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優しい人(第9話)
「……さん、……りさん、日和さん!!」
「サキさ……ん?」
胸を押さえ、安堵の笑みを浮かべたサキさんが滲んだ世界にいた。
「僕……どうして……」
起き上がろうとすると、サキさんが背中を支えてくれ、安全に座れた。
かの──彼がベッドに膝を乗せるとベッドがぎしっとした音を立てる。そっぽを向かれてしまう。
血流と酸素が回りだしたおかげか、プレイを無理矢理中断させてしまったことを思い出した。
「ごめんなさい……。僕、サキさんに嫌な思いさせるつもりではなくて……」
本当だ。お仕置きを甘んじて受け入れた僕も僕なのかと思うけれど、サキさんは悪いことをしていない。
「突然意識を飛ばしてごめんなさい! プレイを中断させられて怒っているんですよね……」
サキさんはうんともすんとも言わなければ僕を視界にも入れてくれない。やっぱり怒っている。
使えないデブのSubの男だ、と。心地良くなっていたのに、と。ガッカリしたに違いない。
握り締める拳に手汗が溜まり、小刻みに震えていた。心の中には黒い霧が発生する。モヤモヤして掻き毟っても取れない。
「本当にごめんなさ……」
一瞬、目の前が真っ暗になり、体に重みが増した。
状況が把握出来ず混乱する。抱き締められていると気付いたのは腕が背中に回ってきたからだ。
「ダメなことがあったら意地でもセーフワードを言わなきゃダメだよ」
肩から聞こえてきた低い声。怒りの篭ったとても小さな声だった。
セーフワードとはSubが行為中に使用するとDomは行為を中止せざるを得なくなるワードだ。さっきサキさんが説明してたように、支配されるSubが支配するDomの動きを止められる、唯一で絶対なワード。行為前に必ず決めなくてはならないとされている。
「お仕置きとは言ったけど、日和さんの身と心の安全を守る為だから、無理とかあったら言わなきゃね」
そう、セーフワードはSubにとってとても大事なもの。Domにいくら欲があろうが、Subの気持ちを尊重しなければ信頼関係は築けない。ただ危害を加え、命の危険を晒すことになる。
「ごめんなさい……」
僕は気持ち良かったのだが、きっと僕のために怒ってくれてる。ううん、きっとじゃなくて絶対。
「こっちこそごめんね……」
「なんでサキさんが謝るんですか。僕の方が……」
(意識を飛ばしたのも耐性がなかったからだ。サキさんのせいじゃない。昔のゆめを見たのも偶然)
「ううん、謝らなきゃいけないのはこっちの方。ごめんなさいね、辛い記憶を蘇らせてしまったわ」
「ゆめの内容……」
「うなされながら呟いていたの。平気よ、私しか聞いていないから。……日和さんが目覚めてくれて本当に安心したわ」
抱き締める腕に力が入る。花の香りがするのはシャンプーや香水なのか、サキさん本来が持つ匂いなのか。
同じ男性でもこんなにも違うものなのかと思う。
(凄くほっとする香りで、温かい体温だ……)
心配してくれたのに安心するのは失礼な事なんだろう。
でも、本当に嬉しくなってしまう。誰かに抱き締められて体温を直に感じるのも、僕の安全のために怒ってくれるのも久々な感じがして──、
「……あれ?」
ぽろっと出た涙。突然のことに驚いてしまっていると、汗ばんだ髪を撫でられる。
「よく頑張ったね。良い子、良い子」
「サキさ……」
「お仕置きも耐えて良い子。でも、辛い過去を耐えた日和さんはもっと良い子」
心臓が跳ねた。蕩けるほど甘く優しい肯定に、心に凝り固まったものが解れていく。染み付いた嫌な記憶が流れ出す。
「ち、違います。僕は……僕は、昔を理由にし、て……女性から逃げていただけ、なんです……。甘えてただけ、なんです……」
辛い過去から目を背け、現実に向き合おうとしなかった臆病者。女性苦手もどこか甘えていたのかもしれない。
随分時間が経った今も瘡蓋は完治しない。なんて情けないんだ。
泣き始めたらしゃっくりが上がり、内容を上手く伝えられない。ただでさえ意味不明なのに、聞くだけで苦痛で呆れそうな昔話なんてしちゃダメだ。
「女装してる私は怖くなさそう?」
こくこく頷いたのも嘘ではなかった。男という事実を知っているのもあるが、サキさんの雰囲気は素敵だった。
(そういえば、どうしてサキさんがカミングアウトする前に視線を合わせても平気だったのかな)
頭を撫でながら、彼は目元を和らげた。
「なら、私に甘えたらいいよ。辛かったこと全部吐き出してもいい。泣いてもいい。たくさん私に話して? 少しでも受け止めてあげるから」
「僕は、そんなことして貰えるような価値は……」
「なんで? 日和さんは心にウソを吐きすぎだよ。聞いて貰いたい、褒めて欲しいってちゃーんと顔に書いてある」
とんとん、とん。背中が小刻みに叩かれる。早くもなく、ゆっくりでもない。一定のリズム。
(ダメ……、なのに)
もうダムの崩壊はそこまで来ていた。
「ここには私たちしかいない。お仕置の褒美……ううん。アフターケアだと思ってみたらどう?」
アフターケアとは支配されて心身共に疲労困憊したSubをDomが癒やしてあげる大切な行為だ。
きゅううと締め付けられた胸。鼻の奥が痛み、視界はゆらゆらと揺れる。
「本当に……女々しいんですよ、僕。子供の頃のこと、未だに引きずってるんです……よ?」
「いいよ」
頑張って踏み止まっていたものが、壊れていく。
「今の、親友に対してなんです……よ? 馬鹿げてます、よね……」
「大丈夫」
とんとん、とん。
そんなに優しく叩かれたら、嫌なこと、全部出ちゃうじゃないですか……。
「ひっ、ふぁっぐ、わああー!!」
ぼろっぼろと両目から溢れる大粒の涙。
とんとん、とん。
「ああー……あぁ、ああ、ああ……!!」
とんとん、とん。
「ぼぐ、菌類じゃ、な……ッ、いのに……!」
「うん。日和さんは汚くなんかないよ」
とんとん、とん。
「おも……らししたのはそうだ、けど。ども……だぢで、いでぐれたらそれだげで……よがっだのに……っ!!」
「うん」
「なん、なんでぇ……いじめでぎだの……ッ! もう、おんな……のこ、ごわくで、ごわくで……ごわぐなって……! な、なんで……しらな……い、ふりじだ……の……っ。ぼぐが、Subだから? みんなといろいろちがうがら? んで、なにもながっだ……ように、よっでぐるんだよおお……っ。あぁ……ああ!」
「……そっか、そっか」
もうぐちゃぐちゃだった。サキさんが背中を叩いてるくれないと、触れていてくれないと現実と過去の区別すら出来ない。
「一人でよく今まで頑張っていたね。日和さんが落ち着くまでずっとこうしておいてあげるから、今は安心して泣いてもいいんだよ」
秒針のようなリズムと、子供の泣き声が二人だけの部屋に響き渡った。
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