
「………っ……」
分からない。でも人間でいたいからこうするしかないのだ。
「ご……め、んないさ……いき、てて……」
もう嫌だ。生きるのは辛い。
どこにいても、見回しても侮蔑される。
頭を抱えて俯いて言葉にできない叫びをかみ殺す。
がたんと音が鳴った。身体が跳ねる。
「ゴミクズくんが生きてて悪いことってなに?」
人間ではない自分に話をかけてくる人間がいるとは思わず、情けないながらも人と会話ができる喜びが胸に生まれた。
最近は言葉よりも完全無視をされていたから言葉が上手く言えない。
「い、いきしてる、だけで、ふ、かいにさせる……だ、から、そんざい、が不快だって」
「へー大変だね。だから死のうって思ったの?」
「ぅ、ん」
「で、ゴミクズくん自身は死にたいの?」
同じ質問がまた戻ってきた。
カッターを持ったまま頭を抱えている久住の手に温かいものが触れる。ぬるま湯のような温かさ。
「ゴミクズくんは死にたいの?」
久しぶりに触れる人の温かさに息が詰まる。
身体の震えが止まって、面を上げると『彼』がいた。
「え……っ……ま………のく……?」
久住に優しく声をかけてきた人物は、自分を死ぬほど嫌っている真野正真 だ。
いや、違う。こんなに優しく笑いかけてくれるはずがない。声も違う。夢でもリアルに思い出してしまうほど真野の声は脳に刻まれている。顔を見ていないだけでは気づかないはずがなかった。
まじまじと見ていると特徴的な泣きほくろがないことに気がついた。それに髪も黒より少し茶色みのある色合いだ。顔のパーツは似ているが細部がことなる。
口元にはほくろがあった。
「お前の言っている真野くんは俺の弟です。いえーい」
前の席の椅子に反対向きで腰かけ、背もたれに両腕を乗せて頭を傾げて見せる。
兄弟がいるとは知らなかった。
久住を苦しめる面影に涙が込み上げてくる。隠すように長い前髪をしっとり濡らしながら溢れた雫が机に滲む。
弟? 兄弟? そんなことはどうでもよかった。
「ほいで? ゴミクズくんは死にたいの。それとも……」
遠慮のない言葉は似ている。
自分を嫌うクラスメイトと同じ顔で残酷なことを聞いてくる。
力の緩む拳からカッターが引き抜かれ、かちかちと刃が戻されて机の脇に置かれた。
「い、ぎっ」
自由になった手で目を押さえる。
溢れた感情は止められない。何も感じないようにしてきた。人間じゃないから謝罪だけではなくて、反抗することも許されないと思い、感情を殺してきた。
「いぎっ、い……たい……に、きまってる……!! で、もやだ、もう、こんなのム、りだ、おれ、ふ、ふつう、に」
普通に生活したかった。
昔のように勉強して、笑って、ケンカして、怒られて、泣いて、遊んで、人間らしく生きたい。勉強で一番でなくてもいい。クラスの中心になりたいと思ったこともなかった。誰かを蹴落としたり傷つけたりする勇気もない。生きているだけで人を傷つけるような人間になった覚えはなかった。
いつ、どこに間違いがあったというのだろう?
やり直せるのならやり直したかった。でも、時間は戻らない。
「死ぬのは嫌だ。生きるのも辛いって……絶望的だねえ」
「うっう゛……」
真野とよく似た人はあくまでもマイペースに同情するわけでもなく、かといって見下すわけでもなかった。客観的な感想。
ぐずぐずと泣いてしまう久住の前から去ることもせずそこにいた。
面白がられているのかもしれない。もう十分楽しめたはずだ。放っておいてほしい。
「よーしよし、おっけ、いいね。ゴミクズくん、きみの言い分はわかったわかった」
慰めるみたいに頭をぽんぽんと撫でられる。馬鹿にされたと思った久住が手を払おうとするが軽く躱されてしまう。
涙で張りつく前髪を撫で上げながらぼんやりとする視界で前を向く。彼と似ているようで異なる顔に笑みが浮かんでいた。
「普通なんてやめちまえ。一緒に人生踏み外そうぜ」
ぽかんとしてしまう久住をよそに心底楽しそうに名案だと指を鳴らしている。
「は、あ??」
「だーかーらーなあ」
「んぶっ」
涙でぐちゃぐちゃになっている両頬を手で挟まれ、ぐっと押し寄せられた。
「ぶーーかわいくねえ、きったねえですよゴミクズくん。いいよーーお前はマジきったねえけど輝いてる!」
褒め……られていない。
馬鹿にするなと一瞬怒りがこみ上げるものの、あまりにも無邪気すぎる笑顔に引きずられて乾いた声を出すだけだった。
汚いと言った顔を制服の袖で拭われる。鼻水がついても気にしないようで綺麗になるまで何度も拭われた。特に擦られた目が痛い。
「ご」
まだ顔を撫でたり抓ったり挟んでみたりする相手に久住は口を開いた。
「ん?」
学校でもうずっと声を出すことが許されなかったから、意識して話そうとすると混乱して詰まる。何かを言う前に「喋るなゴミクズ」と遮られてきたことで話すという行為が怖くなっていた。
だが、男は目線が合うと口元を緩ませて久住に続けるよう頷いてみせる。
喉に溜まった唾液を飲み込んで久住は震える声を出して言う。
「ゴ、ミクズくんじゃな…ぃ…! です…っ…!」
頬を抓っていた指が離れる。
「おうおう。そうだね。馬鹿な俺にも分かるよう自己紹介よろしく、ハイ!」
う、え、あ、と動揺してしまう。
「あっ、まって、俺が先か。俺は真野透真 だよ」
それから、どうぞと順番が回り、搔き乱されたまま名前を伝える。
「くずみゆうき」
「ゆーき、ゆうき、ゆ、ゆー」
発声練習のようなことを繰り返していた。
「ゆっきー、俺のことは透真くんと呼びなさい。よろしくう」
いえいと両手を挙げてハイタッチを求められるもいっぱいいっぱいになっている久住は項垂れそうになる。
そんな久住の片手を取って、真野透真は無理矢理ハイタッチをした。
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