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第26話
「お……王子? いつの間に?」
「おまえがその花を窓際に置いた時に入って来たが全く気が付かなかったな。なにを考えていた?」
こんな遅い時間に王子が来るとは思わず、完全に気を抜いていた。
そのせいで泣きたくもないのに涙が出てきそうで喉が熱くなって、グッとこらえる。
「何も……考えてないよ」
「寝付けないのか?」
「……少しね」
火照った身体も冷えて落ち着いた。明日の早朝にはここを出て行く。このまま眠らずに部屋を片付けて何も持たずに出て行くつもりでいた。
「俺も寝付けない」
「そう、なんだ……」
「そうだ。ずっと眠れない。おまえが隣にいないからだ」
暗闇で見つめた王子の目は一輪挿しの中の水と同じように揺れていた。
「命を狙われはじめてからずっとゆっくり眠れなかったんだ。前にも言っただろ」
「もう狙われてないから大丈夫じゃないの?」
「馬鹿を言うな。眠れないのはおまえのせいだ」
「なっ……なんでオレのせい!?」
眠れないのなら部屋に来たら良かったのに。来るなとは一言も言っていない。来なかったのは王子の意思だ。
「ずっと来なかったのは王子の方なのに、オレのせいにしないでくれない!?」
明日去るというのに喧嘩なんてしたくない。できることなら最後に抱いてもらいたい。それは無理な話だろうけれど、思うだけなら自由だ。
「おまえの体調を気遣っていただけだろ!? それにいろいろと手回しをするのに忙しかったんだ!!」
大声を出した王子に身が竦む。こらえていた涙が今にも溢れ出しそうだ。
涙をこらえるためにシアンも声を張って言い返す。
「オレはしょせん、ただの奴隷だし王子がもう毒の入った食事を食べずに済むなら用済みじゃないか! オレに優しくして期待させといて今更また奴隷に戻るなんて……」
違う。そんなことが言いたいんじゃない。
別にいいのだ、奴隷に戻ったって。王族の生活は自分には向いていないし、王子のそばにずっといられるなんて最初から思っていなかった。
だけど……。
一度知ってしまった温もりは、もう消せはしない。
どうやって忘れろと言うのか。散々、この身体に快楽を刻み込んだくせに。
「オレの役目は終わった。だから王子も部屋に来なかったんだろ」
「シアン……馬鹿を言うな……」
こめかみを押さえて王子がため息をつき、ソファーから立ち上がりシアンの前までやってくる。
「どうせっ……バカだよ、オレは! 知識もないし流されやすいし、この体質だって普通に生きてたら必要ないものだし! だけどっ、あんたに死んでほしくなかったから! だからっ……」
セシルにあんなに教わったのに大事な時に限って上手く言葉が出てこない。どうしたらこの胸の苦しみや痛みを、王子への恋しさを伝えられるのか。
言葉にならない悔しさは涙となって込み上げる。涙なんて見せたくないのにボロボロと溢れてくる水滴をしゃくりあげながら手で拭う姿はさぞ子供っぽく見えただろう。
「シアン……」
「うー……くそ……なんで止まんないんだよ……」
「シアン」
「うるさいなっ! わかってるよ、どうせバカだよ! バカでガキであんたに釣り合わないバカだよ!」
目を擦って、わんわんと泣くシアンのその手首を掴んで王子はフッと笑った。
「なんで笑うんだよ!」
泣き顔がそんなに酷かったのか、子供すぎて呆れたのか、いずれにせよ笑うなんてあんまりだ。
「なんでそんなふうに考えたか知らないが、誰がおまえを用済みだと言った?」
「だって……」
「確かに会う前は目的を果たせば解放するべきだと思っていたが、今は違うだろ? 俺は最初からちゃんと言っていただろ」
「なにを……?」
「おまえなら大丈夫だと。妻になれと。俺のものになれと。ちゃんと気持ちを伝えてきただろ」
シアンから溢れる涙を王子は舌で舐めて拭う。
もうシアンから出る体液を摂取する必要はないのに、王子のその唇はシアンの目元から額、短くなった赤い髪に口付けていった。
「オレは男だし、子供も産めないし、そんな言い方じゃ全然伝わらない」
「男なのは最初からわかっているし、子供が産めないのもわかっている。言い方は……次からはわかりやすく言う」
ふんわりと優しく包まれて、それがとても切なくなる。
王子はこんなに優しいのに、シアンの中には不安の方が大きい。それがなぜなのかはシアンが一番理解していた。
とても醜い嫉妬が心の中を埋め尽くしているからだ。
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