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第4話

 ◇   ◇   ◇  テオは夢を見ていた。白い光の中に青いマントをつけた父が立っており、それを後ろから眺めている夢だ。左から近づいてきたのは兄で、同じように父の隣に立った。二人とも鎧を身につけ、それが光を反射させてとても眩しい。テオも父の隣に並びたくて歩こうとするが、なにかが邪魔をして前へ進めなかった。  ――なに? 足に……なにか……。  足首には人の手がかかっていた。血に染まった真っ赤な手が、細いテオの足首を握っている。テオが立っている周囲は赤黒い血が広がり、その中から兵士が這い出してきた。  ――テオハルト様……、どうか、お助けください……。  テオに助けを求める手は一人だけではなかった。辺り一面から手が伸びて、テオに縋ってくる。  助けたい、けれど全員は助けられない。胸が苦しくなり、周囲の恐怖と痛みに飲み込まれてしまう気がして恐ろしくなった。  ――無理だっ。僕では……みなを救えないのだ……っ。父王さまっ! 待って! 行かないで!  そんなテオを置いて、父と兄は歩き出し光の中に消える。二人は一度も後ろを振り返りもせずに。必死に父を呼ぶテオだったが、その声はいつの間にか掠れて出なくなり、足元から血の海に飲み込まれていった。 「……ぁあ、いやだ、助け、て……父王……さま」 「テオ、テオ」  呼ばれる声に気づいたテオが、ゆっくりと目を開けた。薄暗い中に、ベッドサイドのランプが揺れている。辺りを照らすその光が、兄の横から差していた。ヘクターは白い長袖のシャツに、首には布をいくつも重ね合わせたクラヴァットを巻いている。いつもの兄だ。 「テオ、うなされていた。大丈夫か?」  ヘクターがやさしく声をかけてくれる。テオは自分がどうなったのか理解できていなかった。 (確か……父王さまと兄さまを追いかけて……)  たくさんの手に引きずり込まれる恐怖を思い出して体が震えた。ガチガチと歯が鳴り、寒いのか暑いのか分からない体には、全身にびっしょりと汗をかいている。体のあちこちが痛く、骨が軋んでいるような感覚にパニックになった。 「や、嫌だ……っ、た、助けて……っ、嫌、嫌だ……っ」  目の前のヘクターに縋りつこうとして手を伸ばすが、いつものように体が動かない。兄の袖口に触れるのがやっとだ。おまけにテオの声はほとんど掠れて出ていない。それを自分で気づけないでいた。 「テオ、落ち着け。大丈夫だ。私はここにいる」 「兄さま……兄さまっ……僕はもう、もう……無理、無理なんです――。もう……」  呼吸が荒くなる。兄を見上げる目には涙があふれて溜まった。瞬きをすると眦をいくつも涙が零れる。 「テオ、ここは城のお前の部屋だ。戦場ではない。お前は戦地で倒れて、連れ帰られた。もう床について三日目だ」  ヘクターがテオの肩を押さえて、落ち着かせようとしてくれる。毛布の中で暴れていたつもりのテオだったが、ほとんど手足は動かせていなかった。 「えっ、あ……、三日?」  兄にそう言われて、ようやくテオはヘクターの目を真っ直ぐ見た。涙でぼやけた兄の顔が焦っている。心配そうな顔でこちらを見下ろしていて、肩口の乱れた毛布を整えてくれる。 「そうだ。三日も意識が戻らなかった。今はかなり高い熱が出ている。体も、相当つらいだろう」 「はぁ、……そう、なのですか」  額には濡れた布が乗せられている。ヘクターがそれで顔の汗を拭ってくれた。そんなことはテオの世話係がするのだが、兄は構わずにテオの面倒を見てくれる。 「怖い夢を見ていたのか?」 「……はい」 「どんな夢だ?」  ヘクターにそう問われて、心配そうにテオを見下ろす兄から視線を外した。見慣れた天井が薄闇の中ボンヤリと見える。夢の内容ははっきり覚えていた。けれどそれを言葉にするのはあまりにもつらい。 「いや、言いたくなければいい」  兄の手がテオの額に触れていたが、それが離れていく。少し寂しい気もしたが、きっと体調がよくないので弱気になっているのだろう。 「兄さま、戦は、どうなりましたか」  ヘクターがここにいてすっかり全身から闘志が消え、血の匂いもしないところをみると、戦は終わったか休戦になったのだろう。しかしテオはそれでも気になった。 (僕は、最後までできなかった……父王さまは、がっかりされているだろうか)  落胆を滲ませた顔で視線を落とすと、ヘクターの手が額ではなく髪に触れてきた。 「戦は終わった。今回はすぐに決したぞ。テオが頑張ってくれたからだ。父上もそうおっしゃっておられた」  ヘクターの言葉にテオは目を見開いた。まさかそんなふうに言ってくれているなどと想像もしなかった。役に立てたのならそれでいい、とテオは思っていた。 「また体が元気になったら、戦地へテオを連れて赴きたいと」 「あ……、また戦争が始まるのですか?」  テオの心臓が重苦しく打った。戦争は終わったばかりなのに、もう次のことを言われて戸惑うしかない。そもそも、何度もあるものだとは思っていなかったテオは、強ばった頬を引き攣らせた。 「当たり前だろう。エンリータとはもう先代からの因縁だ。この戦が終わるときはエンリータが滅んでリカドールが完全勝利するしかない」  早く体を治して次の戦に備えるのだ、とヘクターに言われ、兄がどうしてテオにやさしいのか理解した。 (兄さまは……僕の体が心配なのではなく、僕の力を戦地で使いたいだけなのだろうか……?)  もしかしたら父もそうなのではないだろうか、と頭の片隅にそんな気持ちが湧き上がった。あの地獄のような光景をまた見なければいけないのか。自分が何者なのか分からなくなるような、あの恐ろしい空間へ身を置かなければだめなのか。  そう考えてテオの体が拒否反応を示すように震え始めた。消えない恐怖が体の奥深くにこびりつき、それが徐々に全身を浸食して蝕んでいくような感覚に叫びだしそうになる。 「今はゆっくり休め。また戦が始まったら、活躍すればいいのだ」  やんわりと微笑む兄を怖いと思った。きっと父や兄の方がテオよりも酷い惨状を目にしているはずだ。命の危険と背中合わせで、気を抜けば一瞬で決するような場所にいた。それなのに笑って次を考えられるなんておかしいと思った。 「兄さま、僕にはどうしてこのような力があるのですか? 傷を癒やせる力など……なければよかった」 「お前の力は、それは神からの賜だ。私や父のように剣の能力ではなく、人を癒やす力を授かった。それは感謝するべきことなのだ」  そうは言われても、あの地獄を体験したテオは、これが神からの贈り物だとは思えなかった。この力さえなければ、とそんなことばかりを考える。 「テオ、強くなれ。強くなって、その力の本当の意味を知るのだ。お前は私や父よりも優れていると理解しろ」 「ですが……」 「戦は先代からずっと続いている。テオ、お前にはこの道しかないのだ」 「……っ!」  テオは兄の顔を見ていられなくなった。この地獄を生きるしかないと言われたような気がして体が震えた。ゆっくりと体を横にしてヘクターに背を向ける。なにも見たくない聞きたくないと、毛布の中で体を丸くした。  ヘクターはそんなテオになにも言葉をかけず、そっとベッドから離れたようだった。そして部屋の扉が開く音が聞こえ、そのまま部屋の中から気配が消えていく。  テオは声もなく泣いていた。この能力を父も兄も頼りにしていてくれたのは知っている。  自分の特殊な力に気づいたのは、母が亡くなって間もなくだった。テオの部屋にあるテラスから続く階段を下りると、裏庭に出られるようになっている。その庭の先は広大なバラシア樹海だ。  その裏庭は庭師たちが、常に美しい花を愛でることができるようにと、手入れを怠らない。しかしテオが裏庭を散歩していたとき、傷ついた薔薇を見つけた。  ――かわいそう。  そう言って薔薇の棘があるにもかかわらず、その茎を手の中に包み込んだ。早く治りますように、とそんな思いだった。しかし手を放すと薔薇の傷はなくなっていた。テオの手にも棘で傷があったにもかかわらず、それが目の前で消えてしまったのだ。テオ自身は、願ったから消えた、と思っていたのだが、その様子を見ていた庭師たちはざわめいた。  ――神だ……。  庭師の一人がそう呟いて、どこかへ駆けていった。それからすぐに父と兄の知るところとなり、テオの特別な力が露見したのである。  母が生きていた頃は、父に似ていないことでずいぶん寂しい思いをしていた。しかしその父がテオの力を知ると、今度は打って変わってやさしくなったのだ。  それがどうしてなのかはテオには分からなかったが、父に微笑みかけられ頭を撫でられ、早く大きくなれよと言われるのが誇らしく、テオの自信にもなっていた。  そして六歳になった今、勇んで初陣に挑んだのだ。しかしそこに待っていたのは、目を覆いたくなるような地獄だった。  テオは悪夢にうなされ三日三晩の高熱に苦しんでいる。精神的なものなのか、それとも力を使いすぎた肉体的なものなのかは分からない。あの戦場からどうやって帰ってきたのかも分からず、目が覚めると自室だった。  兄はやさしかった。テオの汗を拭い、よく休めと言ってくれた。しかし最後には次の戦について言われ、それは信じられない思いだった。  テオの熱は四日目に下がり、ようやくベッドに座って食事を採れるようになった。しかし気持ちは全く浮上しない。またあの場所へ連れていかれるのかと思うと、考えるだけでも気が変になりそうだったのだ。 「殿下、もう少しお食べになってはどうですか? スープだけでも」  ベッドの上に乗せられたテーブルには、スクランブルエッグにコーンの香りが立ち上るスープが並ぶ。しかしひと口食べただけでスプーンを置いてしまった。隣で見ていた世話係のライドが心配そうな顔で食事を勧めてくる。 「……味がしないのだ」  何度咀嚼しても卵の味も風味も感じられなかった。ただ口の中にやわらかな卵の感触しかない。嚥下するのもつらく、静かにスプーンを置いたのである。 「殿下……」  部屋の中には、大きな明かり取りの窓から朝日が差し込んでいた。開け放たれ、暖かな空気が流れている。ときどき裏庭の薔薇の香りがテオの鼻孔を心地よく刺激した。  遠くに広がるのは濃い深緑の絨毯で、あの中に飛び込んでしまいたい気持ちになる。しかしライドを困らせるのは忍びない、とテオはスプーンを手に取って卵をひと掬いして再び口に運んだのだった。  寝込んでからしばらくして、ようやくベッドから出られるようになった。しかし以前のように裏庭でテオの笑い声は響かない。いつものように散歩をするが、その目はどこか遠くを眺めている。 「殿下、あちらの薔薇が綺麗に咲きました。見に行かれてはいかがですか?」  庭師のヴァンスが声をかけてくる。ウルリヒよりもずっと年嵩の男性で、まるでなにかが入っているかのような大きなお腹が特徴的だ。 「ヴァンス……。いや、部屋に戻るよ」  テオはヴァンスの顔を見ずに、魂の抜かれたような目でボンヤリと答えた。そのまま部屋に続く階段を上る。後ろからヴァンスが不安げで心配そうな視線を投げかけているとは微塵も想像しなかった。

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