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第20話

 たまに創一がタバコをふかしていた近くの公園に移動した。その時横で自分は何していただろうか、もう思い出せない。  杖を持った創一は左脚を少し引きずってゆっくり歩いた。  ベンチに座る時、関節を折り曲げることを苦労している風だったので少し迷って手を差し伸べると、首を横に振った。 「これでも利き腕の方じゃないから、まだ自由だよ」  記憶の大部分を占める、口角を不平等に上げるシニカルな笑い顔から、角がごっそり削れた柔らかいそれに変わっていので、時間の流れを感じずにはいられなかった。 「あの日煌に拒絶されて、俺、かなりショックだったんだよ。当時俺はお前に好かれてるって驕り高ぶってたから、お前の反応が予想外だった。フラれてめちゃくちゃ恥ずかしかったよ。後悔したし、ムカついた。何でだよって」 「うん」  その感情は煌もよく知っていた。 「でも事故にあったのは本当に偶然。煌のせいなんかじゃないよ。俺がそんなことで死ぬわけないだろ。いや、ほんとはちょっとむしゃくしゃしてちらっとは思ったっけか。怪我でもすれば腹いせになるかなくらいには」  煌が俯向くのを見て創一が慌てて取りなす。 「もちろん本気じゃない。だから俺からは、会いに行けなかったんだ。怖かったのと怒ってたのと、両方で。それで人づてに街を出たって聞いたから、ああ煌はもう俺に会うつもりはないんだなって、なんか吹っ切れたよ。上京したんだろ?」 「うん。…マイアミに」 「何だ、海外だったの? それは知らなかった。すごいなお前! 前は、何でも俺が決めてやらないと、一人じゃファミレスのメニューにだって頭抱えてたのに」 「創一の、おかげだよ。今までのこと、全部」 「何言ってんだ。お前がちゃんと頑張ったんだよ。なあ、マイアミビーチはどうだった? 綺麗だった?」  目がみるみる澄んで、輝いて、どこにも嫉妬は見当たらなかった。だから心を揺さぶられた青い海の情景をクリアに思い出せた。 「うん…とても。朝からどこからかサーファー達が集まって来て、犬とジョギングしてるおじいさんと自転車乗ってる女の子がすれ違いざま軽く挨拶して。夕方になると、時々サーファー達が一斉に波に乗らないで、ただ浮かんでる瞬間があるんだ。何だろうって視線の先を追うと、背ビレが水面にプカプカ浮かび上がってくるの。イルカの群れが通り過ぎるから、みんな誠意を払って海の道を譲り渡してるんだ。救急車が通る車道みたいに。そういうのを、ずっと浜に座って眺めてた」 「すごいな。どんな小説より素敵なシーンだ」 「ごめん…」 「何で?」 「マイアミの海は、ずっと創一が見たかったものだ」 「今俺が歩んでるのは、他の誰でもなく俺が選んだ人生だよ。マイアミに行かなかったのは俺の選択。お前が謝ることじゃない」 「でも、事故さえしなかったら…」 「留学行ってたなんてどこにも保証はなかった。本当はさ、あの時俺のTOEFLスコアいくつだったか知ってる?」 「ごめん、記憶にない」 「なくて当たり前、言ってないんだよ。お前に隠してた。iBTで33、CBTに換算するとたった400点。全然入学許可点に足りてなかったんだ」  アメリカの大学に入学できる留学生の基準点が基本は500点、マイアミ大学に至っては533点。英語が母国語として訓練を受けていない人間がたかが十点を上げるのにどれだけ大変か、400から到達するのは長い道のりだと経験した煌はわかる。 「でもまだ夏だったし、あと半年も頑張れた。そのうちに取れてたかもしれない」 「し、取れなかったかもしれない。取れたとしても親に反対されたかも、留学資金が足りなかったかも。笑えるぐらい具体性のないふざけた夢だったよ。結局俺も、自分の夢を真剣に目指してたわけじゃなくて、単にお前に好かれることがしたいだけだった。頑張ってる俺を見るのが、お前は好きだっただろ」  その通りだったから否定できない。煌の見つからない答えをいつも創一は持っていた、…ように当時は見えた。 「だから、今ここにいる俺は、全て俺の選択によって出た結果なんだ。お前もそう。きっかけはどうあろうと、今までやってきたことはお前自身の選択。だから、気にすんな」  ずっと言われたかった言葉を胸で反芻しながら、指先は震えていた。ずっとこうやって許されたかった。縋り付いてごめんなさいと許しを乞うて、大丈夫だよと言って欲しかった。創一に、自分自身に。  煌の横で創一はそれだけ言うとしばらく座っていた。  煌の反応を伺うでもなく、握った杖の親指がカリカリと所在なさげにステンレスの表面をいじる。ちょうどその位置に爪ほどのシールが貼ってあった。絵本に出てきそうな、かわいいクマの顔。 「ああ、これ? 杖が冷たくて無機質だからって、貼ってくれたんだ。いつも目に触れるところにかわいいものがあると、テンションが上がるらしい。勝手だよ、これを一番頻繁に見るのは、俺なのにな」  誰とは言わなかった。でも、愛おしそうにシールをさする姿を見て、あっと思う。  今までは見落としていたピースがピタリとはまる。僕それ知ってると言いたかった。だって教えてもらったから、もう何か知っている。  愛情。  認めたら、貯めていた涙がついに一筋流れた。  よかった。事故の原因が杞憂だったことより、今までの行いを許されたことより、気にしないと言ってくれたことより、何よりも。煌が惜しんでいた創一の歩んだかもしれないもしもの人生なんかよりも、きっと何十倍も価値のある生活に現実の創一は包まれていると確信できた。創一の隣に創一を愛する人がいて、創一も愛を与えていることに、何よりも心から救われた。  そして思い返す。煌に愛情の存在を、教えてくれた人を。  躊躇いなく口の端を限界まで上げて笑うさま。大きい身体からは想像もできない丁寧な所作。運転席から窓を開け、潮風に目を細める造形の美しい鼻筋。その横顔の精巧な造りをまるで気にかけない焦がした肌。  初めて守ってあげたいと思ったこと、腕に抱かれて、はち切れそうだった不安が抜ける炭酸のようにしゅうっと消えたこと、夜に交わした口づけを嫌いになれなかったこと。全部本当はどこかでわかっていた。でも、泣きながら今もっと確信する。  海広のことが、好きだった。  創一の幸せを心から願うと同時に、海広のことを、どうしようもなく好きなんだと思った。 「煌、来てくれてありがとう」  嗚咽が収まるのを待って、創一は立ち上がった。 「さ、帰れよ。お前の場所に。ここまで、俺に会いに来させた人が、ちゃんといるんだろう」  煌は迷いなく頷いた。 「その人に、ありがとうって言っといて。煌ともう一度会わせてくれて」  それは、煌に対してさようならの意味だった。  希望に満ちた、創一との二度目の別れ。交差した人生の糸がもう二度と絡まることはこの先ないのだとしても、創一の明るい未来を容易く思い描けたから悲しくなかった。  後ろ姿と海の夢は、多分もう見ない。

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