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第30話
「ふぅ。次の人、呼んでいいですか?」
今日は外来担当の山岡が、1人の患者を送り出し、次の患者の問診票を眺めながら、担当の看護師を振り返った。
「あ、その方、これもですね」
ふと、担当看護師が新たなクリアファイルを渡してきた。
「紹介状?あれ?この病院からなんて珍しいですね…」
ないことはないが、数は多くない紹介状を眺めながら、山岡は手元のマイクに手を伸ばした。
「川崎さん、川崎彗河さん、3番診察室にお入りください」
オンエアのスイッチを押しながら、患者を呼ぶ。
「これは…」
患者が入ってくるまでの間に、紹介状をよく見ていた山岡の顔は、だいぶ厳しいものになっていた。
コンコン。
「失礼します」
「どうぞ。お座りください」
長めの髪に隠れた顔をチラリと上げて、入ってきた患者に椅子を勧める。
素直に座った患者が、何故かいきなりズイッと山岡に顔を寄せてきた。
「っ?!な…」
髪で隠れた顔を覗き込むようにしてきた患者に、山岡はギョッとして身を引く。
それでも一瞬、山岡の顔が見えたのだろう。その患者が、嬉しそうにニコリと笑った。
「山岡先生。山岡泰佳?」
「え…?」
不意に、山岡のフルネームを言い当ててきた患者に、山岡はパッとその患者を見つめた。
診察室の扉には、『担当・山岡医師』としか書かれていないはずだし、本来胸元につけていなくてはならない名札は机の上に置きっぱなしで裏返っている。
この患者は初診だから、知り合いか、わざわざ調べでもしない限り、下の名前を知るはずはない。
「わかんない?」
ニコリと笑う患者の顔をじっと見てから、ハッと問診票の氏名を見直した山岡は、記憶の中にあるその相手に気付いた。
「川崎先生…?」
「あっ、やっぱり覚えていてくれた?嬉しいな」
「はぃ…」
この川崎彗河は、かつて、山岡がいた大学病院の先輩の医師だ。
蘇ってくる記憶に気をとられかけた山岡は、ハッと手元の紹介状を思い出した。
「っ…川崎先生…」
「ん?あ、俺はもう、先生じゃないからな」
「えっ?」
「医者、とっくに辞めてるよ」
ははっと気楽そうに笑う川崎から、スッと視線を逸らしながら、山岡は小さく頷いた。
「そうだったんですか…」
「うん。山岡先生は、ちゃんと続けているんだな。えらいなぁ」
クスクス笑う川崎の笑顔が、山岡には偽物にしか映らなかった。
「で?まぁ、俺も元医者だからなぁ。ははっ、やりにくい?」
手に触れた紹介状をガサリと握り締めてしまった山岡に気付きながら、川崎が苦笑した。
「でも、天才外科医、山岡泰佳なら、なんとかなったり?」
クスクス笑う川崎は、元医者なだけあって、山岡が診るまでもなく、自分の病状を把握しているようだった。
「やめてください。でも…前の病院ではなんと?」
元医者だ。前院でも、きっと包み隠さず説明は受けているだろう。
それでも、川崎がどこまで知っているのかを、山岡も知りたかった。
「ん~、まぁ、好意的に見て、MKのステージ3A期…から、もう3B期に移行してるな~ってところ?」
ははっと笑う川崎の笑顔は、山岡に痛々しく映った。それでも山岡が、感情的な表情を出してはいけない。
「そうですか。こちらでも、詳しく検査を受けてもらうことになりますが…前院からの資料を見る限り、手術適用…には、なると思います」
「うん」
「とりあえずこちらでも血液検査とX線、CTをとらせてもらいます」
「うん」
「血液検査とX線は今日、CTは予約を入れますので、後日またその日に…」
「うん」
「っ…なんで…っ」
淡々と冷静に話していたかと思った山岡が、不意に声を揺らしてしまった。
「っ…すみません」
「うん、ごめん」
感情が走った山岡が謝罪するのに、何故か川崎も微笑しながら謝った。
多分、山岡が口走りそうになった言葉の先がわかったのだろう。
患者なのに、申し訳なさそうに苦笑する川崎に、山岡はギュッと唇を噛み締めた。
「ごめん、ごめんな、山岡先生」
「っ、いえ…違う、違うんです」
「うん、わかってる。責めていいよ」
ははっと笑う川崎は、強い人だと、山岡は思った。
「俺もそうだったから」
「っ…」
「医者のとき、患者にさ、なんでもっと早く受診しなかったんですか!って怒ってた。自覚症状あったでしょ!って…」
「っ…」
「それが、なんだ。そんな偉そうに言ってたはずの自分は、結局症状出ても楽観して、ズルズル受診を引き延ばしてこの様だ」
「っ…」
「だから、山岡先生の言いたいことはわかるよ。ましてや俺は医者だった。いち早く症状に気付いたはずだよな。自分の症状が楽観出来ないことくらいわかったはずだよな。うん、それを責めていい。けど…」
「っ…もう、過ぎたことを言っても仕方ありません、ね。これからどうしていくか、一緒に考えて行きましょう」
ニコリと笑う川崎に、山岡はスッと医者の表情に変わり、患者を安心させるような、ふわりと優しい空気を発した。
「さすが、山岡泰佳。うん。ついていくよ、山岡先生。よろしくお願いします」
ペコンと頭を下げた川崎に、山岡はゆっくりと1つ頷いた。
「ではここまででご質問は」
「…オペ、痛いかな?」
「え?いや…」
「ははっ。麻酔使うもんな。…ケモ(化学療法)って、辛いんだよな?」
「……」
「医者だったくせに。怖いんだ。ははっ、格好悪いだろ?今になって、こっちの気持ちがわかった。なぁ、山岡先生…」
「はぃ」
「怖いよ」
ヘラリと笑った川崎の顔が、なんだか泣きそうに見えた。ポツリと呟かれた言葉は震えていて、けれど山岡は、ふわりと微笑みを浮かべて見せて、パッと髪を掻き上げた。
「一緒に闘って行きましょう。オレはあなたの強い味方になります」
それこそ、力強く。川崎の目を真っ直ぐに見て言った山岡に、川崎はボウッと見惚れて、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。信じるよ」
「はぃ」
スッと握手の手を差し出され、山岡は素直にそれを握り返した。
「ところで山岡先生、今夜暇?」
「え?」
「久しぶりに、食事でもどう?」
急な誘いに、ふと日下部を思い浮かべた山岡だが、本当は気付いていた川崎の握手の手の汗に、頷くことを決めた。
「いいですよ」
「本当?じゃぁ連絡先…変わった?」
「はぃ。番号書きますね」
机の上のメモ用紙を1枚取り、携帯番号を書いて渡した山岡。
受け取った川崎が、嬉しそうに笑う。
「じゃぁ連絡する。大体何時頃がいい?」
「7時頃ですかね」
「了解。じゃぁえっと、採血だっけ?」
「あぁ、はぃ。受付にオーダー票回しておくので、それを受け取って案内の通りに…」
「は~い」
「ではお大事に」
「うん。よろしくな」
「はぃ」
やけに明るさを増して跳ねるように出て行った川崎に首を傾げながらも、山岡は机の上のパソコンを操作し、検査の依頼を打ち込む。
受付事務側に連動して書類が出たことを確認して、新しく作成した電子カルテにカタカタと素早く川崎の診察内容を書き込んだ。
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