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第16話

 ワイパーに拭かれても拭かれても雨粒に打ち付けられる車窓から、目を凝らして外の状況を確認する。暗く佇む民家を一つまた一つと見つけるたび煌の不安は膨れ上がった。  風を受け大きく揺れながらも車体は目的地に到着する。裏口の鍵を開け階段を駆け上る。  ラボの中は静まり返って水音が一切しない。  月明かりすらない闇の中で、何千もの不動な生命たちが息を潜んで水の中に沈んでいた。 「やっぱり…ここも停電してる…」 「大丈夫、非常用自家発電装置がうまく作動してないだけだ。見てくるからちょっと待ってて」 「待って!」  元来た階段を降りる海広を大声で止める。 「それって何時間もつの?」 「電力をラボだけに通して最小限に抑えたら二十二、三時間くらい」 「計算、僕が赴任する前の話だよね。水槽の量、来た時の三倍は増やしてる」 「そうだった。とすると、単純計算で、ギリ三分の一の七時間も持つかどうかだと思う」 「すぐ復旧できる原因だったらいいけど、もし電柱ごと倒れたりしたら、復旧は十時間じゃ済まない…明日になっても復旧しないままだったら?」  高い場所から遥か地上を見下ろした時のように、足元からさっと血の気が引いて立ちすくむ。記憶に新しい千葉の大停電が頭をよぎる。あんなに首都圏からも近く人口の密集している場所で対策本部まで設置されながら完全復旧するまでに二週間もかかった。七時間なんかじゃ絶望的に短い。  ざぁっと出来得る対策が頭をかけ巡る。 「水温はガスで湯を沸かしてから混ぜて温度計で調整、水は海の水を汲んでくる? でもこんなに沢山どうやって…選ばなくちゃ…。どの種を優先的に残すのか選ばなくちゃ…ああ、でも最新のデータはメインの方にしか入ってない…そもそもCO2濃度は…?」  睦言をブツブツ口にしながら、気づきもせず膝をついていた。  これまでみんながコツコツと積み上げてきた努力が、煌が二ヶ月かけて集めた未来への希望が、全て無駄になる。暗闇にようやく慣れてきた視界が一気に暗転するだけでなく、頭の中まで真っ黒になった。走馬灯が、これまでの光景として脳裏に浮かんでくる。大勢を取りまとめるのが上手い純子、案外子どもに熱心に教えられる岡、任せてますからね、と肩を叩いてくれる西ノ森教授、全員のスケジュールを把握し、忙しく駆け回る海広、それから。  鼻の頭にしわを寄せる、創一の歪んだ笑顔がフラッシュバックする。 「ダメだ…できない。救えない…救えない」 「煌先生」  海広が駆け寄ってきた。しかしその声は煌には届かない。 「僕は何も救えない、救えないんだ…だって救えなかった、死なせたんだ。僕がまた、みんな僕が死なせるんだぁぁああ」  頭を抱えて煌は叫んだ。  生まれて初めて腹の底から大声を上げたかもしれなかった。抑えきれない感情をどこにぶつけていいかわからない。雨音が遠のく代わりに別の声が聞こえる。死なせた、お前が死なせた。もう一人の自分が、胸の中で煌を責め続けた。  うずくまる寸前、前のめりになった肩を押し上げられた。 「煌!」  恫喝に近いほど大きな声で名前を呼ばれ、ビクッと煌は静止した。  反応を待たずに胸の中に収められる。以前の柔らかに包み込むような抱擁ではなく、衝動的な、骨が軋むくらいの腕の力で抱きすくめられた。 「創一さんは、死んでない」 「だって、僕が…」 「違う」  少しだけ腕の力が弱まった。頭を撫でられる。ゆっくりと、眠りにつく赤ん坊をあやすように、何度も。 「煌先生は、誰も殺してない。これからも殺さない」  言い聞かせる、はっきりした口調だった。  ぐちゃぐちゃにかき乱れていた心が、海広の大きい手のひらを感じて徐々に鎮まっていく。動悸も連動して収まるにつれストンと全身の力が抜けた。全体重を預けてしまっても、広い胸はピクリとも揺れない。 「大丈夫だから。停電は朝までに、直るから」  保証など一つもないのに、強い確信を宿す海広の瞳。 「なん、で」 「こんなにたくさん煌先生は一人で頑張ってきたんだ。絶対に、無駄にはならないよ」  もし朝になっても復旧できなかったらこの部屋に匿われた生命体の存在価値は研究の甲斐なく滅亡する。それでも一縷の望みを、信じようと思えた。海広の言葉を、信じれる気がした。  煌は言葉なく頷いた。  頭を撫でていた手に、今度は二つ、軽くはじかれる。  勢いよく離れた体は階段を一目散に駆け降りていった。

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