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第31話
そうして、残りの診察も滞りなく済ませた山岡は、12時半を回った頃、消化器外科病棟に上がった。
今日はフリーだった日下部は、もう待っていないかな、と思いながら、昼をどうするかと見回した病棟で、近づいてきた看護師が山岡を呼び止めた。
「山岡先生」
「はぃ?」
「日下部先生から伝言です。急変処置が長引くから、お昼お先に、だそうです。抜くなよ、と念を押していらっしゃいましたよ」
クスクス笑いながら教えてくれた看護師に、山岡は苦笑した。
「わかりました。ありがとうございます」
ペコンとお辞儀をする山岡の顔に、さらにパサッと髪の束がかかる。
相変わらず表情の見えない山岡に苦笑して、伝言を済ませた看護師は忙しそうに立ち去って行った。
「んじゃ、パンだ」
日下部がいたらうるさいだろうけど、山岡1人なら簡単な食事を気にしない。
午後から手術予定が入っているため、少しでも休んでおきたい山岡は、売店でパンを1つ適当に買って、定位置の中庭隅で、1人のんびり昼食を済ませた。
午後の2時過ぎから予定していたオペに入り、ほぼ時間通りにそれを済ませた山岡は、白衣に着替えて、医師用の休憩室に向かっていた。
スタッフオンリーの階段を使い、たどり着いた休憩室の扉を開ける。
そこは、消化器外科医限定というわけではなく、他科の医師もみんな使う共用の休憩室だ。
なのに今、中にいたのは、消化器外科医、日下部が1人だった。
「ん?山岡先生、お疲れ様」
テーブルに飲みかけのコーヒーを置き、椅子に座っていた日下部が、山岡を見てニコリと笑った。
「あ、日下部先生。お疲れ様です」
ゆっくりと奥の自販機に歩いて行きながら、山岡も薄く微笑みを浮かべた。
「オペだっけ?無事終了?」
「はぃ」
「昼、ちゃんと食べた?」
ん?と聞いてくる日下部から、反射的に目を逸らしながら、山岡はコクンと頷いた。
「本当に?」
怪しい山岡の態度に、日下部が目を細める。
不穏な空気を感じたか、山岡がギクリと身を強張らせながら、ぎこちなく日下部を振り返った。
「た、食べましたよ、ちゃんと…」
「ならいいけど。何食べたの?」
さりげなく聞いているようで、しっかりとチェックする気満々な日下部から、またもフラリと視線を泳がせてしまう山岡。
疚しそうなその態度に、追求をやめる日下部ではない。
「山岡先生?」
「あ~、えと、色々です、色々」
誤魔化そうとしすぎて、ものすごくお馬鹿な答えになっていることに気付いているのか。
山岡の完全に怪しい態度に、日下部がゆっくり椅子から立ち上がった。
「本当は食べてない」
ジリジリと近づいてくる日下部から、ジリジリと後退りながら、山岡はブンブンと首を振った。
「た、食べましたよ!」
断言する山岡に、日下部はスゥッと目を細めた。
「じゃぁパン1個か」
「っ!」
ギク、と強張ってしまった山岡の負けだった。
鋭い日下部に真相を暴かれ、山岡が怯えた表情で間近まで来ていた日下部を見上げた。
「そんな上目遣いで可愛い顔して見せてもな」
「かわっ…、な、なにを…」
「本当、俺が見てなきゃ、食にこだわらないってわけね」
「う…」
「医者の不養生って言葉、知ってる?」
「し、知ってますよ…」
「それ、山岡のことだよね」
クスッと笑って、山岡の顎を捕らえてきた日下部。
「っ…」
「抜いた、って言わなかったところは褒めてあげるけど、1人でももう少しまともなものを食べなさい」
メッ、と子どもにするみたいに軽く拳骨をした日下部が、ゆっくりと顔を近づけてくる。
「まぁ、パンでも食べないよりはマシだったから、お仕置きはしないけど…」
言いながら、ぶつかるほどに近づいた日下部の顔に、山岡が思わず目をつぶった瞬間、チュッと触れるだけの軽いキスが落とされた。
「っ!なっ…こっ…くっ…」
「ん?なに、こんなところで、日下部先生、って?」
アワアワと焦りを浮かべ、慌てて誰もいない休憩室内を確認し直している山岡に、クスクス笑いながら途切れる山岡の言葉を翻訳して、日下部はそれはそれは楽しそうな笑みを浮かべた。
「大丈夫。うちがオペ日なんだから、他の科はほとんどカンファ中だよ」
「っ…でもっ…」
「まぁ、スリルはあるよね」
楽しい、と笑う日下部の神経が、山岡には理解し難かった。
「っ~!」
「ふふ。まぁそれはさておき、山岡、本当にさぁ…」
「……」
「お医者さんなんだから、もう少し自分の健康にも気を使おうな」
患者ばかりじゃなく、と少し真面目な顔をする日下部に、山岡はふと思い出すことがあった。
「あ、はぃ。そうだ、あの、今日…」
「ん?」
「夕食なんですけど、今日はオレ、いいので」
「どうして?」
「ちょっと約束があるんです。そっちで食べて帰るので」
すみません、という山岡に、日下部はニコリと笑った。
「わかった。友達?」
「はぃ…」
「男?」
さりげなく聞いてくる日下部に、山岡はなんの気なくコクンと頷いている。
「はぃ」
「ふぅん。りょ~うかい」
ジーッと眺める山岡の顔に嘘はなさそうだ。日下部は、ひと通り山岡を観察してから、ゆっくりとその場を離れて、元座っていた椅子に戻った。
(山岡が浮気はないだろうが…。友達、いたんだな)
失礼だが、あまり対人関係が得意ではない山岡を知っているが故の感想を浮かべながら、日下部はもう随分冷めてしまったコーヒーの残りを飲み干した。
自販機の側では、山岡がペットボトルの暖かいお茶を買って一息ついていた。
そうして、勤務終了後。
珍しくバラバラに帰る山岡と日下部に、看護師たちの根も葉もない噂がまことしやかに囁かれていたとも知らず、山岡は病院を出たところでタイミングよく掛かってきた川崎からの電話で決まった店に向かっていた。
病院からは多少離れた場所だったが、特にオンコールでもない山岡は、それを気にしなかった。
「あっ、川崎先生。お待たせしました」
「だから、先生、じゃないから」
「あ、あは。なんか、癖で…」
すでに店の前に到着していた川崎と合流し、2人は連れ立って店内に入った。
比較的落ち着いた、創作料理を出す居酒屋だ。
席に案内され、早速メニューを開いた川崎が、さりげなくそれを山岡の方に向けてくれる。自分が逆さになってしまうのに、それに構わずサラリとそういうことができる男だ。
「山岡先生、飲める?」
「う~ん、オンコールじゃないんですけど…やめときます」
「ん。料理は何がいいかなぁ」
「あの…川崎先生、あまり無理しないでくださいね」
「うん。でも、食べられるときは食べたいし、調子が悪かったらちゃんと言うから」
ニコリと微笑む川崎に、山岡はふんわりと微笑み返した。
「はぃ」
「山岡先生は遠慮しないで好きなもの食べなよ」
「はぃ…」
どうしても暗くなりがちな空気をなんとか浮上させ、2人は何品か料理を選び、注文を済ませた。
「…山岡先生、元気そうでよかった」
ふと、料理が運ばれてくるまでの間に、川崎がニコリと笑って言った。
「えぇ、まぁ…」
「どうなの?今の病院」
少し心配そうに尋ねる川崎は、かつて、大学病院にいた頃の山岡の過去を知っている。
「悪く…ないです」
「辛い思い、してない?」
「それは、はぃ…」
川崎の懸念がわかる山岡は、薄く微笑んで、小さく頷いた。
「あの頃…」
ふと、川崎が漏らした呟きに、山岡の身体があからさまにビクッと強張った。
「あ、いや、何でもない」
慌ててパッと話を切った川崎に、山岡はゆっくりと身体から力を抜いていきながら、ふわりと微笑した。
「大丈夫です。あの頃、川崎先生は、オレにとても良くしてくれましたものね。オレ、今でも感謝していますよ」
ニコリと笑う山岡は、かつての過去の日々を、少しだけ脳裏に浮かばせていた。
「感謝かぁ…」
ははっ、と笑う川崎も、少し遠い目をして、過去に思いを馳せているのがわかった。
あの頃。山岡がまだ新人と呼ばれる時代で、大学病院にいた頃。
複雑な人間関係と、様々な人間の思惑に、山岡は振り回されていた。
激しい派閥争いに、醜い腹の探り合い。ドロドロとした人間が渦巻く中、山岡は良くも悪くも多くの人間の意識を引きつける、可哀想なターゲットだった。
「もう、敵も味方も、一体自分がどうしてそこにいるのかさえわからなくなりそうだったとき」
「うん」
「川崎先生は、いつもオレの光でした」
「ははっ。そんな大層なものか?」
「っ!そうですよ」
「う~ん…」
「だって、もう人間関係とか、自分の存在とか、わけがわからなくなっていた中で、川崎先生だけが、いつでもオレを、ただの1医師、山岡泰佳だって接してくれましたよね」
懐かしい思いを湧き立たせながら、山岡はかつてのめちゃくちゃな人間関係の中で、味方だと最後まで信じられた川崎のことを思い出していた。
「逃げ出す勇気が持てたのも、今のオレがこうして医者でいるのも、川崎先生のお陰なのが大きいです」
ニコリと笑う山岡は、今はずいぶんと表情が豊かになったな、と川崎は何となく思っていた。
「だから、そんな大層なものじゃないよ。現に俺の方は、折れたし」
くくっと自嘲気味に笑う川崎に何があったのか、先に大学病院を去った山岡は知らなかった。
けれどきっと、あのまま大学病院に残っていたら、医者を辞めたと言っていた川崎の選択は、自分のものであったかもしれないということは、なんとなくわかった。
「川崎先生…」
「だから、先生じゃないってば。クスクス。まぁもう納得しているし、その選択を後悔はしてないから。むしろ、こうして山岡先生にまた再会して、山岡先生が医者でいてくれることを知れて、ますます自分の選択は正しかったと思うよ」
柔らかく微笑む川崎には、本当に医者への未練は感じられなかった。
「なら…ならば今度はオレが、川崎先生を助けます。川崎先生の光になります。絶対に治しましょうね!オレ、精一杯頑張りますから!」
川崎の言葉に、これも巡り合わせなのだろうと思った。
だから山岡は、かつての恩人にも等しいその人を、今度は自分が恩を返す番だと、強く心に決めた。
「天才外科医、山岡泰佳先生に言われると、心強いね」
「ちょっ…それはやめて下さい…」
かつて、先輩後輩の仲だったときも、よくそうして揶揄われた、と懐かしく思い出した。
「でも本当。山岡先生になら、この身、預けたい」
「う…。ありがとうございます。頑張ります」
真っ直ぐな信頼を向けられて、山岡は照れながらも力強く請け負った。
そうして料理が運ばれて、2人はのんびりと雑談をしながら食事を楽しんだ。
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