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第2話

 声をかけたのに、うしろ姿は振り向かない。聞こえていないのだろうか。名前を呼ぶ大きな声には反応せず、背中は一歩、踏み出した。深い夜の海に。  だめだ、そっちは行っちゃダメだ。違う、そっちは岸じゃない。  どんなに叫んでも波の音でかき消されてしまう。  一歩、もう一歩。海の水はひんやりと冷たく、人物の胸元を濡らす。  次の日きっかり八時半に玄関をノックする音が聞こえた。 「おっはよーございまーす」  朝から元気というか、暢気な声が聞こえる。  身体は疲れてぐっすり寝たいはずなのに、そういう日に限って嫌な夢を見てしまう。夢も映画のように、今日はこれ明日はこれ、と自分で決めれたら目覚めも幾分マシになるだろう。各著名人は車の自動運転より夢上映装置の開発に予算を投資すべきだ。絶対に需要はある。いくら出しても惜しまない人間が現にここにいる。 「今日は随分ラフだね」  海広は昨日とは打って変わり、クリーム色のポロシャツにデニムという軽装だった。足元には薄っぺらいビーチサンダル。 「わかります? 昨日はお出迎え用のよそ着。いつもはこっちなんですけど、変でした?」 「いや、むしろ昨日の方がだいぶ変だった」 「えー、せっかく煌先生の為に一張羅引っ張り出したのに。って先生こそ、昨日と服全然変わってないよ。Tシャツ短パンの夏休み少年ルック」 「僕は、下に何着ててもこれが全てを解決してくれる」  手に持っていた白衣を広げると朝からまた笑われる。陽気な性格だ。 「早速ネタバレ? 研究者だからとか清潔だからとかどうとでも言えるのに」 「研究は楽が一番。それを取り繕ってくれるのが万能白衣」 「てことは中が裸でもわかんないね。裸で白衣、めちゃくちゃ面白いじゃん。清らかさに隠れたいやらしさの根源は『楽だから』って」 「いや裸だったら流石に胸元で気づくでしょ」 「どうかな、確かめたいから今度不意にやってみて。俺がこの話題忘れた頃に」 「なるほど、いつになっても病院系の風俗が淘汰されないわけだ」 「え、煌先生そんなことどこで覚えたの」 「それくらいの知識はあって当然。僕をなんだと思っているの」  駅から実家までの近道がたまたま歓楽街だったから得ただけの知識だ、とは便宜上伏せておく。  そもそも男の自分ではいやらしさなど皆無だし公正わいせつ罪にしかならないだろうが、くだらないやりとりをしていると十分ほどでセンターに到着した。  ほぼ一年ぶりに再会した西ノ森教授とまずは握手を交わす。  瓶底眼鏡にちょび髭がマッドサイエンティスト感あってハカセと呼んでいる。そう説明された後で改めて再会してみると言い得て妙だ。 「やあやあ、よく来たね。これから世話になるよ」 「はい。手続きなどご準備してくださりありがとうございました。これからよろしくお願いいたします」 「煌先生、こっち、メインの研究員として働いているのがハカセの他に木戸純子さん、それから岡和則さん」  女性はロングヘアを高い位置で一つ結び、それから男性の方は髭もじゃに肩ほどまである髪を今度は耳の位置で一つ結び。二人ともやはりこんがり陽に焼けている。サバイバルゲームで最後に生き残る二人ってこんな風だろうかと想像を膨らませる野性味がどちらにもある。 「わ、思ってたより随分若いのね!」 「ほんとだ。白衣着てるとアニメのキャラクターみたい。あったじゃんなんか、子供が、ロボとか作れちゃう超天才なの」 「あー、おかっぴの言いたいことわかるわかる」 「二人とも、初対面で失礼だよ」  後ろの海広は一応制すが、どの口が言うか。 「よ、よろしくお願いします」 「あーかたっ苦しいのは大丈夫大丈夫。私純子、こっちおかっぴ。さて皆の衆、朝練行きますかー。煌先生は海広の運転ね」 「ほーい」  インスタントラーメンの完成より短い挨拶を終え、みんな一斉にボンベを軽トラに積み込んだかと思えばすぐ、違う乗用車に乗り込んだ。  昨日かすかに身構えていた日本社会の云々など全て無意味だったらしい。ああもうやめたやめた。みんな名前でいってやる。心に決め煌もまた助手席のドアを開ける。  どうやら早速スポットに行くようだとの予想は的中、十五分ほどで港の停泊場に着いた。  朝の健康的な光に穏やかに揺れる水面がキラキラと輝いている。  浜辺によって砂が違うように、当たり前だが海も数キロ違うだけで全く変わる。船上に行くとワクワクした。二つ目の予想も的中、船のドライバーはやはり海広だった。  何でも屋の自称、納得。 「朝は私達、デイリーワークから始まるの」 「飼育中のサンゴの掃除と健康管理ですね」 「そ。さすが、話が早い。フィールドが広いから、組合とボランティアの人たちが手分けして掃除は毎日やってくれるんだけど、私たちも一応、毎朝来てるのよ。まあ煌先生は初日だし、なんとなく私達のこと見といて」 「そう言うわけにはいきません。私も海域の調査をしますので」  被っていた麦わら帽子の紐をあごの下で固く結び直すと、ハンドルを回す海広が目をかまぼこ型に細ませムズムズ口を動かしている。  ああ、わかってるよ、皆まで言うな。 「あ、じゃあ潜る? おーい海広、予備の空気どこにあった?」 「いえ、僕はカナヅチなので潜りません。はいこれ」  言うが早いが純子のボンベのリュックにさっと小型の水中カメラを仕掛ける。これで電源を入れればリアルタイムで映像を船の上のパソコンに飛ばしてくれる。トランシーバーはなくてもいいが一応マスクに装着。 「はい完了。上で画像見て、何かあったら指示しますのでよろしくお願いします」  三秒後、船上が一気に弾けた。 「カナヅチで海洋博士やってんの? うけるー!」 「今言う時、胸張ってたよね? 絶対胸張ってたよね?」 「煌先生の面白さ、計り知れねえ。ハカセだって植え付けの時は潜るのに」 「もちろん。私は、死ぬまで現役ですよ」  事実を既に知っている西ノ森教授さえも言いながら口に手を当てている始末だ。教授、そこはちょっとフォローをお願いします。  笑いに包まれたままバシャンバシャンと水しぶきをあげ、純子と岡は背中から入水する。十時前なのに、太陽はもう力強い片鱗を見せつけている。二人を見届けて、操縦席から海広が顔を覗かせる。 「じゃ、ハカセ船頼むね」 「はいはい」 「え?」  海広はシャツを躊躇いなく脱ぎ捨てているところだった。デニムの下には着用済みの水着。ゴーグルをパシンと弾いてきつさを調節している。 「まさか…」 「行って来まーす」  水泳選手にも引け劣らない綺麗な頭からの入水。水中でフィンを着けたら大きく息を吸ってそのまま潜ってしまう。  煌は反対に息を飲む。 「酸素ボンベなしで? そんなこと可能なんですか?」 「ああ、海広くんはいつもそうですよ」 「モニター見た限りでは少なくともスポットまで水深一五メートルはあるみたいですが」 「海広くん、確か素潜り競技界隈でも結構有名な選手らしいですよ。十分くらい簡単に潜ってられるらしいから、自分の限界はわかってるんじゃないかい? 瀕死で浮いて来たことはまだ一度もないよ」 「あったら大問題です」  慌ててモニターに視線を移すと海広がちょうど姿を現す。   海中に生える何十本もの、サンゴの人口クリスマスツリー。養殖の範囲は予想以上に広く、成長は順調と言えた。  海広は木々の間に入り、歯ブラシ型のワイヤーでシャカシャカとサンゴの上に積もったゴミを払った後、飼育中の枝を次々とペンチで剪定する。木と一緒で、太陽光と栄養を吸収しやすいよう間引きの要領だ。どこを切りどこを残していいのか瞬時に判断している。迷いがなく、手際が良くて、それでいて雑ではない。次々木から木へと移動しながら実に鮮やかな手さばきで一帯をメンテナンスしていく。 「早い…」  海広は、重量二十キロのボンベに邪魔されない分、岡や純子より軽やかに上下に移動している。確かに一息でここまでできるのならその方が断然効率はいいだろう。ただそれが困難だから普通は大きなタンクを背負うわけで。  海広はカメラに向かってロクセンスズメダイの群れの位置を示す余裕すら見せている。  白黒の個体達が散ったり集まったり、海の木々の間で遊んでいる。  はっと高校生の時に観た映画を煌は唐突に思い出す。  八十年代後半に社会現象にまでなった(らしい)、伝説フリーダイバーの伝記。主人公が海に潜るシーンと海広がピタリと重なった。 「ブラッドシフト現象…」 「お。さすがですねえ、その通り」  イルカやシャチなどの水棲哺乳類は水圧の変化に対して心臓や脳といった生命に重要な臓器だけへ必要最小限に血液を循環させることができる。こうして全身の酸素消費量を抑え、深海に適した状態に肉体を変化させられるのだ。その能力を持った実在するフリーダイバーが映画の原案になったことは有名な話。 「私も海広くんの赴任当初は大変興味深くて、心拍数とか脈拍数とか潜水時間とか、一通り調べたことがあるんだよねえ」 「計っちゃったんですか」 「計っちゃった。こっちじゃ防水パルスオキシメーターなんてないですから、同期の研究室がある東京まで引っ張って」  己の興味の対象に目を輝かせ恍惚と語る、教授もまた根っからの研究者気質だ。  でも煌は知っている。 「それ教授の分野と一ミリも関係ないですよね…」 「うん、ぜーんぜん無関係。でもなかなかそんな身体能力お目にかかれるもんじゃないですから、つい楽しくなっちゃって。潜水中、海広くんの心拍数は一分間に三十にも満たなかったかなあ。すごいですよねえ、いいよねえあんなことできて」  ちょうど十分経過する前くらいにぷか、と浮いて来た海広は船に向かって手を伸ばす。剪定し終わったサンゴのかけらが網に詰まっていた。 「はい、煌先生これいるでしょ」  そうだった。手さばきを見るのに夢中で持って来てほしいものを伝え忘れていた。 「あ、ありがとう」  ニコッと笑い、また一息思いっきり吸って海広が水中に沈んでいく。  得体の知れない男だった。

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