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第1話 スイートでビター
もうすぐ夏至が来る。晴れていれば、朝4時には東の空が白々開け始め、5時には太陽が顔を出し始める頃だ。なのに、空はじっとりと薄暗い。昨日から、霧雨が降り続いているせいだろう。町は静かで、どこか屋根の下にでもいるのかスズメの鳴く声が聞こえている。そんな、パン屋か豆腐屋かと見紛うような時間に、立花連は仕事を始める。
彼の仕事は、叔母の経営する喫茶店で出すケーキを焼くことだ。ああ、パティシエですね?と聞いたら、彼は嫌そうに首をふるだろう。曰く、そんな立派なものじゃないそうだ。その言い分に従って、叔母は彼を「おやつ担当」と呼んでいる。呼び名はどうあれ、毎日、季節に合わせた焼き菓子と冷製菓子を何種類か作っている。ついでに、「本日のメニュー表」と盛り付けの案も書いておく。こうしておけば、オーナー兼店主の叔母、沢田有実子がステキなスイーツにしてくれるというわけだ。今朝は、梅雨だというのに、蒸し暑いというよりも肌寒い。さて、本日のメニューはどうしようか。
ここ最近、口当たりのさっぱりしたものばかりだったから、華やかな見た目やパンチの効いた味が欲しい。
キッチンに立ち、エプロンの腰紐をきゅっと結び、三角巾にわしゃわしゃの金髪を押し込みながら、立花の頭はくるくると回転する。天気予報をチェックしながら冷蔵庫や冷凍庫の在庫を確認して、メニューは決まった。カラフルなフルーツ寒天、ナッツをちらしたレモンパウンドケーキ、ベリーのタルトにはミントを散らす。これで、どうだろう。そうだ、冷凍庫のチョコレートアイスに冷凍ベリー足して、よーく混ぜておこう。
立花は、白い紙にメニューと材料、分量を書きだし、工程とできあがり時間を考慮したざっくりとした予定を作った。
「よっしゃ」
これで、今日も動きだせる。しっかりと手を洗って、仕事を始めよう。
仕込んでおいたタルト生地を下焼きしている間に、アーモンドクリームを作り、パウンドケーキの生地を作る。タルトとパウンドケーキを順番に焼いている間に、寒天に色を付けて型に流して、アイスクリームをかき混ぜる。
卵白、卵黄、生クリーム。何度も泡立て、粉をふるって、木べらで混ぜて。一つ工程が終わるたびに、ボウルやゴムベラを洗って、また使う。その繰り返しで予定時間通りに、菓子はできあがる。まだ温かい焼き菓子を網の上に乗せて、寒天を冷蔵庫にしまうと、朝の仕事は終わりだ。満足気に時計を見ると、そろそろ早い出勤の人たちがスーツ姿で町を歩き始める時間だ。窓の外に目をやれば、思った通り、スーツや制服が傘をさして歩いているのが見える。
「ご苦労さん」
誰に言うともなしに、呟いた。別の世界の人たちだなと思うけれど、たまには店に甘いものでも食べに来て、ゆっくりしたらいいんじゃないかなとも思う。
「ま、俺はゆっくりしすぎだけどな」
自嘲気味にこぼす立花の生活は、彼らとは少し違う。早朝に働いて、自宅に戻って昼まで眠る。午後には、また別の仕事を自宅でして、閉店の頃に店に来て明日の仕込みをする。ホールケーキを何分割にもするように、一日の時間を分割して生きている。働いて、寝て、働いて、寝る。時々、食べる。
そんな毎日の繰り返しであっても、きちんと菓子ができあがると、ほっとする。きっと、何がしか役に立っている気がするからだろう。立花は、作り始める前と同じように片づけられたキッチンを見回して、小さく頷いた。今朝の仕事、完了。
そして、エプロンを外して寝床に戻ろうとした時、頭の中にちりっと何かがひっかかった。
いや。いつもと、同じじゃない。
今朝は、店の軒先で雨宿りをしていった奴がいた。こんな霧雨の日に、ジョギングでもしていたのだろうか。派手なウエアを来た後ろ姿だけが目に入った。見かけない奴が、妙な時間にいるとなれば、多少警戒するのも仕方がない。泡立て中の生クリームから気が逸れてしまったのも、少し悔しい。
「有実ちゃんに言っておいたほうが、いいかもしんないな」
立花は、もう一枚叔母にメモを書いてから、自宅に戻った。
霧雨はまだ止まない。店の勝手口から、自宅の玄関までは数メートルもないので傘なんてさしたりしない。サンダル履きの足が濡れたけれど、それも気にしない。汚したって、誰にも怒られたりしないのだから。
立花は、それでも手足を洗って部屋着に着替えるとまっすぐ寝室に向かった。気に入りの寝床は、数時間前に抜け出たままだ。
南に向いた濡れた窓からは、薄い明かりがさしている。立花は、横になって窓ガラスを伝って落ちる雨の滴を眺めているうちに、いつの間にか眠ってしまった。
☆
喫茶店の「おやつ担当」が働き始めてから、一時間ほど経った頃。相楽仁も、起きだしていた。美大生の彼は、体力づくりのためにジョギングを日課にしていた。学生ばかりの住むアパートは、夜遅くまで賑やかな代わりに、朝はいつまでたっても静かなままだ。
相楽は、そっと玄関のドアを閉めて、霧雨の中を走り始めた。
雨の勢いはないけれど、細かい雨粒が自分の胸のあたりにぶつかって顔をぬらす。それが少々煩わしくて、時々手のひらで顔を拭う。好きで走っているだけなのだから、こんな天気の日は走らなくったっていい。それでも走ってしまうのは、ルーチンだからというよりも、気持ちがいいからだ。作品制作で煮詰まりがちな頭の中も、ひたすらに足を動かし腕を振っていれば、そのうち空っぽになる。風通しが良くなって、たまには良いアイデアが降ってくることもある。だから、雨が降っても走っている。
今日も、決めたルートをいつものように走るつもりだった。けれど、予定が変わった。いつも渡る交差点のど真ん中に大きな水たまりができているのだ。避けて走ればいいのだけれど、何となく気分じゃない。
「どうすっかなぁ」
見れば、逆方向の信号が緑だ。相楽は、昨日までまっすぐ通過していた交差点を、左に曲がることにした。
その道は、なだらかに曲がって住宅街へと続いていた。どこかでまた左に曲がればぐるっと戻れるだろう。そう思って走っていると、赤い屋根が見えた。雨のよけられる庇もある。雨の中、見慣れない道を走っているので、自分が今どこにいるのかよくわからない。あそこで休憩して、位置を確認しようと潜り込んだ。
庇の下は店の入り口ドアで、木枠にガラスのはまった扉に「Closed」の札がさがっている。甘い旨そうな匂いがして、何の店だろうと見上げると、「喫茶 シャロン」の看板がかかっていた。まだ早いのに、店の奥がほんのり明るい。どんな店かは知らないが、今は雨宿りできる庇がありがたい。しばし休憩させてもらうことにして、タオルで濡れた顔と手を拭った。扉を背に、ここはどの辺りかとスマホを取り出して検索していると、店の中から音が聞こえてきた。ちらりと目をやると、キッチンの明かりがついていて、男が大きなボウルを抱えて何かをかき混ぜていた。
「こんな時間から働いてんのかよ。俺らとは大違いだな」
思わず、感心と呆れの混じった溜息をついてしまった。
相楽は、普段人を見ないしモデルにしない。モデルを見ている自分を、じっと見られている気がして苦手なのだ。周りの奴らには、ヌードモデルに怖気づくなよと笑われるし、自分でも美大の学生としてどうかと思うけれど、こればかりはどうしようもない。それなら何をモチーフに制作しているかというと、もっぱら植物や爬虫類だ。やつらには、生きるということ以外の意思が感じられないのがいい。常々、そう思っていた。
なのに、今はリズミカルに動く腕や迷いのない手の動きに見とれている。
なんと、気持ちがいいのだろう。あの動きの一瞬を捕まえることができたら。何か、形にできたら。
ほんの雨宿りのつもりだったのに、キッチンに立つ男から目が離せない。
もっと見たい。もっと、もっと、もっと。
ドアにそっと手をついて、目を凝らして、ガラスに鼻の頭がついた瞬間、はっとなった。
少し、前のめりすぎる。いつまでもこんな事をしていたら、おかしな奴だと思われる。そうでなくても、街中で植物をじっと眺めていて職質されたことがあるのだから。
相楽は、そっとドアから離れて、走り去った。
霧雨は、まだまだ降り続いている。ウエアもびしょ濡れだ。なのに、頭の中にあるのは、キッチンに立つ男だ。三角巾の端から、金髪がはみ出していた。ボウルを抱えた前かがみな横顔の額と鼻の輪郭を、光が照らしていた。その鼻筋がすっきりと美しかった。
走っていれば、空っぽになるはずの頭は、見知らぬ男のことで一杯だ。
あの店に行けば、会えるだろうか。
作っていたものは、食べられるのだろうか。
あの動きを、スケッチさせてもらえないだろうか。
自宅にたどり着いた相楽は、シャワーを浴びながらも、力強く動く腕をずっと思い浮かべていた。
☆
翌日、同じような時間に、ドアの向こうに人影が見えた。今日は、昨日とうって変わって蒸し暑い夏日だ。雨宿りなはずがない。しかも、顔をあげても逃げる様子はない。動かずに、窓の向こうからじっとこちらを見ている。
─── 気配がうるさい
ぎゅうっと眉根を寄せて、立花は布巾を調理台に強く押し付けると、大股でキッチンを出た。
その様子に、ドアの向こうの男が狼狽えている。立花は、逃がすものかとドアを強く押して、その男の腕を掴んだ。目線の高さは同じくらいだが、腰が引けているのか抵抗する様子はない。
「何の用だ」
低く押し殺した声と吊り上がった大きな目が、相楽を威嚇する。その勢いにおされたのか、相楽の喉は何度も上下するけれど、声が出てこない。
「何してんのかって聞いてんだよ。こっちは、仕事してんだから、邪魔すんじゃないよ」
「あ、あの、す、すみません。その、こんな朝早くから、何してんのかなって。その、モーニングとかやってるのかと思ったけど、札見ても昼からだし」
「あんたに関係ないでしょ。俺がいつ仕事しようと」
「いや、その、だから、ごめんなさい。昨日、あ、今も、仕事の邪魔をしてしまって、あの、ごめんなさい」
「……それを言いに来たの?」
「はい」
「じゃ、もういいよね」
立花は、そういってドアを閉めようとした。
「待って!」
そのドアの縁を、相楽は力いっぱい掴んだ。まだ、話は終わっていないのだ。
「あの、今度は、ちゃんと見学させてもらえませんか?」
「は?パティシエ志願とかなら、ちゃんとした学校行きな。俺のは独学だから、参考にならないよ」
「いえ、あの、じゃなくて」
「あ、食べるほう?じゃ、昼間店に来て食べて。じゃ」
立花は、一方的に話を進めて、店の前の道路を指さした。ここから、立ち去れということだ。どうやら、相楽の話を聞いてくれる雰囲気ではないらしい。
相楽は、ぐっと喉を詰まらせていたが、渋々頷いた。
「わかりました。あの、邪魔してすみませんでした。失礼します」
わかればよろしいと、立花は笑顔で小さく頷いてみせた。すると、吊り上がっていた目尻がふにゃりと垂れて、大きな目が優しい半円を描いた。その笑顔に気をよくしたのか、相楽がもう一言声をかけようとすると、目の前でドアが閉じられた。
「あ……」
一歩も動けない相楽の見ている目の前で、立花は一度も振り返らずにキッチンに戻っていく。
今は、ここまで。相楽は、一度引くことにした。かと言って、簡単にあきらめるわけにも行かない。
「とりあえず、食べてみるか」
庇の下から出て空を仰ぐと、東の空を昇り始めたばかりの太陽が照り輝いている。
「暑っつくなりそうだな」
相楽は、胸ポケットからごく薄く色のついたサングラスを取り出してかけると、来た道を戻って行った。
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