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第2話

 カーテンの隙間から、薄暗い部屋に一筋の光が濃紺の絨毯に落ちていた。何度か瞬きをすると、眦を一筋の涙が伝い落ちる。 「母さま……」  起きたばかりのテオは、掠れた声で呟いた。上半身を起こし、上手く開かない目を擦る。満ちていた気持ちが一気に萎んでいく。その感覚が切なくて嫌いだった。母の夢を見て、目が覚めるといつもこんな気持ちだ。 「はぁ……」  ため息を吐いてベッドから下りる。今はもうスツールを踏み台にしてベッドを上り下りしていない。だがテオは体型も中身もまだまだ子供だった。今でも母の愛やぬくもりを必要としている。しかしその母も一年前に病で亡くなり、もうこの世にいない。  ――テオ、愛を大事になさい。与える愛も、与えられる愛も。  母は命の灯火が消える前に、そんな言葉を残した。なによりも愛が大切だとテオに教えて旅立ったのだ。あのつらい日から一年が過ぎた。どこにいても感じていた母のぬくもりはもう傍にはない。  その日、城内はピリピリした緊張感に包まれていた。早くに目が覚めたテオは、部屋の扉の隙間からそれを眺めそわそわしている。 (僕も、今日は兄さまと一緒に出陣だ)  六歳になったテオは、今日が初陣となる。準備をするので部屋で待っていろと五歳年上である兄のヘクター・ウォーリナーに言いつけられたのに、我慢できずに顔を覗かせていた。  リカドールは北の国エンリータと長年戦争状態にある。国境になるマスナール山の鉱脈を巡って、先代から争っていた。とはいえ、リカドールが常に貧困に喘いでいる貧しい国だから戦争をしているというわけではない。東には豊かな漁港を有し、大海を挟んでマスルニアとは友好国として国交がある。 城下町にはたくさんの国民が生活を営み、商店が所狭しと立ち並ぶ。だが戦争状態になると国民の生活は一転する。戦争に勝利するため、様々なものを供出しなければならないのだ。そうなると国民の生活はたちまち逼迫する。もちろん人も戦力として駆り出されるので、開戦するのを人々は恐れていた。だがウルリヒ王は戦いを好む血の気の多い君主のため、休戦はあるものの長い間、戦争状態である。  ラニステル城はリカドールの一番奥に城を構えていた。その城の後ろにはスンドラ山が聳え、麓の南西、標高九二〇から一三〇〇平方メートルにバラシア樹海が広がる。  何人をも近づけないその樹海には、獣人が住むという噂が昔からあった。樹海の奥へ入れば獣人に食われるとか、神隠しに遭って姿を消すと噂されていた。上手くして出てこられても、魂が抜かれ生きた屍にされてしまうのだという。そんなこともあり、リカドールの国民も他国の人間も誰一人として近づかない。その樹海を背にしているラニステル城は、難攻不落の樹海城と呼ばれていた。  しかしそうは呼ばれてはいるが、その美しいた佇まいは不穏なものではない。朝日に照らされるとその白い城壁はいっそう輝き、夕方になると城下町に並ぶ家々の屋根はさらに赤く濃くなり、城は勇壮なオレンジに染められる。ラニステル城が白いのは一度も血に染められたことのない城として有名で、戦では百戦錬磨を誇っていた。  城にいくつもある青い尖り屋根はテオのお気に入りだ。夕日に照らされると幻想的な紫色になり、その瞬間を見るのがとても楽しみだった。  リカドールの王族は代々戦を好む一族で、血の気が多く勇ましい人物が多い。それは現王のウルリヒも同じで、しっかりと王族の沸き立つ熱い血を継いでいた。  まもなく休戦が終わり、国民の恐れる戦争が始まる。しかしテオは国民がそんな思いをしているとは微塵も知らない。今日の初陣を誇りに思っているし、これでようやく一人前の男として認められると誇らしい気持ちなのだ。 (まだだろうか。僕も早く準備したいな)  城の中を使用人たちが忙しそうに行き来している。そしてようやくテオのもとにも世話係がやってきた。 「テオハルト様、まだお部屋でお待ちくださいと申し上げましたが」  世話係のライドもすっかり戦の準備が整っている。いつもは身につけていない胸当てや、脇には鞘に収まった長剣が下がっている。それを見るとテオのテンションも上がってしまうというものだ。 「ライド、早く僕にも剣を持たせてくれ」  テオの傍にやってきたライドの手を取り、部屋に引っ張り込んでせがんだ。しかしライドの表情は苦渋を含んだような顔で、それがどうしてなのか全く分からなかった。 「テオハルト様は剣をお持ちになれませんよ?」 「え? どうしてなのだ?」 「剣の練習をなされておられませんし、これはとても危険なものなのです。練習なくして、手にすることは叶いません」  テオの前で跪き、シャツを着せてズボンを穿かせ、膝上まである青いローブを着せながらライドが言う。その言葉に不服を覚え、テオの唇はツンと尖った。 「だが僕は今日が初陣なのに、剣を持てないなんておかしいではないか」 「戦場は遊び場ではございませんよ。リカドールのために命をかけて戦う場所です。それにテオハルト様には特別な力がおありなのですから、王もそれを期待されているのですよ」  ライドと話しながら、テオの準備は着々と進んでいく。鏡に映る自分の姿はいつもの着衣とはまるで違う。違うのになんだか戦場へ行く格好ではない姿に不満いっぱいだ。  青のチュニックローブは、腰の辺りを茶色の革ベルトで締められている。下は白いパンツと黒の膝丈ブーツを着用させられた。  青はリカドールの国色だ。白地に青のラインが中央で交差し、その真ん中には赤い円に囲まれて鷹の紋章が金刺繍されている。美しく威厳のある国旗だ。その国旗が城の様々な場所に掲げられていた。 「僕も父王さまや兄さまのお力になりたいのに」 「テオハルト様は、テオハルト様ができる一番のことをなさるのです。はい、準備が整いました。中庭へ参りましょう。陛下がお待ちです」 「うん」  テオは黒くて大きな瞳に期待を滲ませる。額を隠す細くやわらかなテオの髪がふわふわと揺れた。  ライドとともに中庭に出てみると、青く抜けるような雲ひとつない空が広がり、春の風がテオの頬をくすぐる。そこにはたくさんの兵士たちの姿があった。みな鎧を身につけ剣を装備し、中には身長より長い槍を持つ者の姿もあった。騎馬隊も準備はできているようで、鎧を纏った馬が興奮気味に鳴いていた。 「父王さま!」  その中でひと際強いオーラを放つ父、ウルリヒ・ウォーリナーの姿がある。金色に輝く荘厳な鎧に身を包み、青いマントを風に靡かせている父のもとへテオは走った。 「テオ、準備はできているのか?」 「はい、父王さま! ですが、僕も一人で騎乗したいのです」  父を見上げたテオは勇ましくそう申し出る。本当は剣を持ちたい、と言いたかったが、剣の練習をしていないのはテオ自身が分かっていた。だからせめて一人で騎乗したいと思ったのだ。 「馬はまだ早かろう。もう少し大きくなってからだ」  テオはまだ一人で馬に乗れない。練習はしたのだが、どうしても体格的な問題で小型の馬でも乗りこなすのは難しかった。仕方なく初陣は兄と同乗することになっている。それでも一人前の男として扱って欲しいと願うテオの、精一杯の背伸びだった。  父がテオの頭をやさしく撫でてくれる。長身で体格がよく口髭の立派な父は、普段はテオにもやさしい。しかし戦となると人が変わったように恐ろしくなる。そんな父を見るのは少し怖かったが、憧れの存在には変わりなかったので尊敬する気持ちは尽きない。 「父上、テオは僕と一緒に参ります」  まだあどけなさを残す兄のヘクターが姿を見せた。たった五歳違うだけなのに、ヘクターは銀色の鎧を身につけ乗馬も一人前にこなす。  ヘクターは長い銀髪に切れ長でグリーンの美しい瞳を持っており、テオとは全く似ていない。それもそのはずで、二人の母親は異なっている。  マリアナを第二王妃として迎えたのはウルリヒの独断だった。すぐにテオが生まれ、リカドールには二人の王子が誕生した。  第一王妃、ヘクターの母アデリンは美しい女性だが、気が強く自己主張が激しかった。第二王妃を娶る際も、ウルリヒとかなり揉めたと聞く。しかしその話もテオが生まれる前の出来事だ。マリアナが亡くなった今は、母の生まれやウルリヒとの出会いがどうだったのかテオは知らない。  しかし母が違っていても、兄のヘクターはテオによくしてくれていると思う。城の使用人たちは、ヘクターのテオに対する態度が冷たく情がないというのだが、テオ自身はあまりそう感じていなかった。

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