3 / 5

第3話

 父を尊敬し目標としているヘクターは、戦に関しては厳しい面がある。僅か十一歳にして一人前に戦へ出るのだ。そんなヘクターから見たら、テオはまだ六歳だが軟弱に映るのだろう。 「僕は、父王さまのお馬に乗りたいです」  不服を顔に浮かべてそう言うと、ヘクターの涼やかな目がテオを睨んだ。その視線にテオはビクッと体を強ばらせた。 「父上は前線に行かれるんです。私やテオのように足手まといがいると、父上の邪魔になります」 「僕は邪魔になんてならないですっ! 父王さまのお役に……」 「テオっ!」  兄の叱咤が飛んできた。今度こそもう口答えはできなくなる。ヘクターが本気で怒っているのが分かったからだ。そんなテオの前にウルリヒが膝を折り、同じ目線に下りてきた。そしてテオの両手を取り手の平を上に向ける。 「テオ、お前にはとても大事な仕事がある。この手を使って、お前にしかできないことをするのだ。私もヘクターも、お前が必要だ。だから初陣を認めた。それは分かるな?」  ウルリヒに諭されるようにそう言われ、自分が頼りにされていると知って驚いた。不満げな顔は光が差したように明るくなり、瞳は期待と気力に満ちていく。誇らしげな表情で父の目を見てテオは頷く。 「はい、分かりました。父王さまと兄さまのお役に立てるように、僕、頑張りますっ!」  たとえ一人で馬に乗れなくても、剣を振れなくても、ウルリヒやヘクターから頼られていると分かりうれしかった。 (僕も父王さまのために頑張らなくては)  ウルリヒがヘクターを連れて騎士団長のもとへ行ってしまい、出発までうろうろしないで待っていなさいと言いつけられた。しかし初陣のテオにとっては騎馬隊長や騎兵隊長などが集まるこの場所はとても興味をそそられる。好奇心は抑えられず、言いつけを破って中庭を散策し始めた。 (そうだ。母さまからいただいたあのお守り、持ってくるのを忘れてしまった)  テオは踵を返して城の中へ駆け込んだ。マリアナが亡くなる前に、テオが戦へ出るようになれば必要だからと、手製のお守りを作ってくれたのだ。手の平に乗るほどの小さな袋の中に、青い小石が入っている。国色の美しいその石は、母がこの城に来たときから大切にしていたものらしい。それをテオに持たせてくれた。 (いつもは起きたらすぐに首から下げるのに、今日は――)  初陣だと思うと落ち着かなくて、すっかり忘れてしまったのだ。ようやく二階の自室に辿り着いて扉を開けようとしたとき、目の前にアデリンが姿を見せた。ウエーブのかかった美しい銀の髪は腰ほどまであり、ヘクターと同じグリーンの冷たい瞳がテオを見下ろす。 「おや、テオ? 今日は陛下に付いて初陣ではないのですか?」 「は、はい。初陣で、ございます」  アデリンに向き合ったテオだったが、実はこの王妃が苦手だ。言葉はやさしいのに目が笑っていない。まるで忌み嫌う者を見るような、そんな雰囲気をアデリンの視線に感じる。  だから彼女の前に立つと体が萎縮し、言いたいことの三割もしゃべれなくなるのだ。 「ならば陛下の足手まといにならぬよう、ヘクターの邪魔にならぬようになさい。そなたのせいで二人の命に危険が及ぶような事態になれば、私はあなたを許しませんよ」  頑張りなさい、とアデリンが冷ややかに微笑んだ。しかしテオは彼女の敵意や憎しみを感じ取り、返事すらできなかった。アデリンはいつもと変わらず、パールホワイトを基調にした美しいドレスに身を包んでいて、優雅に裾を翻して行ってしまう。その後ろ姿を見て、ホッとしたテオはようやく部屋に入る。 (王妃さま……僕がお嫌い、なのだな。母さまのことも、あまりよく思っていなかった。僕、なにかしたのだろうか……)  ついさっきまで勇んでいた気持ちがすっかり萎んでしまった。テオはベッドサイドテーブルの引き出しからお守りを取り出す。それを首にかけて、小さなキャメル色の袋を両手で掴んだ。胸の前で握りしめ、母を思って祈る。 (母さま、僕は見事に初陣を制して帰って参ります)  人とは違う能力がある自分に感謝をして、テオはヘクターの操る馬に同乗し戦地へと赴いたのだった。  隊列を組んで戦線拠点を目指す。背中に兄の気配を感じながら馬の背に揺られるテオは、隊列する他の兵士を観察する。若い者もいれば父と似た年齢の者もいた。辺りには馬の蹄が土を蹴る音が地響きのように聞こえ、巻き上げられた砂煙で僅かに霞んでいる。 「テオ、あまりキョロキョロするな。しっかり前を見ていろ」 「……っ、はい、兄さま」  そわそわ落ち着かなくて仕方のないテオだったが、兄に注意されて慌てて前を向いた。  馬で移動して数時間、到着した場所は辺りをぐるりと見渡せる高台だった。すでに先遣隊が到着していたのか、たくさんのテントと国旗が立てられてある。小高い丘になっているこの場所は、敵の侵攻があってもすぐに発見できるいい陣取りだった。辺りにはまだ緊迫した空気は流れておらず、夕焼けが周囲を美しい朱色に染めていた。 「綺麗だ」  兄の馬から降りて景色を望む。橙色の中に薄紫や紺碧が混ざり合い、遠くに見える森も、足元の乾いた大地も幻想的に染め上げている。ほんの僅かの間、その景色に心が奪われた。  その後、テオは陣の一番奥にある大きなテントに案内される。そこには人一人が横になれるほどの麻布がいくつも敷かれていて、ガランと寂しい印象の場所だ。一番奥に足首まである濃紺のワンピースに白いエプロンをつけた女性が作業をしている。 「ああ、殿下……来てくださったのですね。私は救護長のハンナと申します」  細身で年嵩の女性はテオに愛想よく自己紹介をしてくれた。その広いテントにはまだ誰もいない。 「ここは……」 「こちらは戦闘が始まりますと大忙しになります。他に私を手伝ってくれる人間がおりますが、殿下がいらっしゃれば百人力ですよ」  ハンナがワンピースを抓んで持ち上げ、テオに頭を下げながら屈む。そしてテオの手を取り、手の平を上に向け唇を寄せ敬意を表した。 「僕は、僕にできることをすると父王さまにお約束した。だから任せて欲しい」  テオは誇らしげな気持ちで微笑み、ハンナの手を握り返して言う。彼女はありがたいことですと、何度も口にする。そして救護に使う道具などについて説明をしてくれた。  テオの出番がやってきたのはそれから半日ほど経ってからだった。辺りには篝火が灯され、夜戦の準備が進められていた。  そしてとうとう出陣の号令がかかる。まさか夜戦になるとは思っていなかったので、父や兄の姿が見えず不安な気持ちが抑えられなかった。 (父王さま、兄さま、どうかご無事で)  怪我をしただけなら自分が癒やすことができる。だから命だけは落とさないで帰ってきて欲しい、そう願っていた。  戦闘が始まったのが分かる。辺りの静寂が消え去り、大気は馬が蹴り上げた砂煙と風が運んできた血の匂いで充満しているのだ。それとともに怪我を負った兵士が大量に運ばれてくる。 「殿下! こちらを、こちらを先に!」  テントの中は地獄のようだった。なにもなかったがらんどうの空間は、血を流した兵士で埋め尽くされている。呻き声や叫び声、そしてなにより噎せ返るような血の匂いにテオは何度も嘔吐した。しかし手を休めるわけにはいかない。目の前で命の灯火が消えようとしている人がいるのだ。 「血を……血を止めるから、待っていろっ」  太股に深い傷を負った兵士が、出血多量で意識を失っていく。テオはその傷口に両手を当てて集中する。接触している部分が熱くなり、ドクドクと流れていた血がゆっくりと止まっていく。その代わりテオの両手は真っ赤に染まり、着ているローブも青から紫へと変化していく。  まだ六歳のテオにはあまりに過酷だった。傷を癒やしても癒やしても、次々に負傷者が担ぎ込まれてくる。テントに入りきらない兵士は外に寝かされた。その一人一人がすべてテオに向かって手を伸ばしてくるのだ。 「テオ、ハルト……様、殿下……どうか……どうか、助け、て……ください」 「ああ、殿下、痛い、とても痛い……ああ、助けて……」  一度に全ての治癒はできない。一人を治している間に隣の兵士が亡くなる。兵士の視線はテオを見つめたまま、その光が消えていくのを見ているだけしかできなかった。 「ああ……すまない。……すまない」  テオは泣きながら治癒を繰り返す。全身から血の匂いしかしなくなり、テオの感情が死んでいく。僅か六歳のテオに、この惨状を正気で乗り切るのは難しかった。ハンナの言うがままに体を動かし、まるで人形のように兵士の傷口に手を乗せる。  夜が明け外が明るくなり、もう何時間も治癒を行っていたテオはヘトヘトだった。テントの外で呆然として座り込んでいると、補給に帰ってきたウルリヒがテオに気づいて近づいてきた。 「父王、さま……」 「テオ、なにをしている?」  ウルリヒの顔は誰の血か分からないもので汚れていた。黄金に輝いていたあの金色の鎧も、土と血で茶色く変化している。テオを見下ろす父の目は血走り、触れると切れそうな覇気を纏っている。父がまるで別人のように見えて怖くなった。 「父王……さま、僕はもう、無理です……こんな、……もうできません」  それでもテオは助けを求めて、か細い声で訴える。傷を治しても全員を救えなくて、テオの心が悲鳴を上げているのだと。もう休ませて欲しいとウルリヒに懇願する。父なら分かってくれると思っていた。 「テオ、お前の仕事はなんだ?」  父の声は低く地を這うような怒りを含み、今にも斬り殺されるのではないかというほど恐ろしいものだった。 「僕、の仕事は……兵士の傷を治癒する、ことです」 「ならば戻れ」  父に腕を掴まれ、小さな体は軽々と引きずられた。そのまま救護テントの中へ入り、テオは地獄に放り込まれる。 「お前の仕事はここで兵士の傷を治すことだ。初陣なのだろう? やり通せ。お前にしかできないことをやり通し、父にその雄姿を見せよ」  呆然として座り込んだテオの足に、誰かの手が掴みかかる。右腕にも兵士の手がかかった。ビクッとしてそちらの方を見ると、負傷した兵士が這うようにして近づいてくる。 「ひっ……!」 「テオハルト、様……痛いのです、どうか、早く……早く治癒を……」 「助けて……痛い、痛い……助けて、あ……助け、て」  怖くなって父の方を振り返ると、マントを翻しテオに背を向けテントを出ていこうとする。白い光に父の姿が消えていき、それと同時にテオの中の大切なものが音を立てて砕けていった。

ともだちにシェアしよう!