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第5話

 部屋に入るとすぐカウチに横になる。テオが出歩くといえば、テラスにある階段を下りた先の裏庭くらいで、それ以外はカウチに座ってボンヤリ窓の外を見るのが常になっていた。  そんなある日、夕方の幻想的なオレンジ色が樹海を染め上げていたとき、どこからか聞き慣れない声を耳にして、テオは階段を駆け下りた。 (今、なにかの声がした?)  人の話し声ではない、動物の鳴き声のようだった。以前はこの裏庭でいろいろな動物と語らっていた。ずいぶんそれもしていない。もしかしたら急に姿を見せなくなったテオを心配した動物が、様子を見に来たのではないかと思った。しかし辺りに人や動物の気配はない。 (聞き間違い……だろうか)  そう思ったとき、薔薇の壁の向こうからなにかが姿を見せた。 (猫? ではない……)  猫よりも大きな動物だ。陰になってよく見えないが、ふらふらしていて今にも倒れそうになっている。 「あっ」  テオは駆け寄ってその動物を腕に抱く。まだ子供のようでとても骨張っていた。後ろ足の真っ白な体毛には血がついている。どうやら怪我しているようだった。しかしその血を見たテオは体が強ばり、動くことができなくなってしまった。  一気に脳裏で広がったのはあの惨状で、暑くもないのに汗が滲んでくる。心臓が早鐘を打ち始め、それに痛みが伴い始める。 (だめだ……またあのときの光景が……、怖い……、嫌だっ)  体が震え始めて叫びだしそうになったとき、その白い生き物がテオの手をひと舐めする。その瞬間、ハッと我に返った。何度も手を舐められると、ゆっくりと気持ちが落ち着いていく。 「お前、怪我をしてるのだな。大丈夫だ。僕が治してやる」  テオは後ろ足の血が滲んだ場所に手をかざし集中する。手の平が熱くなってしばらくすると、痛みがなくなったのかその生き物が顔を上げた。黄色い目はとても美しい。しかし力なく虚ろだ。 「もしかして……獅子の子?」  猫よりもしっかりとした目鼻立ちで牙も舌も前足も大きい。獅子は文献でしか見たことがなかったので驚いてしまう。せいぜい犬や猫、鹿やリスくらいなら分かるが、まさかこんな場所に獅子が姿を見せるなんて思いもしなかった。 「お前、どうしてここに来たのだ? バラシアから来たのだろう?」  言葉が通じるわけではないが、そう問いかけてみる。しかしその獅子はぐったりとテオの腕の中で体を横たえて元気がない。 (もしかしたら腹が減っているのか? 体がとても細い……弱っているな)  テオは獅子の子を抱え上げた。持ち上げると想像以上に軽くて驚いてしまう。周りに誰もいないのを確認し、ローブで獅子の体を隠したテオは大急ぎで自分の部屋に駆け込んだ。  そして自室の隣にあるワードローブの小部屋に駆け込んで毛布を引っ張りだし、それで獅子を包んだ。獅子の子を部屋に連れてきたテオは、普段は自分で点けない暖炉に火を入れる。やり方はライドがしているのを見ていたのでなんとかできたが、煤まみれになってしまった。 (とにかくなにか食べるものだな)  暖炉の前に獅子を寝かせ、テオはそっと部屋の扉を開けた。左右を確認し、長い廊下に誰もいないのを確認して階段を下りる。下の階は大広間や食堂、サロンや使用人の部屋などがある。地下に厨房があるので、そこでなにか食べるものを探すつもりだ。とはいえ、まだ陽が高いため厨房には夕食の準備で人がたくさんいるだろう。 「殿下?」  一階に下りたところでライドに声をかけられた。こんな場所へテオが来ることはないので、彼は驚いた顔で固まっている。 「あの、ライド。少し腹が減ったのだ。なにか食べるものをもらえないだろうか?」 「さようでございますか! では夕食前というのもありますので、ポルポとミルクをお持ちいたしましょうか」 「あ、ああ。そうしてくれるか? 部屋の前にワゴンで置いておいてくれればいい」 「え? お部屋の外にですか?」  不自然な要求をしているのは分かっていた。だが獅子の子が見つかれば絶対に取り上げられるだろう。あの生き物は樹海の中から出てきたと誰もがすぐに察するからだ。 「なぜ、お部屋の外に?」 「……それがだめならば、僕は食べない」  そう言って背中を向けると、かしこまりました、と声が聞こえた。ずっと満足に食べていないテオに、ライドはどうにかして食事を採らせたいと思っていたのだ。そのテオがお腹が減ったと言うのだから、そのくらいのおかしなお願いなら聞いてくれると思った。 「それでは、頼む」  二階への階段を上りながらライドに告げて、その場を立ち去った。まもなく部屋の外にワゴンが置かれ、部屋の扉がノックされる。 「殿下。ポルポとミルクをご用意いたしました。こちらに置いておきますので、ミルクは冷めないうちにお召し上がりください」 「……分かった」  扉の前で向こう側の気配が去るのを待って、そっと扉を開けた。廊下に人の気配はない。テオはワゴンを部屋の中に運び込んで、ミルクと菓子の乗った皿を暖炉の前に持ってきた。  ポルポとは城でよく食べられる、小麦粉と砂糖、バターを使った焼き菓子である。砂糖は貴重な食材なので身分の高い者しか口にできない。薄茶色の表面は滑らかで、サクサクとした食感は口当たりがいい。  テオはおやつによく食べていて、これなら作り置きがあるというのも知っていた。 (これなら、食べられるだろう)  膝の上に獅子の子を乗せ、ポルポをミルクに浸して口元へ持っていく。ぐったりして目を閉じていた獅子の子の鼻がヒクヒクと動いた。そして薄っすらと目を開けてテオの持っているそれをひと舐めする。 「大丈夫だ。毒など入っていない。僕がいつも食べている菓子だ。ミルクに浸したからやわらかいと思うぞ。食べてくれるか?」  グルルルル、と喉の奥で唸り声を上げた獅子の子は、テオの手を気遣うようにして菓子に齧りついた。 「おいしいか? 腹が減ってたんだな。全部食べてよいぞ」  テオはポルポにミルクを全部かけて浸してやる。皿の上にある菓子に近づいて、獅子の子が必死に食べ始めた。 「ずっと獅子の子と呼ぶのもおかしいな。名前を……う~ん、ルイザ……カイト、どちらも少し違うな。そうだ、ブラーヴというのはどうだ? リカドールでは『勇敢』という意味だよ。獅子は勇敢な森の王だと文献で読んだ。ぴったりではないか?」  菓子を食べているブラーヴの背中を撫でてやると、先に房のついた細い尻尾が左右に大きく振られた。どうやら了承してくれたらしい。 「気に入ってくれたか。うれしいよ」  この日からテオに小さな獅子の友達ができた。子供の獅子とはいえ、体は小さくても力は強い。今はまだ腕に抱ける大きさだったとしても、すぐに成長してしまうだろう。  ワードローブの中で飼いきれるとは思っていなかったが、呆気なくライドに見つかった。 「で、殿下……これは、なんでございますか」  眠っているテオを起こしたライドの声は震えていた。一体何事だと目を開けると、少し離れた場所にブラーヴの大きな金色の目が光っていたのだ。なにが起こったのか分からず体を起こすと、ベッド脇にはライドが立っている。 「うわっ! えっと、これは……迷子で、しかも怪我をしていたのだ。だから仕方ないだろう? 僕の力が必要だったのだ」 「ですが、もう傷の方は治っているようですし……。というか、どこから来たのですか、この……」 「ブラーヴだよ。この子はブラーヴという。僕が名付けた」  ベッドの上で丸くなるブラーヴに来いと声をかけ、自分の傍まで引き寄せて腕の中に抱く。まるで宝物を取られまいとするように。 「いえ、お名前を伺っているわけではございません。怪我が治ったのなら、母のもとにお返しするべきでしょう」 「母……?」  ライドに言われてハッとした。テオにもやさしい母がいた。もしかしたらこのブラーヴにも母親がいて、心配して森で探している可能性がある。このままだとブラーヴは自分と同じになってしまう、とそう思った。 「そうでございますよ。母と離ればなれになって、今頃心配して探していることでしょう」 「だがもし、ブラーヴも僕と一緒だったら?」 「は?」 「僕と同じで、母上を失っているとしたら、ブラーヴはひとりぼっちではないか。だから怪我が治ってもここから出なかったのだろう?」  自分の境遇をブラーヴに当てはめていた。もしもそうなら、どれほどの孤独でぬくもりに餓え悲しいことなのか、一番分かるのはテオなのだ。そう思うと胸が絞られるように苦しくなる。 「だとしても、この子は人の言葉が話せませんし……」  ぎゅっと唇を噛みしめて、テオはライドを睨んだ。 「もしも、ブラーヴが母上に会いたいと思ったなら森へ返す。それまでは……ここに、一緒に、傍に置く」  だから父や兄に言わないでとテオは懇願した。ピンチの自分の状況など気にも留めていないブラーヴが、テオの頬を舐め始めた。 「こ、こら……ブラーヴ、今はお前の処遇をどう、するか、あっ、こら、だめだっ、ぶっ、くすぐったいっ、や、やめろって」  テオの顔中くまなく舐め始めたブラーヴに押し倒されて、くすぐったいやらなにやら、わけが分からなくなった。ライドはテオの説得に根負けして、ブラーヴを一緒に匿うのを承諾してくれた。 「しかし、見つかったら私は……牢獄行きかもしれませんね」  眉間に皺を寄せたライドが頭を抱えていた。 「大丈夫だ。僕が父王さまにちゃんと説明する。だからライドは安心していろ」 「はぁ……分かっていただけるといいのですが」  ため息を吐きながらライドはテオを着替えさせていく。脱いだ服にブラーヴがじゃれつき、ライドの仕事は増えてしまったようだった。  こうしてライドを味方につけたテオだったが、ますます部屋から出られなくなった。いつもは遊び場の裏庭に行くが、そうするとブラーヴまで一緒に来るだろうし、庭師やらにも見つかってしまう。せいぜいテラスで遊ぶくらいが限界だった。  そしてライドがブラーヴのために貴重な肉なども差し入れてくれたりしたおかげで、みるみるうちにブラーヴは体力を取り戻し、元気に大きくなった。それと同時にテオの心の傷も癒やされていき、以前のように笑顔を見せている。今はブラーヴを部屋に隠すのが限界にきており、よく部屋へやってくる兄には慎重になっている。 「ブラーヴ、兄上が部屋に来たときは、ここでおとなしくしているのだよ? 分かった?」 「ギャゥ、グワゥ……グルルルル」  テオはブラーヴを隣のワードローブの中で座らせ、真面目な顔で言い聞かせる。返事をしたのかしていないのか分からないが、おとなしく座っている。しかし尻尾は左右にタシッタシッと振られ、なにやら期待に満ちた目をしていた。  ブラーヴの首の周りには少し鬣のようなものが現れ始めていた。座高はテオの身長とさほど変わらない大きさで、向かい合ったテオは黄色い瞳に見つめられる。 「グルルルルル……」  喉を鳴らすようにして、真面目な面持ちで話しかけるテオに大きな頭を擦りつけてくる。 「こら、おい……ちょっと、ブラーヴ、うわっ、だめだっ。遊ぶ時間ではないぞ」  のしかかられてテオは床に転がった。ざらざらした舌で頬を舐められて、痛いしくすぐったいしで大変だ。だがブラーヴとこうしてじゃれ合うのが、唯一楽しい時間である。  そうしてようやく元気を取り戻したテオだったが、部屋の扉がノックされて飛び起きた。ブラーヴをワードローブに押し込んで、慌てて扉を閉めた。 「テオ、入るぞ」 「は、はいっ」  ブラーヴを隠したのと、兄が入ってきたのとはほぼ同時だった。変な場所に立っているテオに怪訝な顔を見せた兄だったが、そのままテオの方を向いたまま口を開いた。 「明後日の早朝、出陣する。用意しておけと父王さまからの伝言だ」  ヘクターの顔は、あのときテオの体を気にかけて汗を拭ってくれたやさしいものではなかった。呆然と見つめるテオの返事を聞きもせず、その場をさっさと立ち去ってしまう。 「また、戦争……?」  心が悲鳴を上げる。行きたくないとも、嫌だとも言えなかった。父の命令であったし、怖いから嫌だと言って、二人に幻滅されるのが恐ろしい。だからテオは言われるがままに、再びあの地獄のような戦場へ向かうのだ。  テオが城にいない間、ブラーヴの世話は庭師のヴァンスにお願いした。本当はライドに頼みたかったが、彼も戦場へ行くため無理だった。  ――し、獅子の子ですか!? む、む、む、無理ですよ! こんな、恐ろしい。  ――大丈夫だよヴァンス。ほら、大きな猫と変わらないぞ。ヴァンスもやってみるがいい。  テオがブラーヴの顎の下を撫でてやると、ゴロゴロと音を出した。その音にさえビクついていたヴァンスだったが、テオが根気よく説得してなんとか引き受けてもらった。城の中でブラーヴの存在を知る者が増えていく。不安にはなるが仕方がなかった。 「殿下。ブラーヴのためにも、生きて帰って参りましょう」  前と同じように、テオの着替えを手伝うライドがそう声をかけてくれる。しかしテオの感情はどこか遠くへ行ってしまう。  そうして幾度となく戦場で力を使い続けたテオの髪は、黒から金髪に近い明るい茶色に変わっていた。生まれたときから黒かった瞳も、今は薄いブラウンになっている。力を使いすぎたテオは色素を失っていた。  小さい頃から色白ではあったが、さらに陶器の人形のように白くなっている。昔の面影はすっかりなくなり、戦場から帰ってきたテオはブラーヴの前で僅かに微笑むことはあっても、声を上げて笑えなくなっていた。 「ブラーヴ、僕ね、母上のところへ行きたいよ」  テオの膝の上でテオと同じくらいの大きさになったブラーヴを撫でながら、そんなことを言う日々が増えた。そろそろ限界が近いことをテオ自身も察していた。

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