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第1話

 百代(ももしろ)稲荷神社。  商売繁盛、五穀豊穣、家内安全から受験合格、安産祈願まで幅広くご利益をあげている、地域密着のどこにでもありそうな神社。  そこの宮司の息子である百代健次郎は、兄がいるにも関わらず神社の跡取りと言われているのには訳がある。 「だーかーらっ! 俺には無理だって何度言えば分かるんだよ!」 「無理かどうかなんて、やらんと分からんだろうが!」 「宮司でもねーやつが出来るわけねーだろ!」  宮司である父親とこの会話をするのも、もう何十回めだろうと辟易する。 「だから、いつまでもバイトなんてしてないで、跡を継いで……」  その言葉が健次郎の逆鱗に触れた。  好きでバイト生活をしてるわけじゃない。  こんな自分にも、きっとこの神社を継ぐ以外の適職があるはずだと信じて、色々なバイトをして早二年。  同級生たちが大学で青春を謳歌していたり、実家の家業を継いで頑張っているうちに、あっと言う間に二十歳になって大人の仲間入りをしてしまった。  焦りと不安が入り混じった感情をもてあましている時に、追い打ちをかけるように父親に言われたら、冷静に話が出来るわけがない。 「あーもう! 堂々巡りじゃねーか、やってらんね」  健次郎は匙を投げる様に背を向ける。 「あ! おい! まだ話は終わって……!」  父親の声を無視し、わざと大きな足音を立てて居間を出ようとした。 「おっと」 「……っ!」  目の前を壁の様なもので塞がれ、それが人の胸だと気付いた瞬間、その相手を睨み上げる。 「光兄……」 「どうした、健」  役場勤めをしている自分の三つ上である兄の光一が、爽やかな笑みを浮かべて自分に声をかけてきた。  濃紺の作業着を着ているのをみると、役場から帰って来たばかりなのだろう。  健次郎が母親似の女顔に対して、光一は父親に似て目鼻立ちのしっかりした男らしい部類の顔をしている。  柔道で身体を鍛えたがっしりとした体躯に見合った身長なのも父親譲りで、百七十センチと平均ギリギリな身長の健次郎とは違う。あまり似ていない兄弟だと言われるのもそのせいだ。  昔は強くて逞しい光一は自慢の兄で、自分も成長したら同じようになるのだと思っていた。けれど、成長しても身長も体格も同じようにはならなくて、密かにそれがコンプレックスだったりする。  文武両道の見本のような光一こそ、神職の服を着たら様になるだろう。だから余計に自分を推す父親の意図がわからない。 「ちょうどいいから、あのバカ親父に光兄からも言ってよ」 「何を?」 「正式な神社の跡取りは光兄だって!」 「健……」  いつもはのらりくらりとしている兄が、珍しく真剣な表情で見つめてきてギュッと健次郎の手を握ってきた。 (やった、ようやく光兄も神社を継ぐ決意を……)  これで自分に跡を継げと父親に言われることもなくなる。  心の中がパッと明るくなった瞬間、目の前の兄は再び爽やかな笑みを浮かべた。 「えー、ここを継ぐのは健だろ? 俺には宮司なんて無理無理。サポートで事務処理とかするくらいがちょうど良いよ」  続いた言葉に眼を見開いて、握られていた手を思いっきり振り払う。 「光兄のバカ!」 「健、夕飯までには帰ってこいよー」  不機嫌になる健次郎に慣れている光一は、手を振り払われた事は別段気にしていないらしい。  のんびりとした声が背後から聞こえ、苛立ちをさらに倍増させながら向かったのは、神社の脇にある倉庫だった。  成人を過ぎているのだし、幸い居酒屋を経営している幼馴染もいる。酒でも飲んでうっぷんを晴らしてやろうかとも思ったけれど、神社の外にまで出て家庭内の文句を言って、この神社の風評を下げる様な事をするほど非常識にはなれない。  跡を継ぐのは嫌だけれど、この神社は嫌いじゃないところがまた矛盾していて苛立つ原因でもある。 「いっそ、嫌いになれたらいいんだけど……」  それが出来ないから、家を飛び出す思い切りもない。  顔立ちも爽やか好青年の見本の様な兄とは違い、パッとしない顔だ。成績も身長もみんな曖昧。  何もかも、中途半端な自分。  こんな風に思う自分が一番嫌いだ。  苛立ちを込めて南京錠で閉じられた重い鉄の扉を開けると、カビ臭い空気が肺の中に入って来て、少しだけ咳こむ。 「えーと、電気スイッチ……」  壁の横にあるスイッチを押すと全く電気のつく反応がなくて、心の中で舌打ちをしてから足を踏み入れる。  どうやらこの倉庫までもが父親たちの味方らしい。  本当はしばらくここに篭ってハンストでもしてやろうかと思ったのに、電気がつかないのなら日が暮れるまでしかいられない。恥ずかしくてあまり言えないけれど、真っ暗なのがダメなのだ。 「はあ……なんでこんな家に生まれてきたんだろうな、俺」  怖がりだし、ホラーものなんて大嫌い。  なのに、見えたり聞こえてしまう。  それを知っているからこそ、親は自分に跡を継げと言うけれど、一生それと付き合うなんて冗談じゃないと思う。 (確かに、神社は聖域だから見えたり聞こえないけど……)  ずっと神社から出ずに生きていけるわけではないし、逆にこの世のものではない何かと関わる機会も多いという、諸刃の剣のような存在な場所なのだ。  今は渋々と手伝いをしているけれど、いい加減腰を据えろと父親が今年の人形供養を自分に任せると言い始めたのだ。  そして冒頭の口論に至る。 「……よりにもよって、なんで人形供養なんだよ」  例大祭とか、祝い事とかの方から慣れさせるのが普通なのだが、半月後にある何十年に一度の大きな祭りごとに父親はかかりっきりで、三月のひな祭りに行う人形供養の方まで手が回らないからという理由らしい。 「そういえば、ここの倉庫って……」  近年、稲荷神社なのに人形供養の話が舞い込むようになり、地元だけじゃなく全国からこの時期になると山の様に段ボール箱に詰められた人形が神社に届く。  それらを一時期置いているのがこの倉庫だったと気付いた瞬間、耳にざわざわと声が届き始める。 「しまった……」  いつもは気を張ってある程度聞こえないように努力をしているのだけれど、心の隙を突いたように入りこんできた声に耳を塞ぐと、それを抗議するようにガタガタと騒ぎ始める。 「うっ、うるさいっ! 俺はお前らの声なんて聞こえねーんだからっ!」  そのまま退出すれば良かったのに、何故だかその場にしゃがみ込んで眼を閉じ、思いっきり耳を塞ぐ。頭の中に直接響くような声で話しかけられているのが分かって、大きく頭を振った。  一体、いつからだろう。  こんな声が聞こえる様になったのは。  現実逃避するように昔の記憶を揺り起こして、そういえば幼稚園の頃は怖い思いをした記憶がない事に気付く。  聞こえる様になったのには、何かきっかけがあったはずだ。 「俺が何したって言うんだよ……!」 「――しただろう」 「……え?」  突如聞こえた落ち着いた声に、塞いでいた手を思わず離して声の方を向くと、段ボールの上にちょこんと、朱色の前掛けをかけた白狐が座っていた。 (本殿の前の狛狐が何でこんな場所に……?)  一瞬そう思ったけれど、石像が動くわけがない。ぬいぐるみか何かだろう。何かのはずみで段ボールから出てしまったのかもしれない。 「片付けよ……」  こんなのがあるから、幻聴が聞こえるんだ。  白狐のぬいぐるみを取ろうとした瞬間、しっぽがゆらりと揺れた。 「うわあああっ!」  大声をあげた瞬間そのぬいぐるみが弾け、健次郎の目の前に見慣れない綺麗な顔の男が現れた。 「健次郎、久しぶりだな」  頭に直接響くような柔らかい声で親しそうに名前を呼ばれ、後ずさる。 「だ、誰、あんた……」  そう口に出しつつも、目の前の男の服が白地に赤の刺し色の入った、宮司が着ている狩衣に似ている事なのと、頭上に白い耳の様なものが付いているのが見えて、なんとなく予想は付く。  十中八九、目の前の男は自分にしか見えないものの類だ。 「俺を覚えてないのか? 笛吹(うすい)という名は?」  不機嫌そうにピクっと眉が上がり、一歩前に出るのが見えて身体は逃げる体勢に入る。 「笛吹……? し、知らないよっ、俺には物の怪の類に知り合いはいないしっ!」 「ほう、この俺を物の怪呼ばわり……」  低い声と共に笛吹と名乗る相手はさらに近付いてきて、あまりの恐怖に出来る事なら気を失ってしまいたいとさえ思う。  けれど最悪身体を乗っ取られる可能性もあるので、気を持ち直して睨み上げる。 「だ、だって、その耳っ! あと尻尾!」 「それだけ見えていて分からないとは……」 「分からないって何がだよ」 「白狐の俺が、物の怪のような下等な位な訳ないだろうが、この身体から溢れる神々しさがお前には見えないのか?」  自信たっぷりに言われ、健次郎は笛吹を改めて見つめた。 (確かに、白狐は人々に幸福をもたらす善孤の代表って、称えられているけどさ……)  ややきつめの釣り目で個性的な印象があるけれど、鼻筋が通った和風の綺麗な顔立ちだと思う。背も高いし、スポーツで鍛えていそうなしなやかな身体付きも羨ましい。  格好良いとは思うけれど、威圧的な言葉遣いもあって神々しさと言われると首を傾げてしまう。 「悪いけど……全然見えない」  そう告げると、落胆したように大袈裟に溜息を吐く。 「――我が伴侶ながらに情けない」 「は?」  ちょっと待て、今とんでもない言葉が聞こえた気がするんですけれど! 「まあいい、俺がどのくらい素晴らしいか、これから嫌と言うほど教えてやるし」  そう言って笛吹はニヤリと笑い、健次郎の方に手を伸ばしてくる。 「ちょ……っ!」  逃げようとするより先に肩を掴まれ、端正な顔が近付いたと思った瞬間、唇が重ねられる。 「っ!」  男とキスをしてしまったという事実にショックを受ける事よりも先に、何故かこの感触を知っている事に愕然とする。 「本当に、覚えてないのか?」  見つめられ、笛吹の瞳の奥の色がうっすらと朱色な事に気付く。 「……鳥居の色と同じ」 「あの時もお前はそう言ってたな」  無意識に呟いた言葉に笛吹は嬉しそうに口を開けて笑い、八重歯が覗くその笑い方に、頭の奥底にあった記憶が呼び戻された。 「あ……」  いつだっただろうか。 (……確か小学にあがった年の、今の時期だった気がする)  祭りを控え、準備で忙しくしている家族に構って貰えないことで拗ねて、この倉庫に隠れていた。  自分がいないと気付いた家族に見つけて欲しかったのに、待てども待てども倉庫のドアは開かず、待ちくたびれて寝てしまっていた。  おまけに隠れ方が上手過ぎたのか中にいることに家族は気付かなかったらしく、鍵までかけられてしまって出られず、真っ暗な中、外で自分を呼ぶ声がしてここにいるよと呼んでも誰も来ない。 『どうしよう……誰かたすけて……っ! ここから出たら、なんでもするから』  怖くて怖くて、心の底から声を出して必死に叫んだその時だった。 『本当か?』  背後から聞こえた声に振りかえると、重なった段ボール箱の上に兄と同じくらいの背丈の着物を着た少年がちょこんと座っていた。 『だれ……?』 『俺は笛吹。そのうち、ここの新しい御先稲荷(おさきとうが)になる予定』 『おさきとうが?』 『簡単に言えば、神様の使いだな』  ああ、だから白い耳と尻尾があるんだと納得した。  その頃はまだ怖いものも不思議なものも平気だったせいか、目の前の少年の自分とは違う異質な姿も気にならなかった。 『交代するには伴侶を見つけないといけなくて、探しに来たんだ』 『はんりょ?』  言葉の意味が分からず首を傾げたけれど、笛吹は教えてくれなかった。 『お前、ここから出してやったら俺の伴侶になるか?』 『なる!』  ここから出たい一心で即答した自分に、笛吹は満足そうに笑う。 『その誓い、忘れるなよ……』  そう言って唇を重ねられたと思った瞬間、倉庫の中に居たはずの自分は、なぜか本殿に座っていた。 「……あれ、お前だったのか」 「ようやく思い出したか」 「思い出したくなかったというか……」  覚えてなかったのは、あの後に原因不明の熱で数日間寝込んでいたせいだろうし、その原因も今なら分かる。  たぶん、笛吹の力にあてられたせいだ。 「なぜだ? 俺との約束を思い出せて光栄だろう」 「いや……全然。お前のせいで俺は見たくもないものを見る様になったんだぞ!? 見えないように今すぐ戻せ!」  胸倉を掴む勢いで詰め寄ったのに、笛吹は驚きもしない。 「それは無理だ」  即答され、カッと頭に血が昇る。 「何でっ!」 「俺の伴侶になると誓ったからな、自分の身を守る為には多少力が必要だ」 「じゃあその誓いを今すぐ失くしてくれ!」  小さい頃は意味が分からなかったけれど、伴侶って結婚する相手のことじゃないか。 「それも無理だ」 「……何でだよ、神様なら選びたい放題だろうが。男の俺じゃなくたって、可愛い女の子はいくらでもいるだろ」  それに、笛吹のような美形なら嫁になりたいという相手は選びたい放題な気がする。 「俺が健次郎を気に入っているから。あの時、お前の泣き顔に惚れた。今更、他の奴を伴侶になんて考えられん」 「そ、そこまで想ってくれてどうも……」  しれっと告白をされて、恥ずかしさで顔が一気に熱くなる。  神様というのは、こんなに我が侭で自分勝手なのだろうかと思う反面、ここまで真剣に告白された事もなかったので、微妙に笛吹への警戒心が薄れてしまった。 「で、でもさ、伴侶って……さっきも言ったけど、俺は男だけど?」  神様と人間という前に、その時点で無理な話がある気がする。 「別に性別はたいした問題じゃない。伴侶に必要なのは心の純粋さだからな」 「や、それも俺は無理じゃない?」 「どうしてそう思う?」 「だって、俺、この神社継ぎたくないし……我が侭だし」  逃げ回って嫌だと言うばかりで、行動に何も移せない甘ったれた子供だ。 「けれど、この神社を愛してくれているだろう? その気持ちが俺たちには大切なんだ。俺はずっとお前を見てきたから分かる」 「笛吹……」  頭に大きな手が乗り、子供をあやすようにゆっくりと撫でられると、ふんわりと暖かな気持ちが心の中に生まれる。  好きだからこそ、この神社を任せられるのが怖い。  心の奥に隠していた気持ちを見透かされてしまった気がして、些細なことで逃げていた自分がやけに恥ずかしくなった。 「あの……っ」  笛吹に励まされたから、という訳ではないけれど、宮司の仕事を手伝っても良いかなと告げようと口を開けたのと同時に、笛吹が言葉を被せてくる。 「――それと、もうひとつ伴侶に絶対必要な条件も、お前はクリアしているしな」 「え?」  神使の伴侶に必要な条件とは何なのだろうと逡巡している間に、笛吹に腰を緩く抱かれ引き寄せられる。 「さっ、触んなっ!」  綺麗な顔が近付いてきて、艶のある含み笑いをしながら、笛吹がそっと囁く。 「心だけじゃなく、身体も純粋なままだろう?」 「……っ!」  遠回しに童貞と言われて、羞恥で顔が真っ赤に染まる。  彼女がいなかった訳じゃないし、そういう機会だって何度もあった。けれど、入ったラブホテルがボヤ騒ぎになったり、彼女の家に行けば突然蛍光灯が割れたりと、必ずと言っていいほど邪魔が入って出来ずじまい。  一度だけじゃなく、何度も重なると相手は気味悪がり始める。そうなると気まずくなるのは当然で、自然消滅というパターンばかりだった。  そのうち、健次郎が神社の息子だから霊的なものなのじゃないかとか噂をされ、今では声をかけてくれる女の子すらいなくなってしまった。 「あっ……まさか、あのタイミングの良すぎる邪魔ってお前の仕業じゃないだろうな!?」 「邪魔とは酷いな。俺は健次郎が汚れないように守っていただけだ」 「は……?」  笛吹の言葉に絶句していると、腰に置かれていた手が下がり、尻をぐっとわしづかみされた。 「うわああっ! 何するんだよスケベ!」  ゾワッと全身が粟立つような感触に、飛び跳ねそうになる。 「む。自分のものに触って何が悪い」 「お前のものになった覚えはないっ」  手を払うと、不満そうに眉を寄せる。油断も隙もあったものじゃない。 「まあ、お前が伴侶にならんというなら、この神社がこの先どうなるか保証はせんけどな」 「はあっ!? それ思いっきり脅迫じゃないか! 神様なのにそんな事していいのかよ!」 「人聞きが悪いな、健次郎じゃなければ天罰ものだぞ。俺はお前のいない神社なんて守りたくないと意見を言っているまでだ」  フイッと拗ねたように顔を横に向けられてしまい、大きく溜息を零す。 (見た目は良いのに、なんて残念な性格なんだこの神様)  ここで突っぱねるのは簡単だけれども、そのせいで笛吹が本当に怒って神社を守ってくれなくなったら、この神社を信じてきてくれている氏子さんたちに申し訳ない。 「……分かったよ、伴侶云々は置いておいて……俺、取りあえず跡継ぎの事、前向きに考える」 「本当か? 嬉しいぞ健次郎」  花が咲いたように微笑まれ、そのまま抱きこまれてしまう。  笛吹の身体からふわりと漂った甘ったるい桃の様な香りに、怒っていた気持ちすら溶かされそうになる。 「ま、前向きにってだけだから!」 「今はそれで十分だ。祝言までまだ日があるからな」 「はぁ? 祝言、だと……?」 「ああ、俺がこの神社の正式な御先稲荷になる日だな」 「ちなみに、それはいつで……」 「今年の祀りで先代と交代になる」 「あと二週間も無いじゃないか……っ!」  それまでに心を決めろとか無理に決まっている。 「ええと、やっぱりなかった事に……」  身体を小さくしてそっと外へ出ようとする健次郎の肩を、笛吹はのん気にポンと叩く。 「そんなに心配するな。お前の先祖も通ってきた道だ。怖がる事など何もないぞ」 「え? どういう……」 「なんだ、今度の祀りの事を父親から聞いてないのか?」 「親父は手伝わせてくれないんだよ」  いつもだったらあれこれ指図するのに、今回に限って健次郎は手伝わなくていいの一点張りだ。 「なるほど……お前の父親は賢いな」 「え?」 「手伝いに回せば、どこかでお前の耳に入るかもしれないからな。あえて離したのだろう」 「ちょっと待てよ、俺に聞かれちゃいけないことって……なんだよ」  この時期に毎年行っているのは、『初午祭』という稲荷神社特有の祭りだ。なんでも、初めて稲荷神が地上に降りてきた日を祝う為に初午の日にやるらしい。  名の知れた有名な稲荷神社ならば、それこそ町をあげての大祭になるのだろうけれど、この神社は毎年せいぜい境内に出店と青年会主催の投げ餅をやるくらいで、隠すような行事をしているような気配は全くと言っていいほどなかった。 「さあな? 楽しみは当日まで取っておいた方が、喜びも倍になると言うし、父親もそう思ったからじゃないのか?」  微笑む笛吹の笑顔がよけいに胡散臭く感じる。 「あんたは教えてくれる気はないの?」 「ない。俺と祝言をあげることに不満があると言ってるうちは、少なくとも話す気はない。気になるならば自分でなんとかするんだな」  本当に自分のことが好きなのかと疑うくらい、そっけない態度に思わず頬を膨らませる。 「ケチ!」 「そんなに拒む意味が分からないだけだ。俺の伴侶になれば、力も使いたい放題だぞ。見たくないと言っていた物の怪たちだって意図的に見えなくするくらい容易くなる」 「ほっ、本当かっ!?」  その魅力的な言葉に揺れそうになったけれど、人外、しかも男と祝言をあげるとか有り得ない。 「いやいや、そんな口車に俺はのらないんだからな」 「何故だ? 頼まれている人形供養だって楽にこなせるだろう。立派な跡継ぎが出来たと、父親も喜ぶぞ。良いことづくしではないか」 「っ! お前、親父との話まで聞いて……っ」 「言っただろう、ずっと見てきたと」  手を取られ、指先に唇が触れる。  そんなキザったらしい事をされても様になる姿に一瞬見惚れたけれど、言われていることはストーカーそのもので、健次郎の中の笛吹の評価はあがるどころか地に落ちて行く一方だ。 「いくら神様でもやって良いことと悪いとこの区別ぐらい付けろよ……っ!」 「何度も言うようだが、俺は神ではなく神使だ。神の代理だぞ。一度で理解できないとは、健次郎は頭が悪いのか?」  俺に怒られる意味が分からないとでも言うように首を傾げる笛吹を見て、この神様代理とこの先ずっと付き合っていくのかと思うと、『前途多難』という文字が頭に大きく浮かんだ。 (――ああ、神様。助けて下さいっ!)  駆け込みでどこかの神社にお願いに行ってしまおうか。  そんな馬鹿な事を考えてしまうくらいには、頭が混乱している。  駄目だ、ちょっと落ち着きたい。健次郎はその場にしゃがみ込む。 「あのさ……今日のとこはこれで帰ってくれない?」  笛吹のいない場所で、ひとりでゆっくりと自分を取り巻く状況を整理したい。 「俺の気にあてられたか……本来ならもう少し語らいたかったのだけれど、ここで体調を崩されて祝言の日に元気なお前の姿が見れないもの困るしな」  笛吹は健次郎と同様にしゃがみ込むと、手を伸ばして健次郎の短めの前髪をかき分けて額を出す。 「……何?」  顔をあげた瞬間、唇が額へと触れる。 「うわっ!」  唇、指に引き続き、今度は額にまでキスをされてしまった。  ビックリして後ろに倒れるように地面に腰を落とすと、笛吹は面白そうに口端をあげてその姿を見つめる。 「それだけ大きな声が出れば安心だな。祀りの日、楽しみにしているぞ」 「……」  こんな得体の知れない相手と再び会うことはないだろう。  無言で見つめていると、笛吹が思い出したように口を開く。 「そうそう、俺から逃げる為に身を穢そうとか馬鹿なことを考えるなよ? まあ、そんな機会もないかもしれないがな」  馬鹿にするような言い方に、カチンとくる。 「もしかしたら突然彼女が出来るかもしれないし……いくら神の使いだからって、そうそう思い通りに進むと思うなよ?」  笛吹の口調を真似るように言うと、彼の表情が冷たいものへと変わり、首筋に手を伸ばしてくる。 「何……っ」 「……そんな事をしてみろ。相手共々、お前の一族を呪い殺すぞ」  ツツっと、尖った爪先が喉元を伝い、その針のような痛みの中に冗談ではなく本気の意図を感じて背筋が寒くなる。 「の……呪いって、脅しじゃないかそれ!」  怖くて言えないけれど、こんなの神使ではなく、妖怪の類のやることだ。  とても善狐とは思えない言動に抗議すると、相手はしれっと当然のことのように告げる。 「大切なものを守るのに、力を行使して何が悪い」  言い切られると、もう何と返したらいいか分からない。唇をきつく結び、睨みつけるくらいでしか悔しさを表現できない自分のボキャブラリーのなさに、もっと勉強しておけばよかったと今更ながらに後悔する。 「――ではな」  優美な笑みを浮かべた状態で笛吹の身体が半透明になる。 「あっ、おい!」  言い逃げとかずるいぞ!  文句を言う前に姿は消えてしまった。 「……本当、何者なんだよ……」  桃の様な甘い香りだけが残り、それが余計に気持ちを騒ぎ立てる。  早くなった心臓の鼓動を不思議に思いながら、ズルズルとその場に座り込む。  すでに辺りは真っ暗だと言うのに、怖いと思わないくらい頭の中はぐちゃぐちゃで、兄の光一が夕飯の時間だと声をかけにくるまでその場から動けなかった。

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