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第3章 闇よりも黒き淵 *1*
ワームホールの研究は帝国でも極秘扱いとなっている。だから実際のところ、カシスにも帝国での研究がどれほど進展しているかなどということは知りようがなかったのだ。
それでもこの海賊船のずば抜けたテクノロジーの高さは理解できる。
帝国で進められているのは『ワームホールの研究』であって、ウルフの言うように開発段階にまでは至っていない。
ワームホールを安定させ、あるいはそのものを創りだすことのできる高度な科学技術。他からは逸脱した能力の高さを誇るキイ・ブレインの存在。
帝王が形振り構わぬほどに、欲することも頷ける。
だからと言って、この船を無傷で手に入れるなどできるはずがない。不可能に近いとも思えるのだ。
しかし果たしてそれだけだろうか?
ルナティスが持つ能力を考えれば、傷つけることなく手に入れたいはずだ。
船に損傷を与えてでも捕らえたい理由。
海賊船ルナティスと、そしてウルフをだ。
船にダメージを与え彼自身すらも傷つけて、そうまでしてウルフを捕らえたいと欲する帝王の真意がカシスには分からない。
カシスの知らないことがあまりに多すぎる。
黒く拡がる闇でしかないスクリーンに釘付けとなり、床に跪いた姿勢で固まるカシスの前に、いつの間にか操舵席を離れたウルフが立っていた。
「驚いて腰が抜けたか? 歩けないって言うなら部屋まで抱きかかえてってやるぜ?」
「…………」
呆然と宇宙空間を見詰めるばかりだったカシスの眸に光が戻る。
差し伸べられた手を余計なお世話だときつく払い除け、カシスはその場に立ち上がった。
「自分で歩ける」
「―――そうらしいな」
含み笑うウルフをカシスは剣呑に睨みつける。しかしウルフは意に解する風もなく、スイと眸をスクリーンへと向けた。
つられて再びスクリーンに視線を移したカシスに、ウルフの静かな声が告げる。
「もうどこにも帝国の船の姿はない」
「…………」
「残念だったな、カシス」
カシスはハッとウルフの端整な横顔を見やった。
ウルフの眸はスクリーンの向こうに拡がる暗がりを見つめている。
果てしなく拡がる闇の世界だ。
「帝国の艦隊はとんだ無駄足を踏み、お前はまた海賊の手から逃れるチャンスを失ったわけだ。そうだろ? 王子さま」
「ク……ッ」
カシスは低く呻いた。ウルフの手が伸び、強く掴み上げられた左の手首に激しい痛みが疾る。
向き合ったウルフの眸には、獣じみた危うい色が浮かび上がった。
「これがある限り、お前はこの船から逃げられない。救けなんて待っても無駄だ。自由になんてなれやしないのさ、カシス。お前を生かすも殺すも俺の心ひとつで決まる」
強い呪縛の言葉。
両の手首にはめられたリストバンドが、カシスを捕らわれの身へと縛りつける。
「―――忘れるな」
「……ク……ウッ」
突き飛ばすような荒々しさで離されよろめいたカシスは、掴まれていた手首をもう一方の手で包み込んだ。ジンジンと疼きを持った痛みがある。
なにか少しでも言い返してやりたくてカシスが口を開きかけた時に、ブリッジへ前触れもなく駆け込んでくる人影があった。
「シア!?」
誰よりも真っ先に驚きの声をあげたのはウルフだ。
カシスは眸を瞠る。
痛みを忘れ立ち尽くすカシスを残し、ウルフが切迫した表情を見せ駆け込んできた相手を抱きとめた。
「シアッ、戦闘が始まったら部屋から出ないで、大人しく待ってろと言われたはずだろ!」
ウルフの叱りつける声に、相手は必死の様子で首をふるふると横に振っている。
小柄な少年だった。カシスよりもさらに幼い容姿をしている。
背は低く華奢で、それこそ海賊船には不似合いと言わざるを得ない。
ほんの少し癖のかかった短い髪は、淡い光を放つ黄金色。爽やかな草原を思い起こさせる緑の双眸が、今は頼りなく揺らいでウルフを見つめている。
なにかを言いたげに口をパクパクさせているが、声を聴くことはできなかった。
首に細いベルトのようなものが巻きつけられていることに、カシスは気づく。
首輪だ。
だとするなら、物以下に扱われ家畜同然とされるほどの、最も地位の低い奴隷のはずである。奴隷惑星と呼ばれるフェナンで、安い値でまとめ売りされてしまうような、だ。
家畜よりも劣悪に扱われようとなんらおかしくない奴隷であるはずの少年は、だがとてもそうとは見えないほど愛らしい。衣服も身体も清潔で、他の誰に見劣りすることもなかった。
なにより少年の眸を見れば、彼の地位に関係なく大切にされているのだろうと、すぐにも気づくことができる。
ウルフに向けられる頼りきった眼差し。
ウルフの態度からしても明白で、壊れ物を扱うような優しい仕種は、少年を決して物や家畜のなどのようには扱っていないことが見てとれる。
「分かったよ。帝国の艦隊にブラックホールと立て続けに来たんじゃあ、びっくりして当然だよな」
先に折れたのはウルフだった。
まだなにか言いたそうな少年の頭を、軽く腕の中に抱きこんでしまう。
「分かったから、もう落ち着けって」
幼い子供をあやすように言って、首だけを後方へ僅かに反らせ声を張り上げた。
「オーク! シアを部屋へ連れてってやってくれ」
副官を呼びつけたはいいが、あっさり拒否されてしまう。
忙しいと言わんばかりに手振りだけで断ってみせた副官に、ウルフは舌打ちを洩らした。
「ったく、後で覚えてろよ。―――カシス」
「―――!?」
急な呼びかけに予期していなかったカシスは、背に緊張を疾らせる。だがウルフはろくにカシスを見ようともしない。
「お前も部屋に戻ってろ」
それだけを告げて、少年を促しブリッジを出ようとする。
物言いたげな少年とカシスの眸が合った。とたんに少年は嬉々として眸を輝かせる。
溢れる興味をありありと覗かせた少年は、だがカシスに近づくことを許されなかった。
ウルフに連れられながらも後ろ髪を引かれるようにして繰り返し振り向く少年の背から、カシスもまた眸を離すことができずにいたのだ。
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