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第3章 闇よりも黒き淵  *17*

 目覚めてふと泣きたくなった。  なぜかは分からずカシスは泣きじゃくった。  苦しさにむせて咳き込み、それでも声をあげて泣き続けた。  優しい温もりに髪を撫でなれる。  柔らかく腕の中に抱きすくめられているのだと知れて安堵する。 「カシス」  名を呼ぶ声はひどく穏やかだった。 「もう心配はいらない。終わったんだカシス」  そっと耳に落とされる甘やかな響き。 「ウル……フ……」  相手の存在に気づいて、カシスの身体が知らず小さな震えを帯びる。 「全部終わったんだ」 「…………」  ヒュクとカシスは咽喉を鳴らした。  涙が溢れて止まらない。  敵なのに。  自分を貶める酷い男のはずなのに。  この腕の中は堪らなく心地好い。  ウルフの腕に抱かれたまま、カシスは泣きじゃくる。  安らいではいけないのだと分かっていた。心を開いてはいけない相手だと分かっていた。  けれど自分を抱きしめるウルフの腕は、かたくなな心を溶かす暖かさで。  次から次へと溢れる涙を、カシスはどうしても止めることができなかった。 ■■□―――――――――――――――――――□■■  次に目覚めた時、カシスはメディカル・ルーム(医療室)にいた。  自分の状況が把握しきれずにカシスは戸惑う。 「あの…………」  すぐ傍に人の気配がして、ベッドに横たわったままで顔だけを向ける。 「ああ、気がついたか」  気配の主はオークだった。視線を揺らがせるカシスへと眸を落とし、彼は密やかな風情でベッドの傍らに佇んだ。 「気分は?」 「……なんともない」 「頭痛や吐き気は?」 「それも大丈夫だよ」 「そうか。なら心配なさそうだな」  オークは棚から瓶を取り出し、錠剤を手にする。 「飲んでおくといい」 「なんの薬?」 「今よりもう少しだけ気分が爽快になる」  分かったと頷いて、カシスは錠剤を受け取った。手渡された水で錠剤を咽喉に流し込む。  空になったコップを受け取ろうと手を伸ばしかけ、オークは動きを止めた。両手の中にコップを包み込み、カシスは物思いに沈んでいる。 「王子?」 「……っ」  呼びかけにカシスはハッとして顔を上げた。そのカシスからオークはコップを受け取る。 「どうした?」 「―――……ううん、別に」 「どこか具合でも?」 「違うんだ」  オークの穏やかな眸をカシスは掬い上げるように見上げた。  冷ややかな印象を纏わせる美貌。それでいてオークの眸は不思議と柔らかな色を覗かせる。 「…………心配……かけたんだよね」  受け止めた眼差しにバツの悪さを覚え、カシスは小さく俯いた。 「あんな風に助けに来てもらえるなんて……」 「考えもしなかった?」  オークの問いかけに頷いてみせる。  カシスがどうなってしまおうと海賊たちは平気なのだろうと思っていた。誰もが必死の顔をして助けに駆けつけるなどとは、考えもしなかったのだ。  ウルフの腕の中で泣きじゃくるカシスを、それぞれの安堵の眸が見つめていた。クルーたちの誰もがホッとして笑い、カシスの無事を喜んでくれた。  たとえ助かったのだとしても、帝国でそうだったように冷たく蔑まれるだけだろうと思っていたカシスは戸惑いを隠せない。  暖かく迎え入れてもらえる。  こんなにも優しく。こんなにも穏やかに。  彼らは皆、カシスの身を案じてくれる。  海賊であり、敵であるはずの彼らが。 「心配かけて悪かったなって思って……。船もひどくダメージを受けたし……」 「そう思うなら、無茶な行動は控えてもらえると有り難い」 「―――面倒だから?」  口をついて洩らした呟きが卑屈なように思えて、オークへ顔を向けることができずにカシスは俯いた。  オークの声が静かに耳へ届く。 「……シアが哀しむ」  どのような表情でその言葉を口にしたのか。 「彼が泣いている姿は見たくない」  俯いたままのカシスに、オークの感情を読み取ることはできない。  カシスはただ微かに頷いてみせていた。

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